序章6
引き返していく一行が見えなくなるまで、彼はその場に佇んでいた。小鬼族が動く気配はない。「よし……」小さく呟いて、彼も出立した。
滝を迂回するルート、道ではない、むき出しの岩が飛沫に濡れた崖を、杖をたよりに登ってゆく。登り切ると小さな細い道がある。藪を切り開いたような、鬱蒼とした森の中の小道。この道に出たら、既にウタルルへは行けない。
小鬼族はすべて彼を追って来ている。ヒシヒシと殺気を感じる。フッと笑い、独りごちた。
「仕掛けは上々、後は仕上げをごろうじろってヤツだな。ん?」ごく自然に口から出たのだが奇異に感じた。
「ごろうじろってどんな日本語だ? 変じゃないか」
これは『細工は流々、仕上げをご覧じろ』が正しく、間違いではない。語呂合わせからか、『細工は流々、仕掛けは上々、後は仕上げをご覧じろ』と使われることもある。口をついて出たのはこの後半部分。久しく日本を離れている彼は記憶が曖昧。おかしな処がひっかかる。
「ごろうじろであっているのか……。日本語か? これ」
総身にヒシヒシと殺気あびながらも呑気ごとに思いを馳せる。
「ご覧あれじゃお嬢さんみたいだし……。でもご覧あれは聞いたことあるな」
殺気は凄まじいが、今、襲われることはないはず。ならば気付かれないことが肝要。怯え、焦り、闘争心、いかなる表情も面に出さず、奴らに気付いていない風を装わなければならない。
表情だけではない。その身から緊張漂えば、野生の獣はすぐに勘づく。もしも気取られればこの場で襲われる。鬱蒼と藪生い茂るこの小道で襲われれば、いくら彼でもひとたまりもない。もしも彼に一欠片の勝機あるとすれば、見晴らしのいい草原。
そこでならたとえこの大群に取り囲まれても、移動呪で切り抜けることが可能。
「それにしても……多いな」一人呟き、笑み浮かべる。
追尾に気付いて既に数時間。気配からおおよその数は見当ついた。クムラギ大襲撃の時ほどではない。しかしウタルルの小さな村を飲み込むには充分な頭数。クムラギのような大都邑ならこの大群を迎えても、最悪一区画を失う程度で済む。しかしウタルルの小さな村ならばうめつくされる。
友を思う。
「この大群をどうさばく、オニマル。お前の腕の見せ所だ。二・三日は俺が時間稼ぎしてやる。少しだけ頭数も減らしてやる」
藪が、木々が、いつしか高地のそれへと変化する。既にかなり登った。密集した藪は姿を消す。小鬼族どもは姿見られぬようかなり退いたが、尾いてきている。背後ばかりではなく、彼の左右に両翼広げた陣形。
もうすぐ木々が途切れ湿原に出る。背の高い葦の野原が広がっている。そこを抜けなければ彼に勝機はない。
さすがに動悸がはやまる。緊張が面に出る。歩みが強ばる。けれど一歩一歩、足を進める。足を止めない。刃交える瞬間刻一刻と近づく。
はたして、俺は躱せるか。
木々が途切れた。空が見える。フッと息をつき、次いで唇噛み締めた。足を止めてはいけない。
周囲が全く見えない葦野原。その中に細い道が一筋。足を進める。
途端に左右の葦がざわめく。音を立てて揺れる。
まだだ––。まだ来ない––。自分に言い聞かせ焦る心を静める。
大群が一気に間合いをつめた。彼の左右をかためた。ひしめく葦の中から、奴らの息吹が聞こえそうだ。緊迫した空気の中、歩を進める。高鳴る動悸、緊張、もはや隠しようない。
気付かれてないと思っているのか。こいつらは馬鹿か––。
彼の歩みに合わせて、ジリジリと移動する葦の中の大群。左右を獣に囲まれて平静装い歩く彼。互いの呼吸の読み合い。
ここがウタルルではないこと、それはまだ分かっていないはず。こことウタルルは生態系から風景からそっくりであり、違いは劍竜がいるかいないかのみ。
こいつらは馬鹿だからきっと劍竜がいないことに気付かない。バレない。まだ襲ってこない。けどこいつらって、めっちゃせっかちで辛抱足りない奴らだったよな……作戦もクソもない……、と言うより、せっかくの作戦を自分らでぶち壊す、みたいな……。そう思った次の瞬間。
大きな斧の刃が、すぐ脇の葦の上に高々とかかげられ、ギラリと太陽を反射した。ぞくりとした、次の瞬間、一斉にふりかざされた斧、斧、斧。
咄嗟に転がり初撃を避けた。しかし転がった先に打ちこまれる斧、無数。体勢、立て直せない、剣も抜けない。転がり、仰向けに。四枚の斧の刃が、腹、胸板、顔面をザクッとえぐる寸前、刃の向こう、空。見えた。
「フル」
(fulu:羽[ppn ])
[PPN 古代ポリネシア語・PNP 古代中核ポリネシア語・PEP 古代東部ポリネシア語]
風の中に飛んだ。しかし体勢が悪い。もう一度唱え、さらに高く飛ぶ。風が冷たい。耳鳴りがする。ゴウと鳴る。
落ちながら下を見る。一瞬で見て取った。
びっしりと茂る葦原の中に小鬼族の群れ。葦野原を埋め尽くしている。
葦の途切れた先に草原。獣たちの水飲み場。色鮮やかな大型の野鳥が群れている。
遥か先に大きな岩山が墳墓群のように点在している。奇岩積み重なる裸山。岩の隙間に根付いてまばらに生えているのは松に似た針葉樹。貧弱な緑を添えている。
あそこまで行ければ……。岩山の頂上から頂上へ移動呪で。逃げ切れる。
「フル」龍首の印結び、再度移動呪。
草原に降り立ち劍竜冠頭太刀を抜いた。葦野原を見据えた。距離役百メートル。
「心臓バクバクもんだったな」正直に言葉にすると逆に肝が据わった。
ここがウタルルであり、死守するかの如く戦いながら、あの岩山のある場所まで退く。そこで姿をくらます。上手くいけば奴らはこの草原をウタルルだと信じて、村の捜索に数日を費やす。完璧なシナリオ。
「どうした。出てこい」
ざわついている。揺れる葦。小鬼族は姿を現さない。嫌な予感がした次の瞬間。
音もなく飛んできた数本の矢が身を掠めた。頬を、髪を掠めた。ハッとしたが遅かった。一本が左手を貫いた。
「ぐっ」
途端にわき起こる鬨の声。草原に轟く。野鳥たちが驚いて飛び立つ。葦原から躍り出た万の大群。斧ふりあげて駆けてくる。先頭に蜥人が数頭。蜥人は弓を使う。リリナネの言葉を思い出した。
『でも、君ならきっと大丈夫。弓さえ気をつけていれば』
「まずい……」矢は手の平を貫いている。矢尻があり羽根がありどちらにも抜けない。矢を折ろうとしたが激痛走るのみ。折れない。
「うおおお」雄たけびをあげ渾身の力で太刀ふり抜いた。まっぷたつに切れた矢。激痛こらえて抜いた。
血が流れ出る。止まらない。それよりも。動かない。握ろうとして握れない。ピクリともしない。指一本。つまり。印が結べない。
駆けてくる大群に目を移した。小さく呟いた。
「リリナネさん。約束です。来世で会いましょう。きっと」
覚悟した。ここが俺の死地––。
光景目に焼き付ける。美しい高原。湿原のほとり。小さな花がまばらにある。
充分だ––。
「きっと同じ世界に生まれて……。見つけます。どこにいても」
泥を蹴散らして突進してくる大群。蠻族特有の奇怪な吶喊の声。地響き、草原に轟く。劍竜冠頭太刀かまえ、待ち受けるアオイ。万対一。
「うおおおお」
先頭きって駆けてきた蜥人二頭を左右に切り捨てた。一頭は首をはね飛ばし、もう一頭は喉を斬り裂かれても立っていた。回し蹴りで蹴り倒した。返す刃でもう一頭、腹を撫で斬った。倒れた仲間を踏み台にして跳びかかってきた敵。胸板を貫き引き倒した。
その時には大群にのみこまれていた。ぐるりとアオイを取り囲んだ小鬼族の群れ。
大喝した。敵の動きが止まった。
取り囲み、しかし手を出しあぐねている蠻族ども。手負いの獅子を前に臆している。先んじた者から殺されるは火を見るよりも明らか。
「来い。たとえ移動呪が使えずともこのアオイセナ、貴様らなど敵ではない。死にたい者からかかってこい」笑ってみせた。
二匹が同時に襲いかかってきた。前後。前方の敵の斧をかわし、背後に刃廻す。斬り捨て、ふり返り、かわされよろけている敵を一刀に撃つ。さらにもう一匹、勝機と見てつっこんできた敵を斬り捨てた。
常に三匹––。ふっと脳裏に浮かんだのは、イオワニの道場で人形を使って兵法を練っていた頃のこと。一度に相手にするのは、不思議と三匹という状況が多い、そこを切り抜ければ、また三匹、三匹、そう考えながら兵法を練った。懐かしい思い出。
修羅場の只中にありながら、郷愁こみあげる。懐かしい人々の顔、心に浮かぶ。次々と。優しい人々、その笑顔。今は蠻族に囲まれ、血刃ふるっている。その切っ先にいつものキレがない。鈍い。
左手の負傷。勿論それもある。加えてここは湿地。足もとが緩くぬかるんでいる。回転殺法が威力をそがれ、自然腕力で剣をふるう。
仲間の亡骸踏み越えて襲ってくる敵。次々と振り下ろされる斧、紙一重でかわす。
視界の隅に垣間見える。
血を飛沫あげて倒れる敵。劍呪が炸裂している。次々と。爆裂も。火球が地表覆い小鬼どもを飲み込む。
目を向けれない。目を向ければ即座に斧に撃たれる。だからはっきり見たわけではない。
リリナネさん––。
最後の時迫り幻覚を見ているだけなのかも知れない。死闘の最中で、過去の記憶が視界に映っているだけなのかも知れない。けれど。
ありがとう––。
ずっと感じていた。優しい、懐かしい、その人の感覚。
一緒に戦おう––。
躍りかかってきた敵の胸板に血刀叩き込む。もはや斬ると言うよりも殴りつける感触。既に刃も彼もボロボロだった。敵詰め寄せて刃ふるうスペースもなくなってきた。体当たりして貫く。ふり向きざま肘で殴る。膝蹴りを喰らわせる。剣で殴りつける。
斬り合いが、もみ合いに変わる。
その時。
彼女の悲鳴が聞こえた気がした。右肩に衝撃を感じた。ドンと。地球が割れたかと思った。斬られたとは思わなかった。殴られて肩胛骨が折れたと思った。けれど横腹につっと生温い血が伝い、斬られたと分かった。自分の血を冷やっと感じた。ふり返り刃叩き込もうとしたが、もはやその手は剣を握っていなかった。
ガクリと膝をついた。続いて襲い来るはずの衝撃を覚悟して躰を強ばらせた。最後に叫んだのは彼女の名。
「リリナネさんっ」
こ の 多 重 宇 宙 の ど こ か で