第二話 悪役令嬢の評判と、公爵家の娘
婚約破棄の翌日、社交界は私の話題で持ちきりだった。
「王子をいじめていた悪役令嬢」
「か弱い男爵令嬢を泣かせた冷酷な女」
「やはり、公爵家という立場を笠に着ていたのね」
どれも、事実とは少しずつ違う。
けれど、噂というものは正確さよりも、語りやすさを好むものだ。
私は公爵家の私室で、静かに紅茶を飲んでいた。
いつもと変わらぬ朝。違うのは、私がもう王家の婚約者ではないという、それだけだ。
「……お前は、本当にそれでよかったのか」
向かいに座る父――ローゼンベルク公爵が、低い声で問う。
厳格な表情の奥に、確かな心配が滲んでいる。
「はい。父上」
私は微笑んで答えた。
「むしろ、肩の荷が下りました」
父はしばらく黙り込み、やがて深く息を吐いた。
「エドワード殿下からの連絡は来ている。“将来の王子妃を傷つけた公爵家の責任”を、遠回しに示唆してきた」
予想通りだ。
「ですが、事実として残っているのは婚約破棄を宣言したのが殿下である、という一点のみ。私が誰かをいじめたという証拠は、どこにもありません」
「……そうだな」
父は、わずかに口角を上げた。
「お前は昔から、感情で動かない。だからこそ、誤解もされやすい」
それは、私自身が一番よく分かっている。
私は感情を表に出すのが苦手だった。
派手に笑うことも、涙を見せることもない。
それがいつの間にか、「冷たい」「高慢」という仮面を被せられていた。
「社交界に、しばらく出るつもりはありません」
そう告げると、父は驚いた顔をした。
「……隠れるのか?」
「いいえ。離れるだけです」
戦う気はない。弁明する気もない。
私が欲しいのは、理解でも名誉でもなかった。
「少し、王都を歩いてみたいのです」
公爵家の令嬢としてではなく、
ただの一人の人間として。
その日の午後、私は簡素な外套を羽織り、王都の街へ出た。
人々の視線は、まだ私に気づかない。
瓶底眼鏡と地味な服装は、今の私をよく隠してくれた。
喧騒。
呼び込みの声。
行き交う人々の熱。
そのすべてが、少しだけ息苦しい。
――もし。
この街のどこかに、
何も求められず、何も演じなくていい場所があったなら。
考え事をしながら歩く私の視線が、ふと一本の路地に吸い寄せられた。
大通りから外れた、静かな場所。
そこには、今は使われていない小さな建物があった。
古い木の扉。
小さな窓。
けれど、不思議と落ち着く佇まい。
私は、立ち止まる。
胸の奥で、何かが静かに形を取り始めていた。
――ここなら。
誰も、私を悪役令嬢とは呼ばない。
誰も、何かを期待しない。
ただ、静かに息をつける場所。
まだ名前はない。
けれど、確かに分かる。
私の次の人生は、この「静けさ」から始まるのだと。




