番狂わせ② アンドラーシ
王都の郊外にて。馬を駆る主は大層機嫌が悪いようだった。速度を出すのも風を楽しむためというよりは、何か苛立ちをぶつけるためのように見える。
後を追うアンドラーシから見えるのは風になびく主の髪だけ。しかし、きっと眉間には皺が刻まれ口元は固く引き締められているのだろうと思う。愛馬の脚を痛めかねない無理な駆けさせ方から、よほど腹に据えかねることがあったのだろうと思わせられる。
――王宮はよほどお気に召さないらしい……。
行かずに済むならそうしたい、と。非常に珍しく愚痴めいたことを零していたのを思い出して、アンドラーシは密かに心を痛めた。
主は数日前から王宮に滞在している。これまでやむを得ず王都に上る際は、祖父君の屋敷に留まっていたのだが、父王がいよいよ死期が近いと悟ったらしく、血を分けた息子に会いたいという気分になったということだった。
正嫡の王子である人が王宮に住まっていないというのは、冷静に考えればおかしいのかもしれないが――彼が主君と定めた人は、とにかく徹底して王宮も、父であるはずの王も避けていたのだ。本人の意思によるとはいえ、例えば王位を狙っているなどの要らぬ疑いを避けるためとはいえ、アンドラーシにしてみれば不当に冷遇されているという思いを拭えない。優れた資質を持つ方だというのに側妃腹だというだけで王位から遠ざけられるのは、どう考えてもイシュテンの気質に合わないと思う。
「殿下! 王の要件は何だったのですか!?」
――殿下に王位を譲る、とでも言い出したら面白いのに。
沈黙に耐えかねて呼び掛けると、主はちらりとだけアンドラーシの方を振り向いて、また前に向き直った。口を開くのも面倒なのかもしれないし、彼の不遜な好奇心を嗅ぎ取って更に機嫌を損ねたのかもしれなかった。
公言できることでは決してないのだが、彼は主こそ次の王に相応しいと思っている。第一王子も第二王子も、ろくに姿を見たことさえないが、評判だけで主の器に遥かに劣るとアンドラーシは断じていた。
主が戦うと決断してくれれば良い、と思う。もしも王位を狙って立つというなら、彼は迷わずついていく。道半ばで倒れるとしても、主の糧となるなら本望だ。
心に願うことは、埒もない妄想だと彼自身でも分かっている。同じ数の兵を率いて戦えば、主は他の王子たちに勝つだろう。しかし兵の数こそが問題なのだ。上の王子たちはいずれも母の実家の権門を後ろ盾として得ている。イシュテンの王位争いではよくあるように、母の実家の権力によって次の王が決まろうとしているのだ。
兄王子たちの目を慮るならば、主はこれからも敢えて目立った動きを見せようとはしないだろう。それを誰よりも歯がゆく悔しく思っているのは主のはずで、今の不機嫌もその思いに由来するものなのだろう。
アンドラーシに至っては、更に非力な存在だ。忠誠心だけはありながら、主の力にはなれないでいる。こうして気晴らしの遠乗りに付き合うくらいが精々だ。
――歯がゆいことだ……!
主にならって、アンドラーシは彼の馬を駆り立てる。ままならない現実を、一時でも忘れるために。馬と一体になって駆ける疾走感で、自身の運命は自身のものだと――せめて今だけでも信じられるように。
小高い丘から王都とその中心にある王宮を望むと、驚くほどに小さかった。
手のひらに収まるほどの大きさに見える精緻な建物の数々は、まるで何かの細工物のようにさえ思われるほど。あそこに、この国の王とそれを取り巻く妃たちや王子たちが起居し、権力を恣にしようとする者たちの陰謀と思惑が渦巻いているなどとは信じがたい。そう思えてしまうほど、庭園の緑の中に浮かぶ王宮は、人形の家のように作り物めいた雰囲気があった。
「くだらないな」
「殿下……」
騎乗したまま吐き捨てた主の声の鋭さに、アンドラーシは汗が引く思いをした。やっと並ぶことができた主の顔を直視すれば、馬を無理に駆けさせて頬を上気させ息を乱れさせてはいるものの、青灰の瞳はひどく冷めた色をしていた。
「ここから見れば小さなものだというのに、誰も彼も王宮がこの世の全てであるかのように……!」
「王が、何か……?」
主の表情に、怒りと――侮蔑すら読み取って、アンドラーシは先ほどと同じ問いを重ねた。とはいえ馬上で問うた時よりは真摯な気遣う声が出せたはずで、主も今度こそ彼の方を向いて答えてくれた。
「別に、いつも通りだ」
と、言われても、アンドラーシは王と主の常のやり取りなどしらない。そもそもこの父子は年に何度も顔を合わせないのではなかったか。
「……構ってやれなくて悪いというようなことを言われて、気にしていないと答えた」
「それはまた……」
無責任な、と言いかけたのをアンドラーシは辛うじて呑み込んだ。王への、というよりは一応は主の父である者への配慮だった。
王妃は王の子を孕んだ側妃や寵姫を堕胎させ、時には命を奪うこともあると評判だ。名門ハルミンツ侯爵家の出とあって、狙われた女たちやその実家も表立って咎めることができないとか。主の母君が無事に出産に至れたのは僥倖と言って良いことらしい。
主が目立たぬように振舞っているのも、誰よりも王妃を警戒してのことなのだ。
だが、王はこの国の頂点に立つ者ではないか。息子を守りたいなら幾らでも手段があるはずだし、ハルミンツ侯家だとて強く命じれば仮にも王子を害することはできないだろう。
面倒事を避けておいて不遇をかこつ実子に許しを乞うなど、市井の男としても器が小さいとしか思えない。
「それは本当にどうでも良い」
眉を寄せたアンドラーシに対し、主は軽く肩を竦めて見せた。くだらないと吐き捨てた時よりもさらに冷たく色のない声で、父である王への情愛など欠片もないのだと知らせてくる。
「が、結婚を勧めてきたのは愚かとしか言いようがない」
「結婚」
ごく単純なその単語の意味を捉えかねて、アンドラーシは間抜けに繰り返してしまう。余命短い王と、近く起きる後継者争い、そして微妙な立場に置かれた主。その図式のどこに、それが関係してくるのか。さっぱり理解できなかったのだ。
「後ろ盾が心元ないから妻の実家を頼れるようにしろ、と……! 自分にできなかったことを臣下に押し付けようとしているのだ!」
「ああ」
「真実俺の身を案じているならば、後継者を定めてから死ねば良いのだ」
「新しい王に従うと……常々仰っておられますからね……」
次代の王が定まらなければ、主が旗色を明らかにすることはできない。敗れる方の王子についてしまったならば、即ち死を意味することになるのだから。先王に指名された正統な王に従う形を取ることができれば誰も文句は言えないだろうに、王はこの期に及んで王太子を定めるつもりがないらしい。
――王子の母――というかその実家の調整が面倒なのだろうな。
あるいは絶妙な均衡の上に成り立つ有力な諸侯の勢力図を、敢えて崩したくはなかったのだろうか。しかしものには限度というものがあるだろうに。
多分王はどの家のどの娘にしろとも言わなかったのだろう。側妃腹とはいえ第三王子を任せるとなれば、王がその家に肩入れしているように見えるから。その事実によって、後継者争いに介入することになってしまうから。だから、これまた無責任にごく大雑把な指針だけを主に示したのだろう。
その優柔不断さに改めて呆れつつ――それでも、アンドラーシの脳裏に閃くことがあった。思いついたことに励まされ、つい弾んだ声を出してしまう。
「ですが、ならば、どうせなら名家の娘を落とせば良いのでは? 第一王子と第二王子と、どちらが王になろうとおいそれと殿下に手出しできないような――」
「女の力で生き延びたと、そのような風聞に耐えろというのか」
主の鋭い視線で切りつけられて、アンドラーシは最後まで言い切ることができなかった。女のようだとしばしば揶揄われる彼とは違って、主は整っているのに弱さは全く感じさせない容姿に恵まれている。権力争いに巻き込まれる恐れを差し引いても、惹かれる女は幾らでもいるだろうと思ったのだが。矜持高いこの方には耐え難い発想だったらしい。
しばし口を滑らせた臣下を睨んでから、主はふいと目を逸した。王宮の方ではなく、王都の郊外に広がる丘陵へと。
「――それに、子供ができてはまた厄介なことになる。どのような娘もその父親も、了承しないだろうよ」
「殿下……」
権門から睨まれ、子を儲けることもできないかもしれない。そのような結婚が受け入れられるはずもない。自身の立場を冷静に分析した主の声には自嘲の響きが濃く滲んでいた。
――嘆いておられる……? まさか……。
アンドラーシは、結婚はおろか自分が子供を持つことなどまともに考えたことがない。あと数年のうちには考えなければならないのだろうが――釣り合う家の娘を適当に選べば良いだけのことで、主とは全く話が違う。継承権を持った子が増えることで国が乱れることまで配慮しなければならないなど、彼の想像が及ぶことではなかった。
だから、何か悟ったような諦めたような主にかけるべきことが見つからなくて、何となく同じ方を眺めた。
そして、目を瞠る。
「殿下、あれは――」
彼らが位置する高台の麓を、疾駆する騎影があったのだ。王都と各地の都市を結ぶ街道を外れ、道なき平原を駆けている。彼らも似たようなことをしてきたのだが、その馬はどうも不自然に速度を上げすぎていた。何より騎手は長い髪をたなびかせ、衣装の裾を翻した――若い女に見えた。
「暴走、しているのでしょうか」
主の方を窺えば、やはりその一騎に気付いているようで、その駆ける先を注視している。
「無事に止まれば良いですが」
我を忘れて疾駆する馬を止めることはほぼ不可能だ。疲れて脚を休めるのを待つしかない。問題は、それまでに騎手が落馬しないか、馬が石や溝などに脚を取られて転ぶことがないかどうか。さほど高低もない平原だから比較的安全ではあるのだろうが、力のない女では振り落とされてしまうかもしれない。
――まあ運が悪かったのかな。
衣装の色味からして若い女が無残に地に叩きつけられるなら気の毒だが――アンドラーシにとってはあくまで他人事、この距離では手出しも難しい。
だから彼はただ目を背けて別の場所へ行こうと考え、主にそう言いかけたのだが――
「助けるぞ」
「はっ?」
ひと言だけを残して、主は馬を駆けさせた。高所から駆け下りる勢いもあって、その姿は瞬く間に小さくなっていく。
「殿下……!」
慌てて後を追いながら、気付く。主が目指しているのは、暴走する馬そのものではなく、その少し先の地点。なるほど、追いつくのは難しくても駆ける先を予測するのは簡単なこと。何しろ暴走した馬は真っ直ぐに駆けているだけなのだから。
――しかし何の気紛れだ……?
わざわざ面倒そうなことに首を突っ込むとは、いつもの主らしくない。一種の鬱憤晴らしのようなこと、なのだろうか。
心中首を傾げながら、アンドラーシは自身の馬を駆けさせた。




