没エピソード① 春の約束 シャスティエ
6章頃のシャスティエとミーナ、マリカのエピソードです。
一話にするには長さも起承転結も足りなかったので活動報告だけで紹介していたものです。
王妃と王女の居室に足を踏み入れた瞬間、季節を先取りしたかのような鮮やかな色彩がシャスティエの目に飛び込んできた。
「まあ……!」
感嘆のため息を漏らしながら部屋を見渡せば、色とりどりの生地が並んでいる。薄い紅、柔らかい青、明るい黄色。花を思わせるのは色合いだけではなくて、透けるように薄く軽やかな絹やさらりとした麻の質感から春や夏の衣装のための布地だと分かった。
「最近は雪で外遊びもままならないでしょう。だから、少し早いけれどマリカの衣装を見てあげようと思って」
シャスティエが目を輝かせたのを見て取ったのだろう、ミーナが嬉しそうに微笑んでいた。雪の白ばかりの寒い季節に、春の花畑のような華やかさを見せてくれたということだろうか。人質などのためにそこまでの気遣いを見せてくれる、この人の優しさこそシャスティエにとっては何よりの慰めだ。
「春までには大きくなっているでしょうから、縫い始めるのはもっと先だけど。シャスティエ様にも選ぶのを手伝っていただきたいわ」
「マリカ様ならどんな衣装でもお似合いですわ」
ミーナとシャスティエが見つめる先で、マリカは忙しなく部屋を行き来して一つ一つの生地を手にとって吟味している。顔かたちが愛らしいのはもちろん、母譲りの艶やかな黒髪は、どんな色のどんな生地にも映えるだろう。
「お母様、良いのがないわ」
しかし、王女は母のもとに駆け寄ると、思い切り唇を尖らせた。
「まあマリカ、どうして?」
「どれも素晴らしいものだと思いますのに」
首を傾げる大人たちが手近なもの――薄紅色のふわりとした絹を広げて見せても、マリカは難しい表情で首を振った。
「ふわふわのは可愛いけど……すぐ破れちゃうもの」
「まあ」
王女は走りやすさや隙間の潜りやすさを重視しているらしい、と気付いてシャスティエとミーナは顔を見合わせて苦笑した。
「いつまでもお転婆で困りものね」
「いいえ、元気でいらっしゃるのが何よりですわ」
「マリカ、少しは大人しく座っていられないのかしら。あなたは王女様でしょう?」
「だって、座ってるだけなんてつまらないもの」
やんわりとたしなめられた王女は可愛らしく顔を顰め――ふと、シャスティエを見上げて破顔した。
「でも、お姫様のお話は好き。お姫様がいてくれたら良い子にできるかもしれないわ」
「マリカ様……」
「新しいお服を作ったら、またお話してね。お外で――お花の中で!」
期待に満ちた目で見上げられて、シャスティエは答えに窮した。シャスティエが知っている童話は、ミリアールトの者なら誰でも知っているようなもの。それでも外国のことを知らないマリカには目新しく面白いらしいのだが、あまりにも他愛なくて騙しているような気分になってしまう。
それに、お姫様、と呼ばれるのも落ち着かないこと。この王女はシャスティエのことを呼ぶときに、自身と同じ称号を使うから。
今のこの国に王女はマリカひとりだけ。当然、普通ならばお姫様、と呼ばれるのもマリカだけ。けれどこの少女は、自分も誰かに対してその呼び方を使ってみたいと思ったらしい。光栄にもシャスティエはマリカの目にいかにも「お姫様」に映るらしいのだが――既に王女でない身には大変複雑な呼ばれ方でもある。
「……ダメなの?」
答えがないのを案じるように、マリカの声も表情も曇る。できれば笑顔にしてあげたいが、シャスティエとしても簡単に頷くことはできない。
だって、春のことなど彼女自身にも分からないから。ティグリスの誘いに乗るかも決めかねているし、ミリアールトで何か起きればいつ首を失うか分かったものではない。
喜ばせておいて約束を守れなければ、かえって落胆させてしまうだろう。そう、理性では思うのだが……。
「お母様からもお願いして。絶対に良い子にするから」
母のドレスの裾を引っ張って懇願するマリカに、娘を宥めようとしつつも期待を捨てきれない様子ですがるようにこちらを窺うミーナに、シャスティエはあっさりと陥落した。
「承知いたしましたわ、マリカ様。春になったら春のお話しをして差し上げましょう。ですから、可愛らしくてお利口なところを見せてくださいませね?」
すると、マリカは泣きそうな顔から一転して満面の笑顔で頷いた。
「うん! ありがとう、お姫様!」
少女の愛らしい微笑みはシャスティエの心に一足早く春の暖かさをもたらし――次いで、真冬の寒さを思い出させた。
――私は、本当にお話をして差し上げられるのかしら……。
否、それは、寒さではなく測り知れない未来への不安と恐れだった。
マリカはシャスティエのことをprincessに相当する単語で呼んでいます。絵本から抜け出してきたお姫様のような綺麗で優しいお姉さん――に、彼女には見えているので。
一方、作中でシャスティエが「姫君」と呼ばれる時はladyに相当する単語が使われています。高貴でそれなりの敬意を払うべき相手ではあっても、シャスティエは既に王族ではないとほとんどの人が承知しているからです。アンドラーシあたりがprincess呼びをしようものならシャスティエはむしろブチ切れます。「元」王女にしたのは貴方たちじゃないヽ(`Д´)ノ と。
それが、子供とはいえマリカが相手だと地雷を踏み抜かれても「仕方ないか」と苦笑で済ませてしまうシャスティエでした。それくらいマリカとミーナが好きになってしまっているのです。