番狂わせ① エルジェーベト
本編が100話を迎えたということで記念の短期連載です。
ウィルヘルミナ(ミーナ)が独身の頃の話ということで、婚家名を与えられる前の名で呼ばれています。
「マリカ! よく戻った。王宮はどうだった? 王妃と話すのは気疲れしなかったか?」
名家の当主らしくなく、リカードは屋敷の門前で末娘の帰りを待っていた。控えるエルジェーベトの姿など目に入らないとでもいうかのように、馬車から降りるのが待ちきれないとでもいうように。マリカを抱え下ろすようにして出迎える。
「はい、お父様。王妃様も大変良くしてくださいました。お庭がとても綺麗に整えられていて、お花が咲き乱れて――夢のようでしたわ」
「そうかそうか」
王宮を初めて訪れたマリカが頬を紅潮させて訴えるのを、目尻を下げて見守る姿は優しげな父親の像そのものだ。冷酷な政治家としての顔も――閨でエルジェーベトに見せる暴虐も、今は影すら読み取ることはできなかった。
リカードが末娘のマリカを溺愛しているからというだけではない。今日は、この男の野心にとっても重大な一歩となるはずの日だったのだ。
「――で、王子とは話が合ったのか?」
「はい! とても楽しくお話をさせていただきました」
「さすが儂の娘だ。素直で愛らしい――お前にはどんな男も夢中になるだろう」
大きく頷くマリカに、リカードの笑みも深まった。――が、エルジェーベトの心臓は不安と緊張で不穏な鼓動を打っている。マリカはリカードの思惑など知らないから、父の期待はすぐにも裏切られることになるのだ。
――私がお叱りを受けるのかしら。
リカードが娘に怒りを露にすることはないだろう。第一マリカは何も悪くない。しかしエルジェーベトも同様に何も悪いことなどしていない。むしろマリカのためだと思って我慢したのを褒めて欲しいくらいだ。仮に理不尽な叱責を受けるとしたら、しっかりと道理を訴えなければならないだろう、と。彼女は密かに拳を握った。
もちろん乳姉妹のそのような決意に気付くことなく、マリカは朗らかに続けている。
「ティグリス様はとてもお小さいのにしっかりなさっているのですね。本を読むのがお好きということで、一緒に物語を読ませていただきました」
「何……」
ここで初めて、エルジェーベトはリカードの視線を浴びた。マリカに聞くよりも彼女を問い質した方が早いと、この男はよく知っているのだ。
不審と苛立ちの込められたリカードの鋭い目を、エルジェーベトは腹に力を込めて受け止めた。彼女も今日のことでは腹に据えかねているのだ。彼女自身に力がない分、主にはマリカのために正しく立ち回ってもらわなければならない。
「第二王子殿下は、狩りでご不在ということでした」
そのひと言で、おおよその事情を察したのだろう。リカードの顔は怒りと屈辱で朱に染まった。
今日の本来の目的は、第二王子とマリカ――ティゼンハロム侯爵家の末娘の顔合わせだった。ただ王妃や幼い第四王子と歓談するために招待された――などと信じているのはマリカだけ、次代の王の妃を誰にするか、ティゼンハロム侯爵家が第二王子を王として認めるかどうかが関わる重要な席のはずだったのだ。
当代の王妃を輩出し、王子をふたりも儲けたハルミンツ侯爵家は確かに権勢を振るっている。王妃か、せめて側妃に選ばれようと目の色を変える娘たちがいるのも分かる。
しかし、ティゼンハロムだとて由緒も財力も武力も備えた名家の中の名家。決して疎かにされて良い存在ではない。しかも妃として候補に上がっているのが美しく純粋でこの上なく心優しいマリカとなれば、見初められる幸運を喜ぶべきはあちらの方だ。それどころか伏してその白い手を伸ばしてもらうよう乞い願うのが筋だとさえエルジェーベトは信じている。
――なのに……!
悪びれない様子でさらりと告げた王妃を思い出すと、エルジェーベトの腹は怒りで煮えたぎる。
『困った子でごめんなさいね。でも、女同士で仲良くしましょう。打ち解けてからの方があの子も会いやすいでしょうし』
そうとは明言せずとも、見合いのつもりなのは先方も承知していたはず。にも関わらず王子本人が不在とは、ティゼンハロムを――マリカを侮るにも程がある。エルジェーベトが思うに、オロスラーン王子は王妃選びを母王妃に任せたのではないだろうか。嫉妬深く気難しいと評判の王妃の目に叶う女なら誰でも良くて、好みの女は側妃として見繕うつもりではないのだろうか。
狩りとは言っていたものの、獲物が鳥や獣かどうかも怪しいものだ。王子が狙う獲物とは、絹を纏って脂粉の匂いを漂わせた娘たちなのではないだろうか。実家の顔色を窺わなければならない名家の娘より、側妃や寵姫の地位でもありがたがるような身分低い女の方が遊びやすいとでも思っているのではないだろうか。
エルジェーベトの邪推かもしれないが、非常にありそうなことだった。
「ハルミンツめ。図に乗りおって……!」
事実、リカードも彼女と同じ想像を巡らせたようだった。自家の栄達を望むのと同程度に、この男もマリカを愛し幸福を願って止まないのだ。第二王子の思い上がりは、きっと何かしらの報いを受けるだろう、と。エルジェーベトはほんの少しだけ溜飲を下げた。
「お父様……?」
「ああ、何でもない。お前は部屋で休むと良い」
まだ屋敷の門前で、馬車から降りた場所でのやり取りだった。不思議そうに首を傾けたマリカの声で、エルジェーベトは――恐らくリカードも――やっとそのことを思い出した。
詳しいことは後でゆっくり、と。リカードの目は命じ、エルジェーベトも視線を頷かせてそれに応える。ティゼンハロム侯爵夫人は、この王都の屋敷にはいない。夫が不在の間の領地のことを取り仕切っているのだ。だから、リカードが娘の乳姉妹を寝室に呼び出しても、誰も咎めることはないという訳だ。
ともあれ、夜のことはまだ考える必要はない。自室に戻ったマリカがくつろいだ衣装に着替えるのを、エルジェーベトは喜んで手伝った。美しい主の髪や肌に触れるのは、いついかなる時でも彼女の心を浮き立たせるのだ。
「今日もとてもお綺麗でした、新しいお衣装がよくお似合いで」
「ありがとう、エルジー」
日頃からリカードが娘のために金を出し惜しみすることはないが、今日のためには特に豪奢なドレスがあつらえられていた。桃色の絹に、細かな花の刺繍が施された逸品は、ティゼンハロム家の財力を存分に見せつけたことだろう。もちろん、マリカの初々しさや愛らしさを惹き立てる色や意匠であることも間違いない。
「お姉様たちもいらっしゃれば良かったのに……私ばかり、何だか申し訳ないわ」
「皆様、旦那様やお子様がいらっしゃいますから」
真新しい衣装に頬を緩めながら、姉たちへの気遣いも忘れないマリカはやはり優しいと思う。末娘の自分だけが衣装を新調してもらえると聞いた時も、この方は戸惑った表情を見せていた。
「ええ、だから仕方ないのだけれど」
マリカはエルジェーベトが言った言葉を本当の意味では理解していない。リカードの上の娘たちが王宮に招かれなかったのは、夫や子供の世話をしなければならないからではない。既に結婚して婚家名を授かった女は、王妃候補にはなり得ない、というのが真実なのだ。
「マリカ様もご結婚なされば、お姉様方とご一緒する機会も増えますわ」
「そうね……」
ティゼンハロムの姉娘たちは、それぞれ実家を利する相手に嫁いでいる。マリカの夫になるのがどの王子であれ、妹が王妃になった暁には夫ともども新しい王夫妻に仕えるだろう。王妃が今日したように、マリカも親しい者たちを王宮に招けば良いのだ。
着替えが終わると、エルジェーベトは主の長く豊かな髪をほどいた。衣装に合わせて楽な髪型に結いなおすために。しっとりと滑らかに指の間を滑る髪の感触は、毎度のことながらうっとりするほど見事なものだ。
「ねえ、エルジー」
「何でしょうか、マリカ様」
背後に立って髪を梳くエルジェーベトの顔色を窺おうとするかのように、マリカが肩ごしに目線をくれてくる。濡れたように輝く大きな黒い瞳もまた、主の美点のひとつだった。
ただ、今はそれが不安な色を帯びているのが気にかかる。
「私もそろそろ結婚する、のよね……。お父様がお相手を探してくださっている。王子様とお会いするのもそういうことなのでしょう?」
オロスラーン様には会えなかったけど、とマリカは小さく呟いた。
「マリカ様。不安でいらっしゃるのですね」
主の思いは分からないでもない、と思う。親の決めた男と添うのが良家の娘の習いとはいえ、相手と会うこともできなかったのでは結婚に夢を見るどころではないのだろう。ましてマリカは並の令嬢よりも遥かに大切に、世のことを知らぬようにあくまでも無垢に育てられた。
「そうね。お父様やお母様とお別れするのも寂しいし……」
マリカが頭を預けてきたので、エルジェーベトは手を止めて主を背中から抱きしめた。
「婚家名をいただくのも。当たり前のことではあるけど――まるで別の人になってしまうみたいじゃない……?」
「旦那様から呼ばれる名前ですもの。きっと嬉しいと思うことができますわ」
母から娘に、姉から妹に。イシュテンでごく当たり前に言われる気休めを、エルジェーベトは口にした。正直に言えば、彼女自身も馴染んだマリカという名を夫に奪われるようで、決して面白くはなかったけれど――でも、主の心を安らがせなければならなかった。
「エルジーもそう思っているの? 私、エルジーがエルジーでなくなってしまったら何だか悲しいわ」
「殿様は私にも良い方を探してくださると仰っていました。マリカ様がどのお方に嫁がれても、不相応でない家柄の方を。マリカ様と一緒にいるためですから、嬉しくて名誉なことだと思っていますの」
「そうなの……」
エルジェーベトは自身の全てをマリカに捧げると、とうに決めている。だからマリカを不安がらせないであろう、穏やかな声を保つことができた。椅子に掛けた主を背中から包むように抱きしめて頬に口付けると、甘えるように力を抜いて寄りかかってくれる。その柔らかさと温かさがこの上なく愛しかった。
乳姉妹が結婚を望んでいない、などと。マリカが知る必要はない。いや、特別に嫌がっているということでもないが、とにかくエルジェーベトは年頃の少女らしい夢想とは無縁だった。何しろ彼女は既に男を知っている。夫など――彼女を守り慈しむ存在ではなく、どうせ虐げ弄ぶだけの存在だろう。
リカードが夫を見繕うというのも、好意などではなく一種の罪滅ぼしのためだ。戯れに手をつけた使用人の体面を守り、娘に乱行が知られないようにするためというだけ。
――でも、ずっとマリカ様にお仕えできるなら。
苦痛も屈辱も全てエルジェーベトが引き受ければ良い。王子たちの気性についてはどうにも信頼できたものではないが、ティゼンハロムの権勢があれば蔑ろにすることはできないはずだ。王妃だろうと新王だろうと、マリカを傷つけようというなら、リカードに注進するのが彼女の役目になるだろう。
「マリカ様、第一王子殿下とのお約束は三日後です。それまで王都の見物でもなさってはいかがでしょう? 気楽な格好で、城下の店など覗いて見るのです。お心も晴れるのではありませんか?」
「そうね……」
宥めるように髪や頬を愛撫しつつ囁くと、マリカはやっと微笑んでくれた。もともと朗らかで堅苦しいことは好まない人なのだ。今日の席でも、王妃と語らった緊張で気疲れしたに違いない。
「それなら、馬に乗りたいわ。街を見るのも良いけれど。王宮を高台から見るととても綺麗なのだと、王妃様も仰っていたもの」
「良い考えですわ。ちょうど季節も良い頃ですものね」
――マリカ様がお気を遣わない程度に護衛を手配しなければ……。
動きやすい衣装に、穏やかな性格の馬も。リカードは顔を顰めるかもしれないが、マリカのためだからと言いくるめなければならない。
やるべき仕事を頭の中で整理しながら、エルジェーベトはマリカに微笑みを返した。




