06 犬舎にて イシュテン王宮の猟犬係
3章と4章の間くらいの時期のエピソードです。
3章「狩る者」にちらっと出てきた猟犬係視点。
犬舎から出ると青空が広がっていた。深く息を吸えば冴えた空気が肺を冷やし、彼の眠気を覚めさせる。見上げれば雲ひとつなく、眩い太陽が数日前からの降雪で積もった雪の表面を溶かしていた。風もなく日向にいれば暖かいとさえ感じる、冬には珍しい好天だった。
――幸先の良い日だ。
重い目蓋をこすりながら、それでも彼は笑った。
先日生まれた子犬の中に身体が弱いのがいたのだ。だから徹夜で火を熾し湯を沸かして温めてやったり布を乳で湿して口に含ませたりしてやっていたのだ。その甲斐あってか、明け方近くには子犬の鳴き声も大分力強くなって、兄弟に混ざって母犬の乳房に吸い付いていた。
このように晴れて穏やかな日が何日か続けば、子犬たちは無事に育つことができるだろう。そもそも王宮の犬舎で代々育まれた血筋なのだから、皆良い猟犬になるはずだった。
自身の罪を償うために、王の恩に報いるために、犬舎に良い犬を増やさなければならぬ、と。彼は心に決めていた。
彼が元々仕えていたのは王宮にではなくティゼンハロム侯爵に連なる家に、だった。主が狩りで使う猟犬を育て躾けるのが彼のつとめだった。田舎で犬を相手の――見た目上は――慎ましく何事もない暮らしが一生続くと思っていた。
それが崩れたのは先日王と王妃を招いた狩りがきっかけだった。王が遠征から連れ帰った人質、ミリアールトの美しい金の髪の姫。あの女性の身に降りかかったことも一大事ではあった。しかし、彼にとってはより身に迫った深刻な事件も同時に、というか元王女の難事に関連して起こっていた。
主家の若君たちのおぞましい遊びが王に露見したのだ。と、いうか半ばは彼の口から明かした。
若君たちが子犬を育ててみたいと言い出せば、彼には逆らうことはできなかった。そうして彼らが育てた犬が無闇とよく吠え、人にも犬にも噛み付いたとしても、やはり苦言を呈するのが精々だった。それも剣をちらつかせて脅されれば引き下がる他ない。その犬たちが吐いたものや寝床の中に、人の髪のような長い繊維があったとしても、獣とは思えない骨が混ざっていても、彼は何も言えなかった。若君たちは密猟者を襲わせたと言っていたが、犬の牙の間にはそのような類の者が纏うとは思えない色鮮やかな衣服の切れ端が混ざっていた。そして、近隣の農村ではしばしば若い娘が姿を消すとの噂があった。
若君たちが好んで人を狩ると知っていながら、彼は長らく我が身可愛さに黙っていた。あの日、王にそれを仄めかすことができて、彼は肩の荷を下ろした。そして同時に覚悟した。身内の恥を暴露した彼を、ティゼンハロム侯は決して許すまい。
あの後、王は人の肉の味を覚えた犬は処分せよと命じた。
彼は泣きながら犬たちに毒餌を与えた。ちゃんと育てていれば良い猟犬になったはずの犬たちだったのに。そしてそれは自分自身を哀れんだ涙でもあった。苦しんで死んでいく犬たちの姿は近い未来の彼のものだろうと思ったからだ。
だが今、彼は生きてここにいる。
これも王の命によるものだ。ティゼンハロム侯の禁猟地を召し上げるから、ついでに猟犬とその世話係も譲れと侯爵に言った――言ってくれたのだ。老侯爵はお好きになさいませ、と吐き捨てていた。
王の本心が言った通りなのか、あるいは彼を哀れんでくれたのかは分からない。至高の地位にいるお方の心の裡を図ろうとするなど恐れ多いにもほどがある。とにかく、彼の命は全て王のお陰だと、日々肝に銘じているところだった。
「ねえ、貴方、犬のお世話をしている方ね?」
少し横になろうか、と欠伸をした瞬間、ふわりと良い香りが漂い、柔らかい女の声が掛けられた。疲れた頭で考える間もなくぼんやりと声の方を向き、その声の主の姿を認めて――彼は平服した。
そこにいた艶やかな黒髪の美女は、この国の王妃に違いなかった。
「王妃様!?」
「ああ、かしこまらないでちょうだい。貴方に聞きたいことがあるのよ」
「は……?」
恐る恐る顔を上げると、王妃は一人で訪れたのではなかった。侍女を数人つれているのは当然だったが、幼い王女と、金の髪を煌めかせたあのミリアールトの元王女も共にいた。眩すぎる女たちに、彼は目の潰れる思いがした。
話を聞けば、事の発端は元王女と王妃の会話だったということだった。
元王女の祖国、北の果てのミリアールトでは冬は深い雪に閉ざされるという。そこで王妃が馬や馬車を走らせるのにも苦労するだろう、と言ったところ、元王女は首を傾げて答えたらしい。
『馬だけではなくて、大きい鹿のような獣を使う地域もありますわ。あとは、犬ですね。犬を何頭も連ねて橇を牽かせるのです。ああいう獣は馬よりも雪にも寒さにも強いそうですわ』
そして、それを聞いた王女が目を輝かせたらしい。犬が索く橇に是非とも乗ってみたい、と。
「とはいえ私は犬のことも橇の造りもよく知らないのです。祖国のことなのに恥ずかしいことですけれど。ですから、犬を扱う役目の方の方が詳しいのではないかと……」
「はあ」
元王女の碧い目に見つめられて、彼は困惑した。確かに彼は犬に詳しい。が、犬に橇を牽かせるなど初めて聞くことだったのだ。
「どのような種類の犬なのでしょうか。やはり、身体の大きな……?」
とりあえず何頭か選んで王妃たちの前に出してみると、元王女は眉を顰めて首を傾げた。表情が強ばっているように見えるのは、先日馬を犬に噛まれて暴走させられた記憶からだろうか。そう考えると、彼は改めて主家の若君たちの所業を申し訳なく思った。
「こういった種類の犬ではなかったと思います。耳は尖って、毛はふさふさとして……狼の、ような」
狼という単語を、元王女は躊躇いがちに発音した。無理もない。それは王の名でもあるから、呼び捨てしたようで気が咎めるのだろう。もちろん彼は礼儀正しく気づかない振りをして受け応えた。高貴な女性たちの希望を叶えられないことを残念に思いながら。
「大変申し訳ございませんが、そのような犬はここにはおりません。北のお国にしかいない種類ではないかと。……橇も、私めでは……」
そう、と王妃がため息をついたので、彼は申し訳なさに身を縮めた。そして王妃がさりげなく続けたことに目を剥いた。
「では取り寄せてもらうことになるかしら。ファルカス様にお願いしたら聞いていただけないかしら」
「……沢山の方にご迷惑になるかと存じますが、そこまでしていただけるでしょうか……」
幸いにして驚いたのは彼だけではなかったようで、元王女が言いづらそうに苦言を呈したのを聞いてほっとすることができた。更に幸いなことに、王妃は残念そうに眉を下げながらも頷いてくれた。
「それもそうね……。マリカ、お話だけで我慢できる?」
「ええー……嫌よ、犬の橇が見たいの!」
ところが子供は大人ほどに諦めが良くなかった。王女は可愛らしくも頬をふくらませ、今にも泣き出しそうに顔を歪めた。
彼はまるで自分が王女を泣かせたような焦りを感じ――
「子犬がいるのですがご覧になりますか?」
どうでも良いことを口走っていた。
結論を言えば、小さな毛玉のような子犬たちを見て王女の機嫌はころりと治った。中でも真っ黒な一匹がお気に召したようで、抱き上げるのを諦めていただくのに苦労した。闖入者の存在に不安げな母犬の訴えるような目に、彼は答えてやらなければならないのだ。
「まだ生まれたばかりですから、親が心配するのです」
「真っ黒でアルニェクみたい! この子が大きくなったらもらっても良い?」
「もちろんでございます。決して人を噛むことのないように、王女様をお守りするように躾てお渡しいたします」
しゃがみ込み、満面の笑顔で子犬を眺める王女の後ろでは、王妃と元王女が語らっている。
「影?」
「ファルカス様の馬の名前よ。あの子も真っ黒だから」
「ああ、あの……安直ですのね」
「でもぴったりでしょう?」
「……はい」
どこか不敬な、しかしのどかな会話に、彼は何とも不思議な気分になった。巡り合わせ次第では、この金の髪の姫君はここにこうしていることはなかったのだ。暴行され殺されるか、若君方のいずれかの妻にさせられていたか。どちらがより不運なのか分からないが。
側妃だとか世継ぎだとか、国の大事もやはり彼には分からない。しかし、彼が思いがけず命を拾ったように、この姫君も不幸を逃れた。そして王女や王妃と微笑む姿は例えようもなく美しい。
分不相応ではあるだろうが、違う世界の人々ではあるが、この貴婦人たちの日々が穏やかなまま続くよう、彼は願ってやまなかった。




