サイコパス流
「そこで何をしている」
突然ヴィデル様の目が開いたので、ものすごくびっくりしたが、平静を装う。
「いえ何も。そんなことより、交換レートの資料の翻訳をお願いしてもよろしいですか?」
「……ああ」
ヴィデル様は二階に資料を取りに行き、少しして、こないだとは別の外国語の本を持って降りてきた。
そして、いつものヴィデル様の定位置とは反対側に座ったのだ。
つまり、私の定位置の隣である。
「早く座れ」
慌ててメモの準備をし、いつもの椅子に座るや否や、ヴィデル様が翻訳を始めた。
「光や風のように、事象が広く分散して生じる魔石の場合、魔力の出力量が徐々に減っていく。一方で、雷や水のように、事象が一点に集中して生じる魔石の場合は、魔力の出力量の減少は見られない……」
いい声だな。ずっと聴いていたい。
白シャツを着たイケメンが、難しい本を片手に、隣に座って内容を教えてくれている。
なんて贅沢なシチュエーションだろう。
「……おい、手が止まっているぞ。全部覚えているんだろうな?」
やばっ。
「あ、すみません、雷と水のあたりからもう一度お願いします」
「ばかもの。ほぼ最初からじゃないか」
そう言って、ヴィデル様は私の手からペンを奪うと、おでこを軽く小突いた。
え、好き。執事に小突かれるのと全然違う。好き。
でも、なぜか、ペンがいつまでもおでこに当てられたままである。
「次聞いていなければ、このままペンを壁まで突き刺すぞ」
ペンが頭を貫通する壁ドンなんて、初めて聞いた。
次からは絶対にちゃんと聞こうと心に誓ったのだった。
*
勉強会が終わって昼時計を見ると、もう真上を指していた。
ティオナがお昼を運んできてくれたので、テーブルを片付ける。
お昼もやっぱり四皿ある。嬉しい。
いただきますをして食べ始めると、ヴィデル様が口を開いた。
「昨日、おまえと我が領との契約が成ったわけだが、それに先立ち、おまえの身辺整理を進めていた」
「身辺整理、ですか?」
「ああ。おまえの話では、勘当やらクビやらは全て口頭でのやりとりだったようだからな」
「……それは、今、一番不安に思っていることなのです」
「研究所側で契約が正式に破棄されていない場合、我が領との契約をしたおまえは、二重契約状態になる。また、おまえの父親がおまえが誘拐されたなどと騒げば、我が領としてはおまえを返さざるを得なくなるかもしれん」
食事の手を止め、一言たりとも聞き逃さないようヴィデル様の声に集中する。
「というわけで、昨日これを手に入れた」
そう言って、ヴィデル様が見せてくれたのは、驚くべきものだった。
なぜかセレスティン王家の紋章入りの、研究所との契約破棄について記載された書面である。
「これは……」
「おまえが研究所をクビになったと聞いてから、おまえの契約状況について研究所に問合せたが、曖昧な回答でな。おまえがクビになった旨は、出資をしていた王家にも連絡されていたから、王家の証言に基づき正式に契約破棄させたものだ」
「そんなことが……」
「これで、研究所がおまえを横取りする権利はなくなった。権利もなく勝手をしようとすれば、容赦はしない」
かっこいいなぁ。
「それと、おまえの家についてだが、昨日父上がストラード家に出向き、成り行きでおまえを預かることになったと伝えたそうだ」
「えっ?」
「その際、誓約書を書かせようとしたが、うまくいかなかったそうだ」
「誓約書?」
「ストラード家がおまえに関する一切の権利を手放し、全ておまえ本人に委ねることについての誓約書だ。これを断られたことで、私と父上は、ストラード家は何か隠していると考えている」
「なぜですか?」
「おまえの家からすれば、おまえは資産ではなく負債の状態だ。犯罪者扱いした上、勘当されたんだろう? であれば、権利を手放すことはそのまま負債を手放すことになるのだから、何も困ることはないはずだ」
面と向かって私を負債呼ばわりするのは、きっと後にも先にもヴィデル様だけだろうな。
「それなのに、手放さないというのは、ストラード家にとって、なんらかおまえに資産価値を感じていて、かつその価値が負債を上回っているということだ」
追い出されたのにな。
「まあ、とはいえ、一番問題であった二重契約状態は回避されたんだ。もしストラード家がちょっかいを出してきたとしても、おまえとおまえが作るものは必ず守る。心配ない」
「あの、本当にありがとうございます」
「我が領の利益を守るためだ、気にするな」
もし、ヴィデル様の言葉通りであるならば、私に関する誓約書は、私本人ではなく、アトラント領主に全てを委ねるとするだろう。
そうなっていないということは、あくまでも私自身の意思を尊重できるよう配慮してくださっている証拠だと思う。
どんな意図であれ、「必ず守る」と言ってくれたことが、とても嬉しかった。
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