第三話 髪を切り、仮面を外す
その夜、私は私室の鏡の前に立っていた。
映るのは、長い黒髪と便底眼鏡をかけた女。見慣れた姿だ。
これが私だと、長い間思い込んできた姿。
私は眼鏡に指をかけ、ゆっくりと外した。
視界は、何一つ変わらない。
ぼやけることも、歪むこともない。
この眼鏡には、度は入っていない。
視力を補うためのものではなく、ただ顔を隠すための“仮面”だった。
いつから、そうなったのかは覚えていない。
けれど、社交の場で視線を集めないためには、
これほど都合のいいものはなかった。
私は眼鏡を卓に置き、深く息を吐いた。
――少し、楽だ。
それだけで、十分だった。
次に、髪に手を伸ばす。
指先に絡む長さと重みは、もう必要ないものに思えた。
「髪を、切ってちょうだい」
侍女は驚いた様子だったが、何も言わずに頷いた。
はさみが入る音が、静かに響く。
しゃり、しゃりと、一定の間隔で。
床に落ちていく髪を見つめながら、
私は不思議なほど穏やかな気持ちでいた。
惜しいとも、怖いとも思わない。
ただ、肩から何かが外れていく感覚がある。
――ああ、これでいい。
切り終えた髪は、肩にかかるほどの長さになっていた。
「……さっぱりしましたね」
侍女の言葉に、私は小さく頷く。
「ええ」
鏡の中の顔は、いつもと同じだ。
特別、美しくなったわけでもない。
ただ、余計なものが減っただけ。
それでも、胸の内は驚くほど静かだった。
私は、もう誰かの期待に応えるために
自分を覆い隠す必要はない。
悪役令嬢と呼ばれたことも、
冷たい女だと囁かれたことも、
今は、少し遠い出来事に感じられる。
私は、眼鏡と切り落とした髪から視線を外し、
もう一度、深く息を吸った。
重かった肩が、軽い。
それだけで、十分だった。
これからは、
飾らず、抗わず、
静かに生きていけばいい。
私自身として。




