07 職業意識 ブレンクラーレの通訳
**5章読了後に読むことをお勧めします**
5章「王たる者たち」「予期せぬ邂逅」の裏で起きていたエピソード。
「――例えば墜死の塔はご存知か。幾世を経てもいまだ健在ゆえ、殿下にもご覧に入れようか」
イシュテン王の言葉はマクシミリアン王子に向けたはずのものだった。しかし、飢えた狼のような鋭い目線は、確かに彼に向けられていた。王子はイシュテン語を解さず、王はブレンクラーレ語を解さない。だから――光栄にも摂政陛下に選ばれた通訳である――彼が間を取り持たなければならないのだ。
――よりによって墜死の塔の故事を引くとは。
彼は乾ききってひび割れそうな唇をそっと舐めた。
イシュテンの文化はブレンクラーレに劣るとはいえ、王が主催し他国の王太子をもてなす席だ。酒も料理も上質のものが供されているし彼も多少なりとも相伴にあずかっている。だが、王子の無神経な発言を忠実に訳さなければいけないという重圧がもたらす心労により、彼の背は汗に濡れていた。いかな美酒であろうと、彼の渇きを癒すことなどできないだろう。飲む端から汗となって噴き出してしまっているのだから。
王子は墜死の塔の故事を知らなかったらしく、朗らかな笑顔で首を傾げた。
「あいにく存じませぬ。是非お見せいただきたいものです」
――何をバカなことを!
彼は心の中で絶叫した。例え故事を知らなくとも、イシュテン王の剣呑な目つきや、王妃の父の呆れと侮蔑の混ざった表情、何より目の前の彼の顔色を見れば何か不穏な喩えだと分かりそうなものではないか。どうしてこの王子は自国の王宮で令嬢を口説く時のような爽やかな笑顔を保っていられるのだろう。
数代前のイシュテン王は、自国の神を侮ったブレンクラーレの大使を高い塔から投げ落とした。王の真意は、これ以上不愉快な発言を続ければ同じ目に合わせるぞ、という脅しなのだ。黙れという命令に近い。
――恐らくブレンクラーレの王子ならば当然理解するものと思っているのだろうな。
脅したつもりが笑顔で見てみたいなどと答えられたら、イシュテン王はより怒るだろうか。かつての大使に対するのと同じ真似ができるものならやってみろ、という挑発に取られはしないだろうか。
彼の目は王と王子の間を忙しく行き来した。両者とも、彼が口を開くのを待っている。彼がいなければ、イシュテンの戦馬にも越えられぬ言葉の壁が立ちふさがっているのだから。
――殿下の答えを、偽るか?
恐怖と焦りのあまりに、そのような考えさえ浮かんでしまう。通訳としては決して為してはならないこと、しかしこの場の険悪な空気のただ中にあっては、逆らいがたい甘い誘惑に思われた。
そもそも通訳とは、異なる言語を話す者の語ることを、もうひとりが解する言語に「置き換える」以上のことをしてはならない。例えば明らかな誤りがあったり、自身の信条と異なる発言があったりした場合でも、忠実に元の発言を訳さなければならないのだ。
いついかなる場合も捏造や、捻じ曲げた言葉を伝えるようなことはあってはならない。それが、通訳を志す者に最初に教えられる掟なのだ。
そして墜死の塔の故事は、彼の職にある者にとっては単にイシュテンの野蛮さや残酷さを語るものだけではない。職分を全うすることの意味を教えるものでもある。
そこまで踏み込んで語る歴史書は少ないが、塔から落とされたのは口を滑らせた大使だけではない。彼はイシュテン語を知らなかった――イシュテンについて今少し詳しかったなら、宴席だろうと酔っていようとそのようなことは口にしなかっただろう――から、当時のイシュテン王に大使の発言を伝えたのは傍に控えていた通訳だった。
外交の場で通訳を務めるほどの人物だから、戦馬の神を軽んじる言葉がイシュテン王を激怒させること、結果として非常に深刻な事態を招きかねないことは分かっていただろう。にもかかわらず、その通訳は忠実に職務を果たし、職務に殉じたのだ。
皮肉な見方をすれば、その通訳はイシュテン王が発言者と通訳では考えていることは別なのだと理解してくれるとでも期待していたのかもしれないが――とにかく、ブレンクラーレでは彼は通訳の鑑として伝えられている。
まあ昔の話は置いておくとして、彼が考えるべきは今、この場での対応だ。奇しくも、彼もまた墜死した通訳のように職業意識を試される場に居合わせることになってしまった。
――どうする? どう答える?
彼の額を汗が伝う。冷や汗だ。集った人々の熱気で、広間の温度は蒸し暑いほどになっているはずだが、彼にはその熱がさっぱり感じられなかった。
彼の頭にあるのは、ただ一つ。即ち、マクシミリアンの発言を一言一句違えずにイシュテン王に伝えるか、それとももっとあたりさわりのない言葉に置き換えるか、という問題だ。
イシュテン王は割と礼節を弁えた人物のようだ、とはこの数日で察することができた。だが、マクシミリアンの度重なる空気を読まない発言にさすがに苛立ちも募っているようにも見える。墜死の塔に新たな逸話を付け加えようなどと思いついたりはしないだろうか。
高所から突き落とされる時の風の感覚を思い描いて、彼の肌には鳥肌が立った。あの通訳のように、諾々として自らを窮地に追い込む言葉を吐くことは、彼にはできそうになかった。
そこへ、ブレンクラーレの睥睨する鷲の神が授けてくれたものだろうか、天啓のようにある考えが舞い降りた。
――王太子殿下の御為、ということにはならないか!?
彼の舌に懸かっているのは、ただの大使の命などではない。それよりも遥かに重く、何ものにも代え難い、ブレンクラーレの唯一の王子の命の筈だ。摂政陛下アンネミーケの唯一の息子でもある。その人を救うためであれば、彼の通訳としての倫理感など些細なものだと言って良いのではないだろうか。
「殿下……」
彼はブレンクラーレ語で王太子に語りかけた。答えを待つイシュテン王の視線は恐ろしかったが、待っていてもらわなければならない。あと数秒で良いから王の忍耐が保つことを、彼は彼方にいるであろう鷲の神に切に祈った。鳥の姿だからと夜は眠っているということがなければ良いのだが。
そして、彼は早口で墜死の塔の逸話を説明した。イシュテン王のように狼を思わせる凄みが備わっていれば、とないものねだりをしつつ、精一杯低い声で自国の王太子を脅す。
「イシュテン王は故事をなぞると脅しているのです。どうか、これ以上怒りを買うような言動は慎んでくださいますよう」
「そんな……これくらいのことで……」
――これくらい、と思っているのは貴方だけだ!
「イシュテンは野蛮な国柄なのです。些細な事柄を捉えては武威を見せつける機会にするのです。ブレンクラーレと同じ振る舞いという訳には参りません」
「そうなのか……」
呑気な王子も、重ねて言い聞かせてやっと顔色を青ざめさせた。イシュテン王をちらりと窺い、怒りを抑えた目の色に今頃気づいたのか軽く身震いをしている。
「それには及ばないとお答えしてくれ」
「御意のままに」
彼は心から安堵すると王子の呟きをイシュテン語に訳した。王も満腹した猛獣のような笑みを見せるのを確認して、ようやく最悪の事態を脱したのだと実感できた。
王子の発言を誘導したのも通訳としてはあるまじきこと、分を越えたことではあっただろうが――少なくとも、彼は嘘を伝えなくて済んだ。そのこともまた、彼にとっては救いだった。
その後はさすがにマクシミリアンも口数を減らしたので、彼は酒や食事を楽しむ余裕ができた。
そして宴も無事に果て、一行は逗留先のティゼンハロム侯爵邸に戻ることができたのだが――
「今、何と言った?」
彼の苦難も心労もまだ終わってはいなかった。ティゼンハロム侯――王の義父でもある権力者に睨まれて、彼は首を竦める。助けを求めるようにマクシミリアンの方を見るが、もちろんこの王子に険悪な空気を察する能力などある筈もない。へらへらとした笑顔は恐らく老侯爵の神経を逆なでするだけなのだろうが、王子がそうと気付くことはなさそうだった。
――屋敷に引きこもるのではなく、イシュテンの王都を実際に歩いてみたい。民の暮らしがどのようなものかこの目で見るために。
マクシミリアンはティゼンハロム侯にそう切り出したのだった。それだけなら――警備の懸念などはあるのだろうが――さほど問題ではなかった。だが、彼の国の王太子であるらしいこの青年は、実に屈託のない口調で付け加えたのだ。
「婚約者への土産話に女性の風俗が知れるところに行ってみたいものです。衣類や宝飾品の店や――娼館など」
王子はさりげなく付け加えたつもりなのだろうか。どれほど上品な発音でも、その単語のいかがわしい響きを誤魔化しきることなどできなかったが。ともあれあまりに突然に現れた「娼館」という一語を訳する時に彼は危うく舌を噛みそうになり、ティゼンハロム侯の疑念を招いてしまったのだ。
「――娼館など」
最後の一言をもう一度繰り返すと、老侯爵は疑わしげな眼差しで彼を眺めて決めつけた。
「貴国の王子は婚約者に娼館通いを語るというのか。聞き違えか言い間違えであろう」
非常にもっともな疑問だった。しかし残念なことに彼はごく正確に訳したのだ。能力を疑われることと、自国の恥を晒すこと。どちらが原因かは分からなかったが、口の中に苦い味を感じながら、彼は弁解した。通訳とは本来は自分の言葉を語らないものなのだが、と思いつつ。
「間違いではございません。娼館。身体を商品にする類の女がいる場所。殿下は確かにそう仰いました」
「バカな」
ティゼンハロム侯爵は、依然として信じがたいという表情で彼と王子とを見比べた。だが――
「陛下が寵姫をお連れでなくて残念でした。私などには見せることはできないということだったのでしょうか。代わりと言っては何ですが、イシュテンの花を楽しみたいと思いまして」
「……なるほど。承知いたしました」
彼がもはや無表情で訳した王子の言葉に、侯爵は辛うじて納得してくれたようだった。彼の訳の正確性を、ではない。この王太子はどうしようもないということを、だ。
――王に側妃や寵姫がいたら口説くつもりだったのかな……。
当代のイシュテン王には寵姫も側妃もいないし、本人もそう明言したのだが、マクシミリアンは信じていないようだった。
寵姫たちがいたとして、万が一マクシミリアンが彼女たちに言い寄っていたら、墜死の塔の逸話以上に下らない戦争の原因になっていたかもしれない。イシュテン王が王妃だけを寵愛しているらしいのは恐らく僥倖だったのだろう。
「一族の若い者が贔屓にしている館があったはず。――あの者どもの放蕩が役立つ日が来るとは、世の中何があるか分からぬものだ」
ティゼンハロム侯は、マクシミリアンから目を背けて吐き捨てた。
「通訳殿は同行されないのですか」
部屋で休ませて欲しい、と告げると王子の護衛は心細そうに眉を顰めた。すがり付いてきそうな勢いだったが、彼は頑なに首を振った。
「心身ともに疲れきっているもので。疲れのために訳し間違いがあってはいけません」
狩りといい宴といい、王や侯爵を怒らせたマクシミリアンの言動の数々を思い浮かべたのだろう、相手はああ、と呻いた。それでも異国の街にあの王子と繰り出すのは不安なようでなおも食い下がる。
「ですが私も殿下もイシュテン語は……」
「娼館での何を通訳すると仰いますか。それに、挨拶くらいならブレンクラーレ語も通じるでしょう」
少なくとも、大抵の国の王都なら。ことイシュテンに限っては当てはまるかどうか若干不安ではあったが、彼はこれで押し通すつもりだった。マクシミリアンは、見た目だけなら爽やかな好青年なのだ。言葉など通じない方が面倒がないに決まっている。
「確かに。男と女のやり取りを訳すのはそなたも決まりが悪かろう」
まだ彼を連れ出そうと必死な護衛を他所に、王子はいち早く納得した。早く娼館に行きたかったのかもしれない。そして主が了承したとあっては、護衛も諦めない訳にはいかない。
「本当に大丈夫だろうか……」
「ご無事をお祈り申し上げます」
なおざりに言った彼に恨みがましい一瞥を残して、護衛は王子と共に夜の街へと消えていった。
かくして彼はやっと、本当に職務から解放されて休息を取ることが許された。王子の身の安全は、今や彼の舌ではなく護衛の腕にかかっている。摂政陛下が選んだ者となれば、腕は確かなのだろうから任せて良いだろう。
なお、王太子は翌朝無事に戻ったが、ついでに美しい金髪の青年も連れ帰った。ミリアールトの王族を名乗るその青年を、いかにティゼンハロム侯爵から隠し通すか、摂政陛下にはどのように説明するか。王子以外の一行は頭を悩ませることになるのだが、それはまた別の話である。




