プロローグ 「アイシュゲル」
天井が見えないほど巨大な空洞。その岩盤に沿うように、築かれる街並み。
青白い魔石灯が家々を淡く照らす。
街の中央には巨大な結晶塔が聳え立ち、魔石灯の光を受けて幻想的な輝きを放つ。
ここはアイシュゲル。
世界の最深部、巨大なダンジョンの底に存在する街だ。
ここで暮らす人々は、地上のことをほとんど知らない。いや、正確には知ろうとしないのだ。
楽園で生活している者が、わざわざ地獄を知りたいと思うだろうか。
そんな中、一人の少年だけは地上を知りたがっていた。
「レクセ、どこへ行くんだ?」
「親父、いいから早く! すごく綺麗な場所を見つけたんだ」
レクセは振り返り、親父に早く歩くように手招きした。
「お前は本当に落ち着きがないな」
その様子に親父は呆れ、溜息を吐きながらも、レクセの後を追った。
やがて二人は、岩壁にぽっかりと開いた小さな穴へたどり着いた。
「………まさか、ここに入るのか?」
「そういうこと!」
「おい、待て。こんな小さな穴に大人がーーー」
親父の最後まで言葉を聞かずして、レクセは穴の中へ潜り込んでいった。
この状態のレクセには、何を言っても聞く耳を持たない。仕方なく、親父も後に続いた。
まだ十三歳のレクセにとっては何でもない隙間も、大柄な親父には窮屈だった。
肩を岩にぶつけ、何度も悪態をつきながら、どうにか先へ進んでいく。
「ほら、綺麗だろ!」
空洞を抜けると、目の前に広がっていたのは虹色に輝く池だった。
水面には青、赤、紫、そして見たこともない色が浮かび、水面が揺れるたびに光の模様が変わる。
まさに、地上では見ることができない景色。
「そうだな、お前の言う通りだ」
親父はそう言い、レクセの頭に手を置いた。
ダンジョンだからこそ未知の発見があり、文明を進化させるものが眠っている。
常日頃から、レクセは探求心に飢えている。アイシュゲルで生まれたことも影響しているだろう。
次に、レクセは何を見つけてくるだろうか。親父にどんな景色を見せてくれるのか。
虹の池を見ながら、そんな毎日を過ごしていくのだと思うのだった。
ーーーーー
その日の夜。
もう何度も見ているのに、虹色の池が脳に焼き付き、なかなか寝付くことができないでいた。
寝床を抜け出したレクセは、自宅の屋根に寝転がり、街の中央に聳え立つ結晶塔を眺める。
まだ、ダンジョンには自分の知らない場所がたくさんある。
でも、レクセが本当に見てみたいのは地上の様子だった。
頭上に果てしてなく広がる空というもの。種を植え、芽が出て、やがて実をつける野菜や果物。
どれもレクセにとっては、親父から聞いただけの話だった。
でも、まだ若い自分では、この最下層から地上に行く力を持っていなかった。
「いつになったら、地上に行けるのかな………」
地上は、どんな世界なのか………いつか必ず、この目で見てやるんだ。
そう考えながら、レクセは目を閉じるのだった。
カン、カン、カン!アイシュゲル全体に鐘の鳴り響く音が三回聞こえてきた。
魔物の襲来を知らせる警鐘だった。
「………ま、魔物。え、魔物!?」
レクセは飛び起きた。
街の中央にそびえる結晶塔には、周囲の魔力を集め、魔物の発生を抑えているのだ。
少なくとも、レクセが生まれてから今日に至るまで、アイシュゲルが魔物に襲われたことはなかった。
それなのに、今もなお、鐘が鳴り響く。
ひとまず、レクセは慌てて屋根上から周囲の状況を確認する。
まだ被害は出ていないようだ。
「レクセ、ここにいたのか!」
親父は、普段は持ち歩かない長剣を腰に装着している。
「なんで魔物が!?」
「分からん。だから、今から直接確認する」
「俺も行く!」
レクセはそう言い、屋根から飛び降りた。
「駄目だ。ここにいろ」
「嫌だね。この目で魔物を見てみたいんだ」
「これは遊びじゃないんだぞ!」
こんな怒声を上げる親父は初めてだった。
その表情は、息子を守るために本気で覚悟を決めているようだった。
これ以上、無茶を言って親父に迷惑を掛けるわけにはいかない。
「わかった。大人しておく」
レクセが家中に入ろうとした瞬間だった。
ゴゴゴゴゴ………突然、空気が震え、足元が揺れる。
岩盤の奥から、地鳴りのような唸り声が響く。
魔石灯が一斉に消え、街に流れる水路の水面が激しく波打った。
姿を現していないのに、背筋が凍り付くほどの威圧感。これが魔物。
「親父。あ、あれ………!」
レクセが岩壁に指を差した。すると、そこには凄まじい速さで蛇状の巨大な影が移動していた。
岩の表面を走っているのではない。まるで岩壁の内側を泳いでいるかのようだった。
「なんだ、あの魔物は………」
親父が剣の柄を力強く握りしめた。
そして目で影を追っていると、巨大な影がピタリと移動を止めた。
次の瞬間、親父の顔色が変わった。
「レクセ、逃げろ!」
直後、岩壁が爆ぜた。
「っ………!」
親父がレクセの身体を蹴り飛ばした。
突然の衝撃に、レクセは受け身を取れず、地面を転がる。
「いって………何すんーーー!?」
顔を上げた瞬間、言葉が途切れた。
巨大な黒い影が、親父のいた場所を通り過ぎていた。
その通り道に残されていたのは、砕けた岩と土煙だけだった。
そこに親父の姿はどこにもなかった。
「おい、親父」
レクセは立ち上がり、辺りを見回した。
しかし、見慣れた姿は見当たらない。
「返事しろよ、親父!」
聞き慣れた声は返ってこない。
「なあ、親父!」
ほんの数秒前まで、自分の目の前にいたはずなのに。
もう親父の姿はどこにもなかった。
その事実を受け入れるよりも早く、岩壁が爆ぜる音と共に、次の悲鳴が響いた。
それもひとつではない。
街のありとあらゆる場所から、いくつもの悲鳴が聞こえてくる。
岩壁が次々と砕け、巨大な魔物がアイシュゲルを何度も通り過ぎていく。
「やめろ」
レクセは立ち尽くすことしかできなかった。これは悪夢を見ているんだ。そうだ、そうに違いない。
瞬きをする度、見慣れていたアイシュゲルの街並みが更地と化していく。
まるで最初から、ここに街が存在していなかったのように。
「やめろよ………!」
早く逃げないといけない。そう分かっているのに、恐怖で身体が動かなかった。
まだ死にたくない。まだ地上へ行っていない。
なのに、どうして。そのとき、地鳴りが止んだ。
レクセはゆっくりと顔を上げると、頭上の岩壁には亀裂が入っていた。
地鳴りが止んだわけではなかった。もう、すでにレクセは狙われていたのだ。
岩壁が大きく裂けると、その奥から蛇のような黒い魔物が姿を現した。
どこまでも続くような長い胴体。
大きな口を開け、目にも止まらない速さで、こちらに向かってくる。
「ーーーっ!」
眩い光が、少年の視界を塗りつぶした。




