からまる糸
「どういうつもりだ。お前は、自分の状況が分かってないのか? もう少し利口な人だと思っていたが」
全力疾走した所為で息が上がり、もはやルーカリアナの腕から逃れられないだろうと、大人しく後ろを振り返った翠に、普段より幾分か低い声が落とされた。
常々、彼が隠そうとしてきた翠への疑惑がありありと窺える。もはや、隠す気もないらしいた。普段の軽い口調でもなく、こちらが彼の素なのだろう。
「忘れていたのよ」
「何を」
「この城における魔法の遣い手で、誰が1番優秀なのかを」
翠の言葉にルーカリアナは怪訝そうな顔をした。何を今さら、といったところか。それもそうだ。翠だって、自身がなぜ忘れていたのかと思ったくらいだ。その人物は翠のアーガルとして彼女に仕えているのだから。
「何を訳の分からないことを」
「この城を守る結界は、彼が敷いたのよね」
当然、気付いてしかるべきだった。そして、違和感を感じるべきだったのだ。あの生真面目な男がかけた敷いた陣に、強度に関わらないとはいえ、一遍の綻びがあることに。
「……何が言いたい。部屋へ戻れ」
「それはできない」
翠の言葉に、ルーカリアナはより一層険しい顔をする。掴まれた腕にも力がこもって、翠は痛みに顔を顰めた。
「お前は自分の状況が分かっているのか」
「分かっている、と答えれば満足? ……そうね。私が無実と分かっているのは、王を除けばアーガルの2人くらいでしょう。あとはみんな、私がトゥジェノを殺したと思っている。いえ、そうであればいいと思っている。疑いじゃないわ。願望ね。疑いよりもよっぽど性質が悪い」
疑いなら理由があれば晴れるし、晴れればそれまでだ。だが、願望などは、例え翠の無実が明らかになっとしても、こう思われるに違いないのだ。アイツが無実で残念だ、と。
「はっ。その程度で済めばいいな。お前とお前のアーガルが死ぬだけで済む」
ルーカリアナの言葉に眉を寄せる。どういう意味かを量りかねた。
「俺も、思ってるさ。お前はトゥジェノを殺すような人間じゃない。こうも上手く陛下にとりいった。お前の無実を信じる者の筆頭として、その存在を出せる程度に。……今の厚遇をくだらぬ殺人1つで壊すような、愚かな人間だとは思えない。……残念だが」
「くだらぬ殺人、ね。4人も死んでいるし、後宮をにぎわせている大事件なのに」
「くだらなくないのか? 小鳥も、トゥジェノやジペットも、お前に親身に仕えた侍女でさえ、その死を涼しい顔で遣り過ごしたお前にとって、くだらなくないと?」
「人の死を無碍に扱ったことはないつもりよ」
くだらないとは思わない。一切の感情を排している……つもりなのだから。
カチャリ、
ルーカリアナの腰元で音がして、次いでヒヤリと首筋に冷たいものが触れた。いつのまにか、掴まれた腕は放されていて、その代わりに刃がつきつけられている。
「俺はな、リーリア。お前があんな女たち4人を殺すために王宮に潜り込んだとは思えない。ともすれば陛下だけでなく、この国すべてを呑みこもうとしているほどの悪女に見えるんだよ。……だから、今すぐに死んでほしい」
「それは随分な過大評価だこと。……私を殺せば、自分も死ぬわよ?」
「そうだな。こんな勘みたいなものでお前を殺せば、陛下は俺に死を命じるだろう。だが、俺1人が死ぬだけで済むのなら、それもハッピーエンドだと思わないか?」
ルーカリアナの忠誠心を、嘲笑したくなった。
気持ちが悪い。人の死を背負いたくない翠だから、そう思う。
翠は、彼女が白といえば、黒も白だというような連中には、既に辟易するほど囲まれていた。……遥か過去で。その者たちは翠のために身を滅ぼすことも平気でやってみせるだろう。もちろん、そんなことは翠が絶対に許さないが。
目の前の男の忠誠心は、だからこそ、ギルバートに目をかけさせるのだろうか。命を投げうって、主の意向に逆らってまで、主の身を、国を、守ろうとする気概を持った男だ。ギルバートが嫌う、人形たちとは訳が違う。
尤も、彼にとってしても、側に居て気分のいい人間だとは思えないのだが。
「確かにそうね。私が王宮に居ついた死神だ、という噂は強ち間違えじゃないのかもしれない。王に毒は盛られるし、無実の侍女は殺された。その犯人の側妃は処刑。ついで、別の側妃は未だ見つからない犯人に殺された。……これら全部、私が引き起こしたというのなら、本当に私は居なくなるべきだわ」
翠の瞳に過った無感情にルーカリアナは言葉を無くした。そして戸惑う。翠の言葉が本心だと思えたからだ。
ルーカリアナは、何ものにも心を動かさない翠を、自分だけが大事な女なのかと疑った。間者としては態度が不自然すぎるので、万が一、彼女が国を害する企みを持っていたとすれば、それは単独の愉快犯だとも考えていた。
しかし、翠が自分の死にすら心を動かさないというのであれば。彼女はまさしく異質である。死を覚悟した間者であるとは、やはり思えない。彼女がただ、自分の生にすら執着しないのであれば、彼女は一体何のために王にとりいったというのだろうか。
ルーカリアナが翠を疑う、根本となる部分が揺れたその瞬間。
「でも、今は駄目」
翠はそれだけ言うと、たっ、と身を翻して走り出した。
翠の肌に押しつけられていた刃が、その肉をえぐるのを気にもとめず。ルーカリアナが手を引かなければ、その刃は、深く彼女の血管を傷つけ、その命すら奪っていたかもしれないのに。そのくらい遠慮なく、彼女は自らの体を引いた。
ルーカリアナが咄嗟に刃を引くと確信していたのだろうか。それとも、本当に死んでもいいと思っていたのだろうか。……ルーカリアナは内心で、化け物かと呻きたくなる。
そうまでした翠を、さすがに再び引き留めようとも思えず、ルーカリアナはとりあえず、彼女の後に続くことで、その真意を探ることにした。