日陰の女
「こんなに怖い人だと思わなかった」
次の日の朝食後。翠の髪を結っていたジナオラが、その耳元に言葉を落とした。
部屋の外にはルーカリアナが居るが、この程度の小声が聞こえるほど、さすがの壁でも柔ではない。
「なにのこと?」
「見殺しにするなんて」
ジナオラはこのところ翠の傍から離れられないが、独自の情報網か、それとも読心術にでも長けているのか、フィオルナルやルーカリアナよりも早く、翠の本心を見抜きかけているのだろう。
「王の命令だとは思ってくれない?」
「思ってあげない。キミが従うことと、キミが悲しまないこととは、別でしょう?」
それもそうだ。例え王の命令に逆らえなかったにせよ、一般の感覚があれば従うのは渋々になる。翠とて喜んで従った覚えはないが、何かを気負って従ったわけでもない
「僕も、いつか見殺しにされるのかな」
「……その時が来れば、ね。だから言っているでしょう。自分で逃げなさい、と」
翠は本心を隠さない。隠さないから逃げてほしい。もしかすれば守られるかもしれないとは思わないでほしい。その言葉に、ジナオラは僅かに喉を鳴らした。
「だから、僕はキミに従っているんだよ。……今は、ね」
「あまり派手に動いちゃ駄目よ。アナタは、毒の皿にも、彼女にも近かった」
「分かっているよ。まだ、キミについて知りたいこともたくさんあるしね。……さぁ、できたよ」
「……ちょっと盛りすぎじゃない?」
「そうかな? 赤のお妃さまよりは随分とおしとやかだけど」
「アレとは比べないでほしいわ」
翠はジナオラの結った髪を揺らして、ジナオラの淹れたお茶を飲む。
確かに翠は彼女を見捨てた。それを悲しむこともない。
ただ、生活に表れる少しずつの変化に、まったく感傷を覚えないわけでもないのだ。
「このお茶、おいしいわね」
「光栄です、シスイ」
その日の昼食。翠をいつもどおりの席に座らせて、ギルバートが口を開いた。
「そういえば、捕まったぞ」
「そうですか」
「これで、ライバルが1人減ったな」
何が、とも、誰が、とも言わない。ギルバートの背後にいつもどおり控えたルーカリアナは険しい顔をしているし、翠の背後のジナオラは無表情を保っているだろう。
「私、別にライバルと思ったことはありませんよ」
「まぁ、そうだな。お前に寵を競われた覚えがない」
「処刑はいつ?」
「お前が知る必要が?」
「……ないですわね。でしたら、犯人確保も教えてくださらなくてよかったのに」
暖かいスープを飲みながら翠は言葉をこぼす。毒見の時間がなくなって、かつてよりも温度を保ったまま、食事にありつけるようになった。
毒は、もう盛られていない。否、同じ犯人に盛られることは2度とないだろう。
「それも、そうだな」
翠には何も教えられない。それは、翠が籠の中の鳥だから。
昼食から部屋に戻ると、フィオルナルが待っており、ギルバートと同じように、翠と王の毒殺未遂の下手人と、アシュレイを殺害した者が同一人物であり、それが明朝、捕えられたと教えられた。そして、同じように、それ以上は教えられない。
「僕が教えてあげようか?」
フィオルナルが立ち去った部屋でジナオラが笑う。
「結構よ。私が見殺しにした中には、彼女も入っているんだから」
犯人は、ドゥノと名乗って侍女服で王宮内をうろついていた女だった。
アシュレイの死因が毒殺であり、それに用いられていた毒が、ギルバートと翠に盛られた毒と一致したため、アシュレイ殺害についての捜査が、それまで以上に急ピッチですすめられた。
ドゥノと名乗った女は、カポネのでも、トゥジェノのでも、トゥジェディのでも、そしてもちろん翠の侍女でも、ない。そして、彼女はジペットの侍女でもなかった。
ジペットには、アーガルはもちろん、侍女ですら、与えられていないのだから。
アシュレイの女官時代の友人が、アシュレイに新しくできた侍女服の友人について聞いていた。その女がドゥノと名乗っており、アシュレイと王宮の片隅でよく話をしていたことも。
登録されている侍女の中に、ドゥノという名前の侍女はいない。
翠以外の主をもった侍女の誰かが、ドゥノと名乗り、アシュレイを殺したことも疑われたが、それではギルバートと翠に毒が盛られたことまでは説明がつかなかった。
侍女について調査が進められる中で、侍女と一緒に登録され、規定の枚数しか仕立てられない侍女服に、未返却分があることが分かった。
その侍女服は。
ジペット……ギルバートに戯れに手をつけられ、そして忘れられた彼の側妃である元侍女が、未返却のまま彼女の私室に持ち込んでいたものだった。
ジペットの本名は、ドゥーシェ・ノエル。
此度の事件の犯人であった。
彼女はギルバートに忘れられる内に、心を病ませた。アーガルも侍女もおらず、そのうち、女官の世話まで受けられなくなり、結果、自分が持ち込んだ侍女服で厨房に潜り込まなければ、食事にさえ困るようになっていた。
それでも、しかたがないと。ギルバートに手討ちにされることを、王宮を追われることを、他の妃を恐れて、部屋に籠った自分が悪いのだと、思っていた。
……新たに現れた、自分よりも位階の低い妃が、王の寵愛を受けていると聞くまでは。
ドゥーシェがアシュレイに出会ったのは偶然だった。
だが、アシュレイが語る彼女の主に、アシュレイに、そして王に、愛されているというリーリアに、ドゥーシェの怒りや悲しみは増すばかりであった。
そして、翠がギルバートと共に食事をとっていると知った時、彼女の怒りは暴発した。
自らは、食事にありつくのすら、やっとであるのに。
当然、彼女暴走は失敗に終わった。翠が毒に気付いたからではあるが、気付かずとも、ジナオラの死と引き換えに、毒殺は未遂に終わっていただろう。
怒りとも悲しみとも、絶望ともつかない感情に苛まれる中で心の壊れたドゥーシェは、侍女でありながら、幸せそうなアシュレイを見て、彼女のことも憎くなった。
王やその側妃とは違い、アシュレイを殺すのは簡単だった。アシュレイは、ドゥーシェを自分と同じ侍女仲間だと思っていた。その口に入るものに、毒を盛ることは簡単だった。
処刑の日。彼女は笑っていたという。
心が壊れた故か。孤独の中から解放される故の真の喜びか。
誰にも真相は分からぬまま、彼女の処刑は内々に執行された。