耳元に落ちる弱音
ギルバートに服を着せ終わった翠は、こちらはイヴァリィの部屋で急いで湯を浴びて来た。
浴槽にゆっくりつかる間もなく、体と髪を洗ったくらいである。
ジナオラを呼んで魔法で髪を乾かさせたら、さっさとギルバートの部屋に戻る。あとは寝るだけだろうに、何が理由か、翠が風呂に入る前に言いつけられたからである。
翠が部屋を訪ねると、ギルバートは寝酒を煽っていた。
ベッドで上半身を起こし、ヘッドボードに体を凭れさせていたギルバートが、翠に気付いて近づくように呼ぶ。
翠がそれに応じると、腕を引いて引き寄せられて、足の間に座らされた。今日は、向かい合いではなく、ギルバートに背中を向けるように座らされる。
翠の腹に左手を回すと、ふ、と翠の首筋にギルバートの息がかかった。
「どうなさったんです」
「イライラ、していたのだ」
「知ってます」
翠が、最初にギルバートの執務室を尋ねた際、彼はそれこそ、周りの人間を見境なしに切るのではないかと思うほどに不機嫌だった。
「呪いを受けたあげく、利き腕に怪我を負うなど、俺も耄碌したものだ。……そんな、不甲斐ない俺を、誰もが無事でよかったと、案じていたなどと口にする。……反吐が出るようだった。……無事ではないわ」
武の王なのだ。それは、苦しかっただろう。翠さえ驚いたのだ。彼が呪いにあい、怪我を負ったと知らされた時に。この覇王に身を任せている城勤めの人間たちは、それは心配しただろう。彼が死んでは自分の身が危ないのだから。
そんな人間に反吐がでると、自分で自分が許せないのだと思いながらも、ギルバートは誰にも弱さを見せられなかったのだろう。王としては、それで当然である。
にも拘わらず、彼が誰かに責められたがっているのだろうことも、彼の、そういう思いに至る思考も、翠は確かに分かってしまっていた。
「お前なら、他の人間と同じようには言わんだろうと、思ったのだ」
「弱気ですね」
だから、『言葉が聞きたかった』か……。
首筋に落ちる息が、彼の溜息だと分かって翠が呟く。振り返りはしない。きっと、ギルバートは自分の表情を見せたくなくて、この体勢を選んだのだろう。
「フィオルナルの見立てでは、あと2週間は呪いがかかったままだ。その間に、腕は治癒してしまうだろう。お前も見ただろう? 古い傷跡を。……1度治癒した怪我に、治癒魔法は使えん」
だから、彼の体には古傷が多いのだ。治癒魔法が受けられない環境で傷を受け、自らの魔力は治癒になど回しておれず、自らの治癒能力だけで無理矢理傷を治してきたのだろう。
「先もしたように、少しくらいなら動かせる。……だが、痛み以外に違和感が残るのだ。もし筋を悪くしたまま治れば、そのままだ。……俺はもう、今までどおり剣を振れん。みな、分かっているだろうに、それを言わん」
俗にいう、『昔、膝に矢を受けてな……』というやつだろう。ギルバートの超直感が言うのだから、確かに筋を痛めているのかもしれない。翠は1つ頷く。
「それで、ご自分を不甲斐ないなんて?」
彼は、ずっと愚痴りたかったのだ。それでも、周りの人間がいる場ではそれができなかった。だから、彼はやっとこの時になって、翠を傍に呼んだのだろう。
そこに至るまでの、ギルバートの心労は相当のものだったに違いない。
彼は、過去、翠がいない間、どのようにその本音を飲みこんできたのだろうか……。
「問題なく治るかもしれませんよ」
「知っているように語るのだな……。呪いを受けている状態であれば、どこが悪いか探る魔法も使えん……」
その場しのぎの言葉を受けて、ギルバートは不快そうな声を出した。一度自然に治癒すれば、筋を痛めたままでも治らないなど、魔法も万能ではないということか。
だから、ギルバートも、似合わぬ弱音を吐いているのだ。
「俺が剣を振れなくなったと分かれば、この国を殺しにかかるヤツらは万といるだろう。否、国の中だけでも、その腹を食い破ろうとする虫どもが、未だ身を隠している。今の兵だけで、四方八方から迫りくる敵の全てに対応できるとは、思えんな。長期戦になれば、こちらが負ける」
「……よくそんな状況でもってますね、この国」
まさに、内憂外患である。王が剣を振れることが、そこまで重要なのだろうか。陣頭指揮をとるでもなく四方八方から迫りくる敵全ての矢面に立っているのだろうか。……だとすれば、どこまで一騎当千なのだろう。
彼が死ねば、この国はどうなるのだろう。……子がいないままで。
そんな翠の思いを気取ったのか、ギルバートが哂った。
「俺には世継ぎもおらんでな。連座が回避できると喜ぶべきか。国が滅ぶと嘆くべきか」
「そんな思いがあるとは知りませんでした。連座等、気にもしないでしょう? 自分の子なら、逃げのびて一矢報いるくらいはするだろうと、哂いながら死んでいきそうです」
「……そうだな。国も、終わればそこまでだ。俺が憂うこともない」
ギルバートは乾いた笑いを漏らす。相変わらず、気分はあがらないらしい。
昼間は、翠への態度以外はいつもどおりだったろうに。それとも、翠の前ではどこまででも弱気でいられるのだろうか。……昼間から見せる執着もそうだが、翠としてはあまり好ましくない現状である。
「なら、どうだ。国が滅ぶ前に、子でもつくるか?」
ギルバートの左手が翠の体を撫でた。
「っ……、」
首元をくすぐり、その手は胸へと下りてくる。
「今日は抵抗しないのだな。……憐れみか? ……あの時も、俺はお前に憐れまれたのだったか」
「……謝りませんよ」
「知っている」
謝罪の言葉は持ち合わせがないと言ったのだったか。
「なら、抱かれてくれるのか?」
ギルバートが耳元で囁いた甘い声に、翠は深く溜息をついた。