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09 消したい記憶 アンドラーシ

注意・BLネタです。苦手な方はご注意ください。

 アンドラーシは寝台に寝転がって豪奢な刺繍の天蓋を眺めていた。東方に棲むという動植物を精緻に描いた意匠は、姉か妹が見たら喜んで真似ようとするものだろう。しかし、男にとってはただごちゃごちゃとした彩りに過ぎない。

 ならばなぜそんなものを眺めているかというと、他に見るに堪えるものがないからだ。

 脱ぎ散らかした衣服、寝台に投げ出した彼自身の手脚。ことに、彼の素肌をまさぐる手指やら胸元に頭を埋める中年男の薄くなった頭頂やらはちらりとでも視界に入れようなものなら吐き気を催しそうで――殴り飛ばしてしまうに違いなかった。


「恐ろしいか? 悲鳴を上げても構わないぞ」


 ――誰が恐ろしいか。バカめ!


 頑なに顔を背けたままのアンドラーシをどう考えたのか、男は楽しげに笑った。生ぬるい吐息が肌にかかるのがまた厭わしくてならない。

 声に出して罵ってやりたいところだったが、男の機嫌を損ねる訳にはいかないし、万が一喜ばせたりでもしたら一層忌々しいので、罵倒は心中に堪えた。

 これは取引なのだ、と何十回目に自身に言い聞かせる。耐え難いしバカバカしいし他人に知られようものなら絶対に、命にかけても口を封じなければならないことではあるが、この時間を耐え切ればこの男は主君につくと約束したのだ。




 王の余命が短いようだ、との噂が近頃まことしやかに語られている。そして、一応は王子である主の言葉によると、それは事実ということだった。まだ寿命というほどの年齢ではないが、長年に渡る漁色が身体に祟っているらしい。


『今少し長生きして後継者を定めてから死ねば良いのに。まったく折の悪いことだ』


 アンドラーシが主と定めた人はそう吐き捨てた。父親の生死にさして心を痛めた様子ではないのは安心すべきことだったが、主の言うことも切実だった。

 大勢が従う王太子がいないということは、王亡き後は熾烈な後継者争いが起きるということだ。当代においては第一王子と第二王子の争いとなるだろう。王妃腹でまだ幼い第四王子はまた別として、側妃腹で後ろ盾の弱い彼の主は大変に微妙な立場に置かれることになる。

 敗者の側につけば命がないのは当然のこと、勝者の側でもいつ疑いを招いて死を賜るか分からない。なまじ主が優れた人だけに、それは大いにありそうなことだった。もう何年か後、後継者が定まったならばまた立ち位置を決めやすい、と主が考えるのも無理はない。


 アンドラーシの周囲もうるさくはあった。どの王子につくか、敗れた場合に家だけでも残る算段をどうつけるか、切実に悩む者も多いから。

 その点、早々に主を定めた彼は気楽なものだった。彼が戦場で散ったとしても、姉か妹が婿を取るのも良いし、親戚筋から男を連れてくるのも良い。どのみちムキになって取り潰されるほどの大した家でもない。彼が死んだとしてもどうにでもなるはずだった。


 だが、主に対してはそこまで割り切ることはできない。王に相応しいと見込んだ人だ。甘やかされた兄王子たちに潰されるのを黙って見過ごすことはできない。命を懸けて主のために戦う覚悟はとうに定まっているが、彼には何分力がたりない。

 そこへ声を掛けてきたのがこの男だった。爵位も財産もある。ついでに大声では言えない趣味も持っている。そんな男が、アンドラーシに告げたのだ。思い通りにさせたら彼の主に与してやる、と。




 逃げるように思考を他所に巡らせている間にも、男の手はアンドラーシの身体を這い回り、彼の肌を粟立たせた。


「美しい肌だ……」


 ――こいつは何を言っているんだ?


 陶然と呟く男の感性が分からなくて、いっそ笑い出したくなる。

 どう考えても女の肌の方が柔らかくて滑らかで抱き心地良いに決まっているというのに。彼は、まあ母親似の顔なのは認めるが、歴とした男だ。日頃の鍛錬で痣や擦り傷も幾つもこしらえている。美しいなどと形容されるいわれはないはずだった。

 笑いを堪えて喉を鳴らすと、男が顔を上げた。


「どうした。泣いているのか」


 抑えた失笑を嗚咽と聞き違えたらしく、男が顔を上げてにたりと笑った。男の欲望にぎらついた目も、その対象が自分自身なのも耐え難くて顔を背けようとすると、頬に手を添えられて強引に目を合わされる。唇をなぞる指を噛みちぎりたい衝動と戦うのには、かなりの気力を要した。


「ファルカスのことでも考えていたか。健気なことだ」


 そして、汚らわしい舌が主の名を呼び捨てるのに眉を顰める。


「……殿下に何の関係がある」

「やっと声を聞かせてくれたな。やはり想い人のことは気にかかるか」

「想い人だと!?」


 目上かつ歳上の男に対して、形ばかりでも敬意を払う気はとうに失せている。それでもなお聞き捨てならない単語に、アンドラーシは半身を起こして目を剥いた。


「違うのか? あの王子も見た目は整っているではないか。勝ち目のない側妃腹の王子に肩入れするのはそういうことではないのか」

「バカな……っ!」


 あまりに心外かつ下世話な言に絶句する。

 彼も主もごくまっとうに女を好む。立場上、それに厳しい祖父君の手前、主はおおっぴらに遊んでいるという訳ではないが、それなりに浮名を流している。女が好む容姿に恵まれたアンドラーシも同様だ。断じて、おぞましい男色の趣味など持ち合わせていない。

 怒りのあまりに声も出ない彼をどう解釈したのか、男は得心したように何度も頷いた。


「その様子だとファルカスの手がついているという訳ではないのだな。この取引も言ってはいないのか」

「言えるか!」


 このような後暗い取引は絶対に主の良しとするところではない。怒鳴られ殴りつけられるなら良い方で、怒りに任せて斬り捨てられても文句は言えない。何より恐ろしいのは臣下に相応しくないと縁を切られることだった。

 しかし、彼の必死の形相はまた何か違ったように取られたらしい。


「そうかそうか」


 男の口元がだらしなくにやりと緩む。一度殴らせろと拳が震えるほどに、苛立たしい笑顔だった。


「あの生意気な王子を出し抜けると思うと小気味良いな。安心しろ、約束通りファルカスが生き延びるよう計らってやろう――まあお前次第だが」


 男の顔が眼前に迫ったので目を閉じた時、扉の外が何か騒がしくなった。慌ただしい足音と、人の呼び声。それがこの部屋に近づいている。

 男がアンドラーシから手を離し、不快げに唸った。


「何事だ。人払いしろとあれほど――」


 男の言葉尻は扉が蹴破られるように開け放たれた音にかき消された。


「取り込み中失礼する。臣下が邪魔をしているようなので迎えに来た」


 男の身体が邪魔で声の主は見えない。しかし、十分に馴染みのある主の声に、アンドラーシはそっと息を吐いた。姿を見るまでもなく主の表情はよく想像できた。それこそ牙を剥いて唸るファルカスのように、全身から怒気を発しているに違いない。


 ――ああ、すごく怒ってる。


 問題はその怒りがどの程度彼に向けられているのか、だが……独断で汚い取引に手を染めた自覚はあるだけに楽観視することはできなかった。


「き、貴様には関係のないことだ! この者が自分からやって来たのだ!」


 男に指さされて、アンドラーシは主の視線を直に浴びることになった。青灰色の目が、怒りに燃えて鋭く細められている。予想通りとはいえ侮蔑さえ混じった目で射られるのはやはり恐ろしく、辛いことだった。


「殿下。これは――」

「経緯はどうでも良い。さっさと服を着ろ、見苦しい」


 多分何を言っても無駄だろうとは思いつつ――何しろ半裸で男と二人、寝台の上にいる状況だ――試みた弁明は、うるさげに封じられた。聞く耳持たぬと暗に言われて、慌てて散らばった衣服をかき集める。


「愚かな! 見目の良い側近を惜しむのか。明日をも知れぬ側妃腹の生まれのくせに、この私の不興を買うと――」

「黙れ」


 主は徹底して話を聞く気がないようだった。三十以上歳上の男を眼光一つで黙らせて、狼が牙を見せつけるように嗤う。


「俺の生死に貴様の力は何の関係もない。余計な真似をした臣下を叱ろうというだけだ」


 ぎろりと見下ろす視線に急かされるように、アンドラーシは何とか衣服を再び身に着けた。が、主の元へ歩もうとする足を掴まれる。


「お前も納得したことだろうが! 今更嫌とは言わせぬぞ!」


 ――顔を蹴ってやろうかな。


 主の顔色を窺いながら、アンドラーシは剣呑な考えに取り憑かれた。まあ確かに男の言うのは全くの嘘ではないが、主のためなら仕方ないと諦めたのも事実だが、あからさまに怒りと不快を露にしている主の機嫌をこれ以上悪くさせるような言葉は封じたかった。


「悪いようにはしない、私から離れられぬように可愛がって――」

「豚め。耳が汚れるな」


 アンドラーシの頬を風が切り――主が一瞬で距離を詰めて拳を振るったのだと気付いた時には、男は顔から血を流して寝台に倒れ伏していた。

 我慢が切れるのは彼よりも主の方が早かったようだ。


「来い。残りたいなら止めはしないが」

「い、いえ。参ります」


 呆然としたのも束の間、本当に踵を返して出ていこうとする主について、アンドラーシは忌まわしい部屋を後にした。もちろん顔を抑えて悶えている男を踏みつけるのは忘れない。




 騎乗して家路につく途中、主は独り言のように呟いた。


「あの豚はそもそも俺に打診してきたのだ。しつこかったのが最近止んだから怪しんでいたのだが。お前がこれほど愚かとは思わなかった」


 そして深々とため息を吐いた。


「間に合って、良かった」

「殿下に案じていただけたのは光栄ですが……男なのだから貞操も何もあったものではないと思いますが」


 いつもの主らしからぬ思いやりに満ちた言葉に、アンドラーシは居心地悪く馬上で身じろぎした。あの男の妄言が当たっているはずはないと、分かっているのだが。それでもあの忌まわしい一時が彼の精神に暗く影を落としているようだった。


「バカめ。お前のためではない」


 振り向いた主の顔には、怒りだけでない感情が浮かんでいた。あまり見たことがないが、これは嫌悪と――もしかしたら恐怖、なのだろうか。


「人に知られれば俺が命じたと思われるのだ」

「ああ」


 これが他の王子や有力者の側近の話であったら、と考えたら答えは明らかだった。アンドラーシは率先して笑いものにしていたに決まっている。


「確かに。考えが足りませんでした。申し訳もございません」

「分かれば良い。二度と出過ぎた真似はするな」


 恥じ入って俯けば、主は短く応えて前を向いた。恐らく許してくれたのだろうと思ったが、気まずい沈黙に耐え変えて、アンドラーシはつい軽口を叩く。


「それにしても、なぜ私だったのでしょうね? ご存知のように私には姉も妹もいるのです。そちらを差し出せと言われたなら、さすがに即答はしなかったでしょうに。全く訳の分からないことです」

「知るか」


 そして吐き捨てるような主の口調に、また機嫌を損ねてしまったのかと危惧したのだが、しばしの沈黙の後、主はやや穏やかに言った。


「いくら考えても分からぬし分かりたくもない。ならば忘れることだ。俺もこの件はなかったことにする」


 確かにそうする他ないと得心したので、アンドラーシも従順に頷いた。


「まことに。ご寛容に感謝申し上げます」




 そして時は流れて数年後――


「一体なぜ俺なのだ?」


 アンドラーシはあの男に問いかけていた。とはいえ答えは期待していない。何しろ胴から離れた生首に問うているのだから。答えようにも術があるまい。

 それでもなお疑問を口にしてしまうのは、つい先程の戦闘で起きたまことに不可解な事柄のためだ。


 先王亡き後、この男は第一王子についた。それはアンドラーシのせいかもしれないしそうでないかもしれない。とにかくティゼンハロム侯爵が主の後ろ盾についた今となっては大した問題ではなかった。戦場で見えることになったのも。まあそういうこともあるだろう。だが、アンドラーシの姿を認めた瞬間、この男は叫んだのだ。捕らえよ、と。


 家格の差からして、彼の家に賄える程度の身代金になど興味はないだろうに。捕らえて何をする気だったのか。考えるほど、戦場でもついぞ覚えたことのない恐怖が背筋を走るのだ。


「――ここにいたか。無事だったようだな」


 手元に落ちた影に振り向けば、愛馬にまたがった主が彼を見下ろしていた。全身血に染まってはいるが、返り血である証拠に表情はごく平静だった。当然とは思いつつ、それでも主の無事には安堵する。


「陛下」


 そして跪きつつ口にするのは、まだ呼び慣れない至尊の称号。それでもこの方が王になったのだと思うと感慨深い。


「怪我はないようだな。何を愚図愚図していた」

「いえ、少々考え事を」

「勝ったとはいえ戦場だぞ。呑気なことだな」

「それでも首級は上げました。ご覧下さい」


 呆れた顔の主に首を示すと、露骨に顔を歪めた。その表情に、主もあの件を忘れてなどいないのだと思い知らされて、アンドラーシは改めて過去の選択を悔い、恥じた。


「――よくやった。相応の褒美をとらせよう」

「ありがたく存じます」


 ややあって告げた主は、やはりアレはなかったことにしたらしい。彼としても異存はないので謝辞を述べてそれに従う。

 そして主は話題を変えた。今回の戦闘の結果へと。


第一王子ザルカンは討った。後は第四王子ティグリスだ。ティゼンハロム侯はすぐにも殺しておきたいようだが……」


 義父となった男への愚痴めいた口調に、アンドラーシは軽く笑った。ティゼンハロム侯が野心を持って主に近づいたのは確かだろうが、所詮世代が違う、年老いていくだけの男だ。最後に勝つのは主に違いないと、彼は信じている。


「今や陛下こそが王でいらっしゃいます。何事もお心のままに。僭越ではございますが、ティグリス殿下が成長して立ち向かってくるのを討つ方がお好みでは?」


 諂いなどではなく本心からの言葉だったのだが、主には苦笑されてしまった。


「王といっても何事も思い通りにはならぬ。まったく忌々しいことだが――まあどうにもならぬことを思い悩んでも仕方ないな」

「陛下は必ず名実ともにこの国の王とおなりになるでしょう」


 信頼込めて見上げれば、主の表情がわずかながら晴れた。


「だと良いが。

 ――行くぞ。まだやるべきことは山ほどある」

「御意」


 アンドラーシは立ち上がると自身の馬に跨った。

 今度こそあの忌まわしい記憶を忘却の彼方に追いやって。

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