第一話 婚約破棄を、私は静かに受け入れた
舞踏会の最中、唐突に音楽が止んだ。
「みんな、聞いてくれ!」
第一王子は高揚した声で叫び、私を指さした。
「アデリア・フォン・ローゼンベルク! 君との婚約を、今この場で破棄する!」
高らかに宣言したのは、第一王子――
エドワード・アルベルト・リヒトハイムだった。
場が、一瞬で凍りつく。
次の瞬間、どよめきが爆発した。
私は便底眼鏡の奥で、ゆっくりと瞬きをする。
長く垂らした黒髪が、視界の端を遮った。
「理由は簡単だ!」
王子は胸を張り、まるで英雄にでもなったつもりで続ける。
「君は冷酷で、高慢で、彼女をいじめ抜いた! そんな悪役令嬢を、僕の妃にするわけにはいかない!」
彼の腕の中で、ぴくりと肩を震わせた少女が、一歩前に出た。
淡いピンク色の髪。大きな瞳には、今にも零れそうな涙。
「ひ、ひどいんです……っ!」
淡いピンク色の髪を揺らしながら、
男爵令嬢リリアーナ・フローレンスは涙声で叫んだ。
「わたし、何もしていないのに……! 急に睨まれたり、皆の前で無視されたり……! 怖くて、怖くて……!」
すすり泣きと同時に、会場から同情の声が上がる。
「まあ……」
「なんて可哀想なの」
「やはり悪役令嬢……」
――なるほど。
私は内心で、静かに納得した。
確かに私は、彼女に過剰に関わらなかった。
必要以上に話しかけず、注意もせず、距離を保っていただけだ。
それが「無視」という名のいじめになるのなら、
私は最初から悪役だったのだろう。
「もう我慢ならない!」
王子が感情的に声を荒げる。
「君はいつもそうだ! 何を考えているのか分からない顔で、人を見下す! 僕はずっと耐えてきたんだ!」
――耐えていたのは、こちらの方だ。
そう思ったが、口には出さない。
「どうなんだ、アデリア! 何か申し開きはないのか!」
視線が集中する。
誰もが、私の弁明を期待していた。
泣き叫ぶか。
怒り狂うか。
あるいは、醜く縋るか。
私は、一歩前に出て、静かに頭を下げた。
「異議はございません」
その一言で、空気が変わった。
「……は?」
王子が間の抜けた声を出す。
「殿下のお考え、理解いたしました。婚約破棄、謹んでお受けいたします」
「ちょ、ちょっと待て! 本当にそれでいいのか!?」
なぜか慌てる王子。
拍子抜けしたような顔だった。
「はい」
簡潔に答える。
私は知っている。この人は、自分が“捨てる側”であることに意味を見出しているだけだ。
相手が抵抗しなければ、物足りないのだろう。
「そ、それなら……いいけど……」
男爵令嬢が、不安そうに王子の袖を引く。
「だ、大丈夫ですよね……?わたし、まだ怖くて……」
「もちろんだ!もう君をいじめる人はいない!」
胸を張る王子。
まるで正義を成したかのような顔だった。
私はもう一度、丁寧に礼をする。
「これまでのお時間、ありがとうございました」
その言葉に、王子は完全に言葉を失った。
背を向けて歩き出すと、背後から囁き声が追いかけてくる。
「強がってるのね」
「やっぱり冷たい女……」
「悪役令嬢って、最後まで悪役よ」
けれど、足取りは不思議と軽かった。
――これでいい。
私は争うことを望まない。
ただ、静かな場所で、静かに生きたいだけだ。
この華やかな舞踏会とは正反対の、誰もが息を整えられる場所を。
まだ名前も、形もない。けれど、確かに思い描いている。
この婚約破棄は、終わりではない。
私が“私自身に戻る”ための、始まりなのだから。




