84.シ・プキラ2
隊員の年の頃は二十代半ば、こいつが俺を殴ったのか。男の声には恫喝染みたものが漂っている。
「どういうつもりだ、二度と来るなと言ったはずだ」
「いえ、どうしても大切な用事があって。忘れ物を取りに――」
「それは命より大事なものか」
言葉を遮られ国樹は思わず押し黙った。恐らく彼は恩人だ。受けた恩も返さず、忠告も無視してノコノコ戻って来た。立場が逆ならどうしただろう。
「旅券にはササキ・コンドウと記されてる。なあ、俺は日本に詳しくないが、これファミリーネーム並べただけだよな」
肘をフロントガラスに押し付け、見下すようこちらを見ている。その目には呆れと怒りが混ざっていた。
「前に言ったよな、偽の旅券使うなと。喧嘩売りに戻って来たのか」
やはりこの男だ。国樹は確信しあえて頷いた。
「へえ、俺ら暇だと思われてんのか。お前、変わってるな」
男の肩に提げられた小銃が傾く。国樹は両手を上げそれから片方の手を使い控えめな動作で胸元を叩く。本物の身分証を出すという意味だ。直接取り出してくれても構わない。
意味は伝わったらしい。男は何度か小さく頷くと、
「必要ない。やめとけ」
にべもなくはねつけた。参った、どうする。冷や汗が流れる感覚、固まっていると、
「目的は。なにしに戻って来た」
男は目を細めまた見下すよう問いかけてきた。
「蹉跌の塔に用があります。それが終わったらすぐ出国します」
「へえ。お前状況分かってんのか?」
「よく理解しています。ご迷惑おかけして、ご忠告も受け取りました。それでもどうしてもひとつだけ、確認したいことがあるんです」
正直に話す。最初から決めていたことだ。また殴られても構わない。正直さは美徳でも、馬鹿正直は愚鈍の証明。若さを武器に理解してもらうしかない。
「忘れ物ねえ……お前どうしようもないな。バギー下げろ、検問所から離れろよ」
男は小銃で車体を小突きバックしろと指示を出す。参った、相当怒らせた。言われた通り素直に従い、ゆっくりとバギーを後退させる。
男は小銃を提げたままついてきて「もっと下げろ」と促してくる。命令に従い更にバギーを後退させる。バックし続け、気がつくと詰所が見えないところまで下がっていた。
嗚呼、と国樹は嘆息していた。同僚にバレず私刑を加えるならこのぐらい離れた方がいい。最悪だ、下手すりゃ撃たれる。いっそこのまま走り去って……。
隊員の男は「そこで止まれ」と言ってから近づいてきた。
それからまたフロントガラスに手をかけ、
「お前ホントに頭どうかしてんのな」
心底呆れた風に零し小銃を背に回した。
「なんの用だ。言いたいことがあるんだろ」
そうして無鉄砲な若者を憐れむよう口をひん曲げこちらを見ていた。
国樹は大きく息を吐いた。もう二度とこんなことしないし、したくない。男はその様を見て一瞬口元を歪ませた。
「なんだ、俺は物分かりのいい兵士じゃねーぞ。まだ終わってない。納得いく理由を聞かせろ」
「はい、そのつもりで来ました。いなかったらどうしようかと」
男は「ハッ」と吐き捨てるよう哂い眉間に皺を寄せている。そうして顎で言えよと促してくる。
「先日はご迷惑おかけしました。殴られる程度で済んで感謝しています」
礼を言うとやはり男は哂った。
「知らないね、なんの話だ。兵士は民間人を殴らない。殴られる奴は相当行儀が悪かったんだろう」
全く。やらかしを詫びに来たわけではないが、それでも詫びるしかない。
「どうしても国境を越えたいんです。ご迷惑なら他のルートを使います」
「どっちにしろ入る気か。舐めてるねー」
「申し訳ありません。数日中には出て行きます。帰りもここを通れというならそうします」
便宜を図ってもらうなら袖の下を用意するべきかもしれない。しかし筋を通すタイプの人物だと逆効果もあり得る。
「蹉跌の塔ね。ただそれだけを伝える為にわざわざここ選んだのか」
「パキスタンには入っていません。なにが起きるか分からないので」
姿勢を示し礼を尽くすことぐらいしか出来ない。それでいいのか国樹には判断がつかなかった。
「ああそう……」
男はまた哂い、それから俯いた。標高4720メートル、日中とはいえチベット高原はやはり寒い。夏でこれなら冬の寒さは厳しいという次元ではない。この境界を見張り守る、過酷な任務だ。
沈黙が続いたが、やがて男は口を開けはっきりと告げた。
「お前やっぱなんも分かってねーな。どこうろついてたんだ?」
車体に両手をつくと、国樹の顔を覗き込むよう男は顔を近づけた。




