第13話
朝の光が差し込むリビング。俺は冷めかけたトーストをかじりながら、手元のスマホを睨みつけていた。
バイブレーションの設定は切ってある。それでも、画面は絶え間なく点灯を繰り返し、次々と新しい通知を表示し続けていた。
KANAの検証動画が投稿されてから、状況は一変した。
『日本一うるさい実況の本当の理由』
そんな見出しのまとめサイトの記事が乱立し、俺のチャンネルの登録者数は一晩で跳ね上がった。SNSのトレンドには『#バリアフリー実況』『#日本一優しい実況者』という言葉が並んでいる。
コメント欄は、昨日までの罵詈雑言が嘘のように、称賛の言葉で埋め尽くされていた。
『妹さんへの愛に泣いた』
『これぞ神編集。今まで叩いててごめんなさい』
吐き気がした。昨日まで画面が見づらいと嘲笑っていた連中が、事情を知った途端に手のひらを返し、俺を聖人君子のように崇め立てている。その薄っぺらい熱狂が、ひどく気持ち悪かった。
俺はただ、結衣に音を伝えたかっただけだ。誰かに褒められたくてやったわけじゃない。
階段を下りる足音がして、結衣がリビングに入ってきた。
「おはよう、お兄ちゃん」
「……おう。おはよう」
結衣のまぶたは、ほんの少しだけ赤く腫れていた。昨夜、暗い部屋で一人泣いていたことを、俺は知っている。
結衣は俺の向かいに座り、麦茶の入ったコップを両手で包み込んだ。
「スマホ、すごい光ってるね」
「ああ。なんか、変なことになってる」
結衣は少しだけ身を乗り出し、画面を覗き込んだ。そこには、絶賛のコメントが滝のように流れている。
「……みんな、お兄ちゃんのことすごいって言ってる」
「放っておけ。どうせすぐ飽きる」
結衣はコップから手を離し、俺の顔をまっすぐに見つめた。
「わたし、お兄ちゃんの編集、ダサくて面白いから好きだよ」
へへっ、と照れ隠しのように笑う。
その笑顔が、俺の胸を鋭くえぐった。
無理をしている。俺に心配をかけまいと、必死に明るく振る舞っているのだ。昨夜の震える背中を見た俺には、その嘘が痛いほどにわかった。
「……そうかよ」
俺は視線を逸らし、残りのトーストを口に押し込んだ。砂を噛んでいるような味がした。
◆ーーーー◆
昼過ぎ。俺は自室のベッドに寝転がり、スマホの画面をスクロールしていた。
SNSのダイレクトメッセージ欄には、見知らぬアカウントからの連絡が山のように届いている。
『〇〇テレビの制作局の者です。障害を乗り越える兄妹の絆について、ぜひ密着取材をさせていただけないでしょうか』
『ネットニュースの編集部です。バリアフリー実況の先駆者として、耳の聞こえない妹さんのために奮闘する涙のストーリーを記事にさせてください』
どいつもこいつも、判で押したように「感動」「絆」「美談」という言葉を並べ立てている。
スマホを壁に叩きつけたくなった。
あいつらは、俺たちの何を知っているというのか。苦労なんてしていない。俺はただ、結衣が笑ってくれるのが嬉しくて、夢中でキーボードを叩いていただけだ。それを勝手にお涙頂戴のストーリーに仕立て上げようとする大人たちの浅ましさに、虫唾が走る。
ドアがノックされ、結衣が顔を出した。
「お兄ちゃん、入ってもいい?」
「ああ」
結衣はベッドの端にちょこんと座り、俺の手元のスマホに目を落とした。
「……テレビの人から?」
「そんなとこ。障害を持つ妹のために頑張る優しいお兄ちゃん、だってさ」
自嘲気味に言うと、結衣はうつむき、自分の膝をぎゅっと握りしめた。
「わたし、かわいそうな子じゃないもん」
ぽつりと漏れた声には、はっきりとした拒絶の色が滲んでいた。
結衣は、過剰な同情や配慮を向けられることを何よりも嫌う。一人の人間として、ただ普通にゲームを楽しみたいだけなのだ。世間の「美談」という枠に押し込められることは、彼女の尊厳を傷つける行為に他ならない。
「当たり前だ。お前はただの、俺のうるさい妹だ」
「うるさいは余計だよ」
結衣が少しだけ口をとがらせる。
俺はスマホを操作し、届いていた取材依頼のメッセージをすべて選択した。
「こんな連中に、俺たちの時間を切り売りしてやる義理はない」
一括削除のボタンを押し、通知を完全に切る。
メディアの身勝手な期待になんて、絶対に応えない。俺たちは沈黙を貫く。世間がどれだけ騒ごうと、俺の動画は結衣ただ一人のためのものだ。
「お兄ちゃん、無理してない?」
「してない。俺はお前とゲームができれば、それでいいんだよ」
結衣は小さく頷き、部屋を出て行った。
ドアが閉まった後、俺は深く息を吐き出した。
強がってみせたものの、胃の奥には冷たい鉛のような重さが居座っていた。
◆ーーーー◆
夕食のテーブルには、俺の好物であるハンバーグが並んでいた。
「はい、熱いうちに食べてね」
エプロン姿の母さんが、湯気の立つ皿を俺の前に置く。
「サンキュ」
箸を手に取ったものの、食欲はまったく湧かなかった。
母さんは向かいの席に座り、俺と結衣を交互に見つめた。
「ネットの心ない声なんて、気にしなくていいのよ」
穏やかな、けれど芯のある声だった。
「急に周りが騒がしくなって、戸惑うことも多いと思う。でも、あなたたちはあなたたちのままでいいんだから」
母さんは、俺たちがネットの喧騒に巻き込まれていることを察しているのだろう。俺が世間の評価に振り回され、無理をしているのではないかと心配してくれている。
「わかってるよ。別に気にしてない」
俺は母さんから視線を逸らし、ハンバーグを口に押し込んだ。
肉の旨味も、ソースの酸味も、今の俺にはよくわからなかった。ただ黙々と顎を動かし、飲み込む。
結衣も静かに箸を進めている。いつもなら「美味しいね」と笑いかけてくるはずなのに、今日の彼女はどこか上の空だった。
テレビからは、バラエティ番組の明るい笑い声が流れている。
その音が、やけに遠く感じられた。
◆ーーーー◆
夜。
結衣のための動画編集を再開すべく、俺は重い腰を上げて自室のPCを立ち上げた。
ファンの回転音が静かな部屋に響く。
モニターが明るくなり、見慣れたデスクトップ画面が表示された。
マウスに手を伸ばし、動画編集ソフトのアイコンにカーソルを合わせる。
ダブルクリックすれば、いつもの作業が始まる。足音を拾い、銃声を視覚化し、結衣のための字幕を打ち込む。
だが、人差し指に力が入らなかった。
『お兄ちゃんの編集、ダサくて面白いよ』
今朝の結衣の、無理に作った笑顔が脳裏にフラッシュバックする。
昨夜、暗闇の中で震えていた彼女の小さな背中。
世間の連中は、俺たちを感動の美談として消費しようと手ぐすねを引いている。俺が動画を投稿し続ければ、結衣はさらに世間の目に晒されることになる。
「障害者の妹」というレッテルを貼られ、見世物にされる。
俺は結衣に、音の世界の豊かさを伝えたかっただけだ。一緒に笑い合いたかっただけだ。
それなのに、俺の作った動画が、結果として結衣を泣かせ、彼女の尊厳を脅かそうとしている。
マウスから手を離し、両手で顔を覆った。
息が詰まる。
自分が信じて積み上げてきたものが、すべて間違っていたのではないかという疑念が、黒い染みのように心に広がっていく。
編集ソフトを開くことができない。
真っ暗なモニターの端に、疲れ切った自分の顔がぼんやりと反射していた。
目の下のクマが、ひどく濃く見える。
俺は、どうすればよかったんだ。
部屋の中には、PCの駆動音だけが単調に響き続けている。
手のひらにじわりと嫌な汗が滲む。
このまま、俺は実況を辞めてしまうのか。
答えの出ない問いが、冷たい水のように全身を満たしていった。




