すべての始まり
「なぁ、姉ちゃん?」
「どうしたの?」
倉橋翠は、ノックもなしにドアを開け放って入ってきた弟の真也に怒るでもなく、キャスター付きの椅子をクルリと回して彼を振り返ると笑顔を見せた。
「また小難しいことやってんの? 俺、頭痛くなりそうだ」
「小難しいことって……ちゃんと分かって言ってるの?」
翠に促された用件を言うでもなく、姉の背後にあるディスプレイを見て、真也は呻いた。
そんな弟の様子に、翠はクスクスと笑う。
「なーんも分っかんねーから、小難しいってんの!」
翠自身、そして翠を知る彼女の友人らも認める、仲の良い姉弟。それが、翠と真也の関係であった。とはいえ、ずっと彼女らはこうであったわけではない。
翠は1年ほど前を思い返して内心で苦笑する。
今でこそ、姉と懐いている弟は今年で15歳。ちょうど思春期と呼ばれる年代で、世間一般に違わず、1年ほど前まで俗に『反抗期』と呼ばれる状態にあった。
姉である翠とは口もきかず、ピリピリした空気を常に孕んでいて。反抗期というものに程遠い思春期を過ごした翠も、その両親も、彼の扱いには気をつかった。
それでも、受験生となり、勉強に意識を向けざるを得ない状態になって、夜遅くまで勉強する彼の体調を気遣ったり、夜食を用意したりする母や、世間一般に名門と呼ばれる国公立大学に籍を置き、勉強面で大いに頼れる存在である翠に対して、反抗心以外の何かが沸いたようで、今では1年前の面影など少しもない。
「姉ちゃんさぁ、明日、行く?」
「そのつもりよ。でも、大学で研究発表の準備をしてから、現地集合になるわ」
「ふーん、そっか」
翠の本棚から興味のあるタイトルを引っ張っりだし、勝手にベッドに座り込んでパラパラと内容を物色しながら返事をした弟に文句を言うでもなく、彼女自身、自分のしていたことの続きに取り掛かった。
明日は母の誕生日で、1年ぶりに家族そろって外食をすることになっていた。
基本、母親の誕生日以外のイベント事では、母が自慢の料理をふるまう家庭であるので、外食などはその母を祝う時にしか行わない。
と、いうのも、結婚二十数年もたち、子供もある程度大きくなったとあれば、そろそろ家族団欒の機会は減るもので、特に、仕事人間の父がいる倉橋家はそれが顕著であった。
それでも翠は、まだ大人になりきれない弟が、久々の外食を内心で心待ちにしているのを知っている。
反抗期こそなかったが、弟のような可愛げもなかったことをよく自覚している翠は、表面上は興味なさそうに装う弟を振り返って、声を出さずにクスリと笑った。
家族そろっての外食。一般の中流家庭で何も珍しくない、その予定が、果たされないなんて。そんなことは、その時少しも思いはしなかった。
それは、目も開けていられないくらいの光だった。
家族で外食すると約束した日。家からそう遠くないレストランへは、家から少し離れた翠の大学からはしばらく時間がかかる。
そんなわけで、夕方には大学を出る予定であった翠だが、そういう日に限って予定通りにいかないものである。
ぎりぎりか、少し遅刻かもしれない。電車の時間が分かり次第、連絡しなければ、と、腕時計に一瞬だけ視線を落として、翠は大学構内を急いでいた。
揃って夕食をとるらしい他のプロジェクトメンバーの誘いに断りをいれて先に帰し、一応の代表である翠が、借りていた研究室の鍵を返しにいく。
研究棟のエントランスから、暮れ始めた空を見上げた、次の瞬間。
まばゆい光がその場に溢れ、咄嗟に目を瞑った翠を、正体不明の浮遊感が襲った。




