第4話 恋はフルオートの時代です
彼女が一歩近づくたびに、異常さが近づいてくる。
見間違いではない。夢でもない。少なくとも、そう思って済ませられる距離ではなくなっていく。
少女は階段の上で足を止めた。
そこで初めて、彼女の目がはっきり悠を捉えた。
黒縁眼鏡の奥の目が、一瞬だけ揺れた。
「……見えてる?」
悠は、喉が乾いていることに気づいた。
「見えてる、というか」
驚くほど、間の抜けた声だった。
「見えちゃってる、というか」
少女は一度だけ瞬きをした。
「人間に?」
「たぶん人間だけど」
「ありえません」
「それはこっちの台詞だと思う」
思っていた言葉が口をついて出た。
少女は階段を一段降り、悠の前で足を止めた。
声を落とせば、四人組には届かない。けれど、彼女の表情ははっきり見える。
そのくらいの距離だった。
彼女は右手首の端末に目を落とした。時計とは違う。画面は小さく、赤い線と数値のようなものがせわしなく動いている。
「認識遮断、正常。音響処理、正常。一般視認不可。なのに……」
「何の話だよ」
「あなた、なぜ私が見えているんですか」
「知らない」
「見えるはずがありません」
「だから、見えてるんだって」
少女は少し黙った。
「認識遮断を突破している時点で、かなり問題です」
「俺が悪いみたいに言うな」
少女は、再び端末に目を落とした。
険しい顔で、しばらく赤い線を見つめている。
「……もしかして、反応系も」
「何の話だよ」
少女は答えず、銃を持ち直した。悠は一歩下がる。
「待て」
「反応確認です」
「撃つ気だろ」
「支援弾です。物理損傷はありません」
「さっきから弾って言ってるじゃないか」
「大丈夫です。何もなければ、何も起きません」
「その説明が一番怖い」
少女は聞いていなかった。
銃口が、悠の胸へ向く。
さっきまで展望台にばら撒いていた撃ち方とは違った。
少女は銃口を悠の胸元に合わせ、短く息を止める。
「低出力。対象固定」
「やめろって」
引き金が引かれた。
赤い光が、一筋だけ走った。それは悠の胸元で小さく弾け、音もなく消えた。熱くも、冷たくもない。痛みもない。ただ、何かが触れたような感覚だけが、服の内側に一瞬残った。
そして、何も起きなかった。
少女は端末を見た。
それから悠を見た。
「……おかしいです」
「こっちが言いたい」
「今の、ちゃんと当たりましたよね?」
「俺に確認するな」
少女は眉を寄せた。
「もう一回」
「やめろ」
「低出力なので」
「そういう問題じゃない」
二発目が来た。
今度は真正面から胸に当たった。やはり痛みはない。
ただ、何も起きなかった。
少女は完全に固まった。
「……やはり、おかしいです」
「こっちが言いたい」
「条件は、揃ってるはずなのに」
「何の条件だよ」
少女は右手首の端末を見た。小さな画面の中で、赤い線がまっすぐ横に伸びている。
「好き」
「……は?」
「好き、です」
「いきなり告白か?」
「違います! 好意反応の話です!」
少女は顔を赤くして、慌てて首を振った。声は抑えている。展望台の四人に聞こえないようにしているのか、職務上の何かなのかは分からない。
「普通は、少しは動くんです。目が合ったとか、名前を思い浮かべたとか、近づきたいとか、言いたいけど言えないとか」
「説明が具体的すぎる」
「でも、あなたは動かない」
少女は端末を指で叩いた。
「何もないなら、分かります。最初から反応しません。でも、そうじゃない。条件はある。あるはずなのに、支援弾を当てても上がらない」
「それは、俺が鈍いってことか?」
「鈍いのとは違います」
少女は、少しだけ考えた。
「外から押しても、動かない感じです」
その言葉は、妙に胸に残った。
外から押しても、動かない。
言われてみれば、そうかもしれない。
自分には感情がないわけではない。むしろ、あるから困っている。
ただ、それを誰かに見える形にする前に、いつもどこかで止めてしまう。
期待しないように。勘違いしないように。相手の優しさを、自分の都合のいい意味に変えないように。
そうやって先に蓋をしておけば、傷つかないで済む。少なくとも、傷ついたことにしないで済む。
それを、動かないと言われれば、たぶんそうなのだろう。
「……勝手に押すなよ」
「だって、押さないと、誰も好きって言わないじゃないですか」
言い切ってから、少女は自分の言葉に少しだけむっとしたような顔をした。
たぶん、それが彼女の本音だった。
悠は黙った。
赤い線は、まだ横ばいだった。
横ばい。
自分の感情を、そんな形で見せられているのだとしたら、かなり嫌だった。
「お前、何なんだよ」
悠が言うと、少女はぴたりと動きを止めた。
しばらくの間、海の音だけがした。
「私は、ルミナです」
「それは名前?」
「識別名です」
「何の」
少しだけ、ルミナは迷った。
「……キューピッド機関所属、恋愛支援担当」
「キューピッドって、あの、羽があって弓を撃つやつか?」
「かなり雑な理解ですが、否定はしません」
「雑なのはそっちの撃ち方だろ」
「効率的と言ってください」
ルミナは、少しだけ胸を張った。
「弓なんて時代遅れです。現代の恋愛環境では、単発式の矢では発火効率が悪いので」
「発火効率」
ルミナは銃を胸の前で構え直し、得意げに言った。
「恋は、フルオートの時代です」
悠は返す言葉を失った。
恋愛支援。キューピッド。機関銃。発火効率。
どの単語も、同じ文章の中に入れてはいけない気がした。
「つまり、お前は、あいつらをくっつけようとして撃ってたってことか」
「支援していました」
「撃ってただろ」
「あれは支援弾です」
「弾って言ってるじゃないか」
「物理損傷はありません」
「身体が無事ならいいって話じゃないだろ」
「じゃあ、何が問題だって言うんですか」
「人の気持ちを、外からどうこうしようってところ」
ルミナは一瞬黙った。
その沈黙が、少し気になった。
「……自由意思は奪っていません」
彼女は言った。さっきまでより、わずかに声が低い。
「きっかけを作っているだけです。もともと相手への関心がないところには、反応しません」
「本当に?」
「本当です」
即答だった。
迷いのない声だった。
けれど、自分で確かめた言葉には聞こえなかった。
展望台の上では、四人組がまだ鐘のそばにいた。
ただ、さっきまで四人に向いていた会話が、いつの間にか二人ずつの方へ寄っていた。
誰かが言った冗談に、全員で笑うのではなく、隣にいる相手だけが少し遅れて笑う。
その声は小さいのに、さっきより近かった。
支援。
そう呼べば、何かが軽くなるのだろうか。
目を合わせる時間が、少し長くなる。言葉にしないまま、距離だけがほんの少し変わる。それをきっかけと呼ぶのか、介入と呼ぶのか、悠にはまだ分からなかった。
「俺には動くようなものがないってことか」
悠が言うと、ルミナは端末を見た。
「分かりません」
意外な答えだった。
「分からない?」
「関心がゼロなら、最初から反応しません。でも、あなたはそうじゃない」
「どう違うんだよ」
ルミナは、右手首の端末を見た。赤い線は、まだ横ばいのままだった。
「あなた、好きな人がいますよね」
「は?」
声が少し裏返った。
それがもう、答えみたいで嫌だった。
「いない」
「今の間は、います」
「勝手に決めるな」
「好意反応はあります。でも、支援弾では上がらない」
ルミナは端末を指で軽く叩いた。
「だから、おかしいんです」
「おかしいとか言うな」
「事実です」
「お前、ほんと失礼だな」
「確認が必要です」
「何を確認する気だよ」
ルミナが答えようとした、そのときだった。
遊歩道の方から足音がした。




