19:水族館
閑静な部屋の中で、数人の男女が楽しそうに談笑している。
部屋とは言っても非常に広く、数十人が部屋の中にいても狭いと感じないくらいには広大だった。
部屋の壁一面はガラス張りになっていて、巨大な魚が泳いでいる。誰も見たことのない種類の魚なのだが、見ている人間は誰も驚きもせずに優美に泳ぐ魚を楽しそうに眺めている。
NOWHEREという仮想世界の中では、見たことのない生物を目の当たりにすることは日常的な出来事であり、驚くようなことではない。だからこそ安全に、楽しく魚を眺めることができている。
反対側の壁も同じくガラス張りになっていて、こちらの水槽の前にはより多くの人間が眺めている。
中にいるのは、『巨大孔雀魚』という魚だった。巨大という名前の通り通常の孔雀魚とは比べ物にならないくらい大きく、サメやイルカくらいの大きさをしている。
形状は通常の孔雀魚と同じで、尾びれが大きい種類だった。通常の孔雀魚と違うのは、尾びれの色が時間経過で変化することだ。
赤や青、緑に黄色と変化していく様を静かに恍惚な目線で眺めている男女もいれば、ニコニコ笑いながら語り合う中学生くらいの女子もいる。そんな温和な雰囲気を楽しんでいる老人もいて、マイナスな要素を感じることすらできない空間だった。
その中で、明らかに一人きりの少年がいた。赤いTシャツに短パンを履いた、小学校低学年くらいの年齢の少年だった。
近くには誰もおらず、少年本人も何かを確かめるように辺りを見回しているだけだった。一人だというのに焦っている様子も特になく、周りの人間も水槽の中に夢中で、少年には気付いていなかった。
少年はやがて何かを理解すると、部屋を出て次の部屋に向かった。
同時刻、別の部屋で一人の男が楽しんでいる人間たちを遠巻きに見て胸を撫で下ろしていた。
それもその筈、男は新設された水族館の責任者だった。株式会社NOWHEREに在籍している社員の中でも役職はかなり上の方なのだが、自身の希望で水族館の責任者を希望した。
男は出世には興味がなかった。管理職になってしまうと、消費者の生の声が聞きにくくなるという理由からだ。
元々テーマパークに勤めながら趣味でゲームを制作しており、自分が手掛けたもので誰かが喜ぶ光景を見ることが彼のモチベーションの全てだった。だからこそ、自身が発見したNOWHEREは、彼にとっては生活の全てを賭けることができる世界になっていた。
趣味のゲーム制作によって知り合った男が多額の出資を行ってくれたことによってNOWHEREは世間に発表することができ、今こうして世間に浸透するほど軌道に乗ってきた。
出資を行った人間が社長となり、NOWHERE運営の代表者として認知されたことは男にとっても都合が良かった。今みたいに、来場客の反応を直接見ることのできる立場にいられるからだ。
NOWHEREの経営については社長に任せ、自分はNOWHERE利用者が楽しめるための技術を研究し続ける。男はそれを望んでいた。
今いる新設された水族館も通常の水族館ではなく、NOWHEREのユーザー、とりわけ子供達がデザインした現実世界には実在しない生物を取り扱う初めての水族館だった。デザインした生物が製作者が満足するように再現されているのか、外見や動作が気味悪がられたりしないかといった懸念材料があったが、多少の人気の有無はあれど反応は良好だった。
当然既存の魚もいることにはいるが、来場者の目当てのほとんどが新生物のため水槽の前に足を運ぶ来場客は少ない。
全ての部屋を三周ほどして回り、来場客の反応は一通り確認できた。あとはスタッフとしての仕事に従事しつつ、自身の満足のために来場者の反応を改めて観察しようとするだけだった。
「!?」
突然の大きな揺れ。現実世界ならまだしも、NOWHEREでは本来発生しない筈の揺れだった。当然、部屋がざわめき出す。
ただ、地震大国であることなのからか、仮想世界だという安心感からなのか悲鳴をあげたり騒ぎ出す人間はいなかった。立てなくなるくらいの致命的な揺れではなかったことや、水族館内のオブジェクトに何も変化がなかったことも要因だった。水槽には傷一つなければ、見るからにバランスの悪そうな看板はその場から一ドットも動かなかった。
但し、男のUIには水族館スタッフからの連絡が急激に入ってくる。
すぐさま状況を把握・理解し、来場者の安全のために行動を開始した。
「大変申し訳ございません、ただいまの揺れによる影響を確認するため、お手数ですが一度ログアウトをお願いできますでしょうか。現状全ての部屋において何も起きていないとのことですが、皆様の安全を考慮して万が一に備えるためご協力をお願いいたします」
責任者権限である、全ての場所にいるユーザーに対して音声アナウンスを行う機能を用いて、来場者全員に速やかにアナウンスを行った。部屋にいる来場者も、少し戸惑いながらも特に反対することなくUIを開いて動き出す。
「お連れの方がいる場合は、必ず合流してからログアウトするようにお願いします。ログアウト後、何か問題がありましたらすぐにご連絡ください」
話しながら、スタッフからの連絡を見て移動する。同行者と別行動を取っているユーザーも現在の部屋にはいないようだったので、係りつけのスタッフだけで十分だと判断した。
「別日にはなりますが、点検完了後、再度入場できるようになり次第こちらからご連絡致します。本日はご迷惑をお掛けしてしまい大変申し訳ございません」
足早に部屋を出て、通路に出る。通路は上下左右全ての壁がガラス張りになっていて、地面の一部にのみカーペットが敷かれている仕組みになっている。どこを見ても魚が視界に入ることで、来場者がより臨場感を味わえるようにデザインしたものだった。
男は辺りを見回しつつ、足早に駆けてくる女性スタッフに自分からも駆け寄った。
「問題が起きているのは?」
「『北の海』エリアです…。来場者は誰もいないので、気付いているのはスタッフだけです」
一日全ての場所を見回ったおかげで、今日の来場者が近寄るような場所ではないことは理解している。最初の数十分こそ何がいるのかと足を運んだ来場者がいたものの、男が二周目の巡回を始める頃には既に誰もいなくなっていた。
今日のメインである新生物コーナー以外は全て同様で、真面目な性格である彼自身も巡回する必要性を感じない程度には足を運ぶ人間がいなかった。
「入場者リストを使って、退室ログと部屋にいる来場者を照査してください。私以外の全スタッフ総動員で構いません」
「分かりました。進藤さんは…」
「発生源の処理に向かいます。新生物エリアを保護するようにプロテクトをかけるので、来場者とスタッフの情報共有を最優先でお願いします」
女性スタッフは返事をしてすぐに動き出す。進藤は立ち止まって管理者権限を開き、スタッフからの連絡を確認して来場者がいる部屋四か所に完全ロックをかけた。
完全ロックをかけると、自分も含めて誰であっても部屋を出入りすることはできなくなる。出入りと言ってもワープは制限されていないためログアウトはできる。あくまでドアを開けることができなくなるというだけだ。
連絡を見る限り、スタッフも来場者も全員完全ロックした部屋の中にいる。だから、自分以外は絶対に安全になる。
「『グラド』」
そう、自分以外は。
視界に移ったモンスター…ボックスに向かって魔法を放つ。威力自体は高くないが、十分牽制にはなる。足早に移動して、念のため完全ロックをかけた部屋から引き離すように移動する。ボックスの生態は把握しているため、焦りもなければ動揺もない。
それもその筈、進藤はこの事態をある程度予見していた。予見といっても三パーセント程度、しかも起こり得る自体の中でも悪い方ではある。しかし、ゼロとイチでは心に与える動揺も、その後の行動の精度も大きく変わってくる。
モンスターが出てくる原因は、水族館の『北の海』エリアに空いた大きな穴。そこから、アンダーワールドに生息しているモンスターが入ってきていることだった。
先ほどの揺れによって大きな穴が開いたのか、外部からの衝撃によって揺れが起きたのかは分からない。それはこれから自分が向かって調査しなければならない。
進藤が管理する水族館はアンダーワールド内に建てられている。展示する生物や館内の演出を実現するために、アンダーワールドに立地せざるを得なかった。来場者の安全を確保することができれば、十分に稼働可能な範囲ではあった。
デバイスを含めたユーザーのスキル程度では傷一つ付かない程度には外部からの衝撃には強くしていた上に、建物自体も迷彩プロテクトを用いて見えなくしていた。ユーザーの仕業なのか、アンダーワールドにいるモンスターの仕業なのか。
考えながら、進藤は足早に移動する。とにかく、一刻も早くこの事態を収束させなければならない。幸い館内に出てきているのはモンスターの中でも弱い分類であるボックスだけなので、『北の魚コーナー』の穴を塞いでから一体ずつ対処すれば良い。
水族館の館内は横一直線に広がっていて、『NOWHEREの海』『海外の海』『南の海』『北の海』と順番に並んでいる。今いるのが現実世界には存在しない生物を集めた『NOWHEREの海』エリアなので、問題が起きている『北の海』までは遠い。
進藤が『海外の海』エリアに足を踏み入れた時、周りを浮遊しているボックスの動きに違和感を感じた。
「!」
目の前に見えた光景に、一瞬で背筋が凍りつく。テーブルの上のグラスが落ち始めている瞬間のような、テレビでショッキングな映像が流れた時のような、交通事故が今まさに目の前で起きようとしている時のような感覚。
小学校低学年くらいの小さな子供の足元に、見たことのある黄色の魔方陣。ボックスの中でも巨大な個体が使うことのある魔法、『ハイエンジ』だった。
為すすべなく、進藤の目の前で爆発が起きる。今まで少しも迷いのなかった足取りが急に重く、棒のように動かなくなった。
いつの間にか開いていた口から浅い息が漏れる。目の前が滲んできた。
自分が一番楽しませるべき子供が、目の前で―――
「―――!?」
しかし、晴れた爆風の中には子供が身を固めるように丸まったまま立っていた。大きな爆発だったにもかかわらず、身に着けている赤いTシャツは汚れ一つなく、頭を守るように張り付いている腕にも傷一つない。
進藤は強く動揺したものの、次にとるべき行動は理解していた。
「『ソロウ』!」
黄色の…楽属性のボックスに向かって、すぐさま魔法を放つ。
小規模な爆発が起きている間に少年に駆け寄り、すぐさま手を取って来た道を引き返す。
今までいたエリアは小さな個体のボックスしかいなかったが、問題が起きている場所に近付くほど強力な個体がいるのかもしれない。とにかく、『NOWHEREの海』エリアに戻った方が良い。
少年の手からは引っ張る力を感じるが、それには構っていられなかった。まずは安全の確保が先だった。
ボックスの数が少ない場所に移動し、周りの警戒を怠らないようにしながらも少年を見る。進藤の見間違いではなく、少年は確実に無傷だった。
仮想世界でもアンダーワールドにおいては衣服の汚れや体の傷は残る。魔法自体は確実に受けていた筈だが、どうやって防いだのか。
少年は進藤には目もくれず、来た道の方に戻ろうとしていた。進藤が手を掴んでいるので戻ることはできないが、進藤自体に何の警戒も、何の興味も示さなかった。
少年の様子を見て、進藤はいつも通りに悪い仮説を立てた。
「…もしかして、まだ家族が向こうに?」
進藤が考えられる中でも最悪の仮設だった。嘘でも首を振ってほしいという気持ちがあったが、少年は初めて進藤の方を見て、強く頷いた。
「ご両親は?」
今度は首を振った。両親がこの子を放っておいて今何をしているのかは分からないが、おそらく少年の兄弟がまだ危険な場所にいることを進藤は瞬時に頭に入れる。
今自分が取れる最善策は何か。この子を完全ロックの部屋に連れて行くことも選択肢に入るが、完全ロックは効果が強力な分、解除するのにも時間がかかる。
それに、少年を連れて来た道を戻っている間に他の来場者に危険が及ぶ可能性もある。当然、少年の家族も含めて。
「…分かった。私と一緒に君の家族を探しに行こう」
苦渋の選択ながら、進藤は少年と共に行動することを選択した。少年一人だけなのであれば、おそらく自身の力だけで守り切ることができる。少年の家族と合流したら、すぐさま引き返して完全ロックの部屋まで連れて行く。
少年の家族以外にも来場者がいる可能性はあるが、二人を守りつつ他の来場者を探すのは厳しい。その場合は一人守るどころか、全滅の可能性が大きくなってしまう。
少年は頷くと、進むべき方向を見据えた。進藤も少年の手を取ったまま立ち上がり、周りを警戒しながら歩き出す。横一直線とは言っても、木から枝が伸びるように様々なコーナーを設置しているので色々な場所を見て回らなければならない。
しかし、スタッフ全員が来場者全員の安全を確保できていると思っていたのであれば、少年のようなスタッフが見逃した来場者がまだいる可能性はある。
ボックスは視界に入らない限り襲ってくることは基本ない。その視界も非常に狭く、個体の大きさにもよるが十メートル前後離れれば認識されることはなくなる。できるだけ近寄らないように気をつけつつも、可能な限り足早に、隅々まで確認していく。
「?」
少年が手を引く力が急に強くなったため、進藤は立ち止まって振り返る。少年は、気になっているかのようにただ一点を見つめていた。
少年が見つめていたのは、「STAFF」の文字が書かれているドア。進藤は勝手に除外していたが、確かに中にいる可能性は考えられる。
ボックスは生態上、ドアを開けることができない。必死で逃げ回ったのであれば、この際スタッフ専用など関係なしに逃げ込む場所としては考えられる。
周りを警戒しながらドアに近付く。中に人がいるなら、いきなりドアを開けることで大声を出してしまうかもしれない。その場合、ボックスが聴覚で反応して近寄ってきてしまうかもしれない。そっとドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開けた。
「ウェッヒヒ…お姉ちゃんと一緒に行こうねぇ…」
「ちょっと、何してるんですかあなた」
目の前の光景に、思わず進藤は声を出した。声をかけられた人物は飛び上がって驚くと、驚きの表情のまま後ろを向いた。
大きめの白いセーターに、スキニージーンズ。黒色のボブカットに頭には茶色のベレー帽を被っていて、黒縁の眼鏡をかけていた。一言で言うなら、公園などでキャンバスを広げてパレットと絵の具を持って絵を描いていそうな女性、というのが的確な表現だった。
そんな女性から発されたとは思えないような発言だったが、ベレー帽の女性は態勢的に今にもその奥にいる小さな少女に飛びかかろうとする直前のように両手を広げて指を動かしていた。
女性は慌てて身体の後ろに両手を持っていくと、口をすぼめて視線を逸らす。
「いや、迷子の幼女の保護を…」
「おにいちゃん!」
奥にいた少女が女性の言葉を遮るように叫び、少年に走り寄った。
ドアは既に閉めていたので、おそらく声は響いていない。少年の家族が見つかったことに進藤は胸を撫で下ろしつつ、女性の方を見た。
「あ、やめてください。犯罪者を見る目で見ないでください。手は出してません。まだ」
まだ?
だが、進藤はこの女性がそこまで危険な人物ではないことをなんとなく察していた。というのも、追われている筈の少女が全く怖がっておらず、むしろ笑顔を向けていたからだった。例えるなら、怪獣ごっこの悪役を自分で買って出たような状態。
「…こんなところで何を?」
進藤の言葉に、女性は不思議な顔をする。
「何をって言われても…大きな揺れが起きた時にその子が走っていったから、海岸でウフフアハハする恋人みたいな感じで追いかけてたらここに来ました」
「…」
要するに、少女を保護しようとしてここに辿り着いたということだろう。年齢的にも二十代のように見えるし、大人としての責任感はあるのだろう。
「でも良かった~。お兄ちゃんに会えたなら後は安全に帰るだけだね!」
「そうですね…『NOWHEREの海』エリアにある部屋は安全なので、そこまで移動しましょう」
「オッケーです。ロリとショタの安全を第一に!」
目が据わっている女性に軽く引きつつ、二人にも静かにするよう促してドアを開ける。
相変わらずボックスは辺りを浮遊していて、さっきよりも数が多くなっていた。開けられた穴からどんどんモンスターが侵攻してきているのかもしれないと不安に思いつつ、『NOWHEREの海』エリアへ引き返す。
ちょうど『NOWHEREの海』エリアと『海外の海』エリアの境目に到達し、少しは安心できると思った矢先。
「!?」
けたたましいサイレンが鳴ると同時に、エリアの境目にあるシャッターが勢いよく降りた。
緊急事態が起きた際に、エリアを遮断するために設置してあるシャッターだった。
行く手を遮られた…?
進藤が考えを巡らせるよりも早く、音に反応して無数のボックスが寄ってくる。
「私の後ろに…!」
進藤が身体を張って前に出る。とはいえ、進藤でも対処できるか怪しい状況だった。三人を守りながら、巨大な個体も含んだボックスの大群を倒せるかと言われると、かなり厳しい。
それでも、進藤の頭には三人を助ける以外の選択肢はなかった。
進藤は覚悟を決めてUIを起動し、コマンドを選択する。対象を決定するために手を伸ばすが、その瞬間にボックスの周りに紫色のヴェールが張られているのが見え、思わず歯を食い縛った。
スキルシールド。巨大な個体のボックスが稀に使うことのあるスキルで、一度だけ魔法攻撃を無効化する効果だった。
今魔法を発動しても効果がない。魔法を無効化している間にボックスが魔法をこちらに向かって放ってくる。
絶望するよりも先に、進藤の横から手が伸びた。ボックスの集団を指差すように、人差し指だけ伸ばしていた。
「『書き直し』!」
目の前に巨大な消しゴムが現れ、ボックスを洗うかのように空間を上下しだした。何が起きているのか進藤が把握するよりも先に、もう一度同じ声が響いた。
「『麻痺薬』!」
伸ばしていた女性の手の平に、ラグビーボールくらいの大きさの黄色と白のいかにもな薬品カプセルが現れた。女性はそのまま下手投げでボックスに投げつけると、連鎖反応のように次々と順番にボックスが地面に落ちる。
「止められるかどうかは運なので、今のうちに早く!」
「こちらへ…!」
事態を把握するよりも、子供の安全が優先だった。女性の言う通り、全てのボックスの動きが止まっている訳ではなかった。
進藤は兄妹の手を取ると、ボックスの脇をすり抜けて走っていく。女性も進藤の後に着いていく。
「『メガエンジ』!」
充分に距離を取った後、女性が振り返って魔法を放つ。楽属性魔法である『エンジ』を全体化させた魔法だった。対象が増えるほど爆発が大きくなるため、現状の目眩ましにも最適だった。
大きな爆発が起きるのを背中に感じつつ、進藤は目の前にあるドアを開けて飛び込んだ。




