序章 ラーメンを嗜む下っ端悪役令嬢
「――身の程を弁えなさいな、この薄汚い雑草が!」
帝国ヴィクトリア貴族学院の中庭。
スカーレット・アグニスは手にした扇子を鋭く鳴らし、床にへたり込む平民の特待生・ミリーを見下ろした。
足元には、わざとこぼした紅茶で汚れた教科書が無残に広がっている。
「崇高なる貴族と同じ空気を吸うなど反吐が出ますわ。明日から二度と顔を見せないことですこと! おーほほほほ!」
「ひっ……うぅ……っ!」
ミリーが泣きながら走り去り、取り巻きの令嬢たちが下品な追従の笑い声をあげる。
だが、扇子の影でスカーレットの口角は限界まで引き攣っていた。
(……胃が痛い! 死ぬほど痛い! 誰か今すぐ私に胃薬をちょうだい……!)
◆
放課後。夕暮れの路地裏。
スカーレットはフードを目深に被り、先ほど追い出したはずのミリーを呼び出していた。
「あ、あの……アグニス様……?」
「遅いですわよ、雑草」
冷淡な声音を保ちつつ、懐から分厚い封筒を胸元に突きつける。
「これを受け取りなさい」
「これは……?」
「王立中央図書館の『雑務係』の推薦状と、当面の生活費ですわ。住み込みの職員寮も手配済みです。……本を並べるだけの雑用なら、あなたのような平民でも務まるでしょう」
「えっ……!? で、でも、私なんかに、どうして……!」
「勘違いしないでくださる!? 私は目障りな平民を学園から排除しただけですわ! さあ、消えなさい!」
ミリーは何度も頭を下げながら走り去っていった。
一人残された路地裏で、スカーレットは壁に手をついて激しく息を吐き出す。
「……なんで私が“下民”の就職活動まで奔走しなきゃいけないのよぉおおおッ!!」
怒りと情けなさに震えるスカーレットの脳裏を、ある女性の冷え切った笑顔がよぎる。
スカーレット・アグニスは、俗にいう悪役令嬢の取り巻き令嬢であった。
しかし、本来の悪役令嬢の主人である“あの方”が飛び級で学園を卒業してしまった。
残されたスカーレットがその役割を代行しているのだ。
なぜわざわざ卒業した主人の代わりをしているのか。
理由は極めてシンプル――“あの方”が恐ろしすぎるからである。
第一王子の婚約者にして、帝国の絶対権力者――セレスティーヌ=ル=デポン。
デポン家といえば、冷酷無比な手段で帝国を発展させてきた『悪魔の一族』だ。
そしてセレスティーヌ嬢自身も、『子供を戦の囮にした』『老人を最前線に立たせた』果ては『第一王子を私室で土下座させた』など、真偽不明ながら血も凍るような逸話に事欠かない怪物のような人物であった。
『スカーレット様。学園にそぐわない下民どもを排除しなさい。……ですが、我が帝国の民を路頭に迷わせるのは貴族の恥。排除した者には、身の丈に合った進路を用意するのが真の慈悲ですわ』
『は、はひっ!』
『よろしいですわ。スカーレット様には期待しておりますよ』
あの時の凍りつくような声。
逆らえば、命はない。自分どころか一族全員が文字通り『消される』のだ。
「いびり倒す台詞を考えるだけでも寿命が縮むのに! 適性を見極めて、履歴書を偽造して、根回しして……! あの悪魔、なんでこんな職業斡旋所みたいな仕事を私に丸投げしてくるのよ!!」
恐怖とストレスで脳が限界だった。
今夜、この荒れ狂う精神を鎮めるには、サロンの上品なマカロンなどでは到底足りない。
「……行くしかないわ。誰にも見られず、一人きりで……!」
◆
王都の最深部、ドワーフや元冒険者が集う薄暗い路地裏。
獣骨を煮出す濃厚な匂いが漂う先に、その店はあった。
古びた木製看板に刻まれた名は――『麺屋・竜の咆哮』
赤黒い暖簾が、軟弱な貴族の侵入を拒む結界のように揺れている。
「いつもなら取り巻きを盾に連れてくるけれど……今夜は完全な単独潜入。あのお上品な令嬢たちに『ギトギトのラーメンを啜る姿』を見られるわけにはいきませんものね……」
もし社交界で噂になり、セレスティーヌの耳にでも入れば『貴族の品位を汚した』として処刑されかねない。
「……怖気づいてどうしますの! あのデポン家の魔女に比べれば、豚骨ラーメン屋の一軒や二軒、踏み越えてみせますわ!」
意を決して、引き戸をガラガラと開ける。
「へい、いらっしゃい!!」
店内に響き渡る野太い怒号。立ち込める熱気と白煙、そして鼻腔を暴力的に貫く豚骨とニンニクの匂い。
瞬間、カウンターに座る屈強なドワーフや傷だらけの冒険者たちが一斉に振り返り、スカーレットを凝視した。
油で黒光りする店内に、純白のフリルと黒髪の貴族令嬢。完全な異物であった。
(ひ、ひぃいいっ……! 視線が痛い! 全員が『なんだこの場違いなアマは』って目で見てきますわ……!)
スカーレットは内心の絶叫をポーカーフェイスで覆い隠し、顎をツンと上げた。
「……一人ですわ。席は空いていまして?」
「あ、ああ……? そこの端っこ、座んな」
厨房の奥から現れたのは、腕にタトゥーを入れた筋骨隆々のドワーフ店主だ。
スカーレットはドレスの裾を気にしながら、カウンターの丸椅子に腰を下ろした。目の前の貼り紙を睨みつける。
『極濃・竜骨醤油ラーメン 並・大・特盛』
『※ニンニク・野菜・背脂の調整は提供直前にお伺いします』
(来たわね……! 噂に聞く、あの悪名高き試練……!)
隣の巨漢の冒険者が、丼を受け取りながら野太い声で唱える。「ニンニクアブラマシマシで!」
「あいよっ!」
(あの呪文は!!貴族のマナープロトコルに『コールの作法』なんて載っていませんわよ! でも……あの悪魔のせいで削られた私の精神的損害を埋めるには、並のカロリーじゃ絶対に足りない……!)
スカーレットの瞳に決死の光が宿る。
「――へい、嬢ちゃん。ニンニクどうする?」
平ざるで麺を湯切りした店主が、ドスの利いた声で問いかけてきた。
鋭い眼光がスカーレットを射抜く。店内の男たちも固唾を飲んで見守っている。
スカーレットは扇子をトンとカウンターに置き、凛とした美声を店内に響かせた。
「――ヤサイマシマシ、アブラオオメ、ニンニク……すべて最大級<<マキシマム>>でお願いいたしますわ!!」
静まり返る店内。店主は一瞬目を見張り、次の瞬間、ニヤリと凶暴に笑った。
「へっ、いい度胸だ。お残しは許さねえぞ、お嬢さん!」
「受けて立ちますわ!」
◆
ドスン、と地響きのような音を立てて、丼が目の前に置かれた。
「お待ちっ。『全マシマシ』だ!」
視界を埋め尽くすのは、凶悪な標高を誇るモヤシの山。
頂からは純白の背脂がとろりと垂れ、麓には大人の拳ほどもある分厚い煮豚と、すりおろし生ニンニクの山が鎮座している。
(……な、なんという禍々しさ……! もはやカロリーの暴力そのものですわ……!)
スカーレットは素早く首元にシルクのハンカチを挟み、割り箸をパチンと割った。
レンゲでドロリとした褐色のスープをすくい、艶やかな唇へと運ぶ。
ずずっ――。
(――ッン美味アアアアッッッ!!!)
脳天を直撃する、濃厚すぎる豚骨の旨味。キレのある醤油の塩分。そしてガツンと殴りつけてくるニンニクの刺激と背脂の甘み。
「美味しい……! 身体中の細胞に沁み込んできて震えていますわ……!」
スカーレットは箸をモヤシの山へと突き立てた。
野菜を噛み砕き、底から現れた縮れ極太麺を引っ張り出す。
「ふーっ、ふーっ……ちゅるるっ、ずずずっ!」
淑女の仮面をかなぐり捨て、無我夢中で麺を啜る。
噛みしめるたびに小麦の香りと濃厚スープが口いっぱいに広がり、分厚いチャーシューが舌の上でホロホロと崩れ落ちる。
(セレスティーヌ様の冷酷な笑顔も! 平民どもの泣き顔も! 徹夜で推薦状を書いた疲労も……すべてこの脂の海に溶けて消えていくわ……!!)
一心不乱に箸を動かし続けること十数分。最後の一口を飲み込み、スカーレットはコトッとレンゲを置いた。
目の前の丼は、スープの最後の一滴まで綺麗に空っぽになっていた。
「……ふぅ。大変、美味しゅうございましたわ」
額の汗をハンカチで優雅に拭うスカーレットに、店主とカウンターの男たちが呆然と見惚れていた。
やがて店主が豪快に笑い声をあげる。
「へっ……見事な食いっぷりだ、嬢ちゃん! ドレスは伊達じゃねえな!」
「当然ですわ。アグニス家の辞書に『お残し』の文字はありませんことよ」
スカーレットは涼しい顔で立ち上がり、銀貨をカウンターにきっちり置いた。
「ごちそうさまでしたわ。……また、気が向いたら寄せていただきます」
「おう、いつでも来な!」
暖簾をくぐり、夜の路地裏へと出る。
夜風が火照った頬に心地よく吹き抜けた。口内には強烈なニンニクの余韻が残っている。
スカーレットは夜空を見上げ、扇子を広げて高らかに笑い声をあげた。
「ふふ……あはははは! 見ていなさい、セレスティーヌ様! いくら私を理不尽に消そうと脅そうと、私にはこのラーメンがありますわ!」
明日もまた胃を痛めながら平民をいびり、完璧な就職先を斡旋する日々が始まる。
だが――
「明日を生き延びたら、次はどんなラーメンを開拓して差し上げましょうかしら!」
悪役令嬢スカーレットの、命がけの『ラーメン道』はまだ始まったばかりである。
評価、ブックマークお願いします☆




