第一話 残念ながら恋愛は得意なので
恋愛とは何か。
それは、正気を失うことである。
本当かなって疑う人は考えてみてほしい。
好きな男が別の女と笑っていただけで泣き、食事が喉を通らなくなり、その女の家柄や交友関係まで調べ始める。
正気の人間がすることではない。
少なくとも私はしない。
恋愛とは、人生に余裕のある人間が自分から乗り込む絶叫遊具だと思っている。
安全かどうかも分からないものに乗り、振り回されて泣いたり笑ったりした末に、「乗ってよかった」と言う。
いや、地上にいればよくない?
地上にも本や食べ物や布団はある。
だから、自分が乙女ゲームの世界に転生していると気づいたときも、特に嬉しくはなかった。
乙女ゲームとは、恋愛という絶叫遊具しか置かれていない遊園地である。
攻略対象の王子。
騎士団長の息子。
天才魔術師。
影のある義弟。
そんなに男いる?
一人でよくない?
私が前世の記憶を取り戻したのは八歳のときだった。
庭で転んで額をぶつけた瞬間、自分が日本で二十二年間生きていたことと、ここが前世で一時間だけ遊んだ乙女ゲームの世界だということを思い出した。
一時間しか遊んでいないので、内容はほとんど覚えていない。
主人公が平民出身の光魔法使いだったこと。
攻略対象の顔が全員よかったこと。
悪役令嬢が最後にものすごく怒っていたこと。
そのくらいだ。
転生させるなら、せめて最後まで遊んだゲームにしてほしい。
しかも、私の生まれは男爵家だった。
王族でも公爵家でも平民でもない。
男爵家。
そこそこ裕福だが、物語の中心に入れるほどではない。
革命が起きれば貴族として処刑される可能性はあるのに、王子と運命的に出会えるほどの身分ではない。
リスクとリターンが釣り合っていない。
私は男爵家の三女として育ち、十六歳で侯爵令嬢の侍女になった。
仕える相手は、ヴィオレッタ・エルフォード様。
艶のある黒髪に青い瞳。
頭がよく、礼儀作法も完璧で、音楽も語学も一流。
そして第二王子レオンハルト殿下の婚約者だった。
朝早くから勉強し、王妃教育を受け、夜まで社交の手紙を書く。
よくやるなと思う。
そこまで努力して得られるものが、王子を一生支える仕事である。
嫌じゃない?
自分より立場が上で、周囲からちやほやされ、何かあれば「王家の事情」で許されそうな男を、死ぬまで隣で支える。
私なら三日目に逃げる。
ある日、ヴィオレッタ様の髪を整えているとき、私はようやく気づいた。
黒髪。
青い瞳。
第二王子の婚約者。
高慢そうに見える美貌。
この人、悪役令嬢だ。
ゲームの後半で主人公に意地悪をして、婚約を破棄される女性である。
私は思わず手を止めた。
「どうしたの?」
「いえ。ヴィオレッタ様の髪は綺麗だなと思いまして」
「毎日見ているでしょう」
「毎日見ても綺麗なものは綺麗です」
「そう」
ヴィオレッタ様は少し嬉しそうに目を伏せた。
かわいい。
いや、かわいいとか言っている場合ではない。
この人は将来、大変な目に遭う。
ただ、その事実に気づいたとき、私が最初に思ったのは、
ヴィオレッタ様を救わなきゃ。
ではなかった。
そこまでして王子と結婚したいのかな、だった。
婚約を破棄されたら、王妃教育から解放される。
早朝から起きなくていい。
外国の大使の名前も覚えなくていい。
最高では?
そもそもヴィオレッタ様は、もう十分努力している。
これ以上頑張らせるくらいなら、王子の方を教育した方が早い。
そんなことを考えているうちに、ゲームの主人公が現れた。
リリア・ハート。
平民出身の光魔法使い。
淡い金髪に大きな緑の瞳。
よく笑い、よく転ぶ。
そして転ぶたびに攻略対象の男が受け止める。
一週間で王子、騎士団長の息子、魔術師の三人に受け止められていた。
偶然にしては成功率が高すぎる。
そして当然、レオンハルト殿下も彼女に惹かれ始めた。
その日、ヴィオレッタ様は朝から様子がおかしかった。
ドレスを三度も着替え、昼食には手をつけず、午後の刺繍では針を持ったまま動かなかった。
夜、温室から泣き声が聞こえた。
中へ入ると、ヴィオレッタ様が三人の令嬢に慰められていた。
「大丈夫ですわ」
「殿下が、あの平民の娘に本気になるはずがありません」
「珍しいだけです」
ヴィオレッタ様はハンカチを握りしめた。
「でも、殿下はあの方といるとき、私には見せたことのない顔で笑うの」
なるほど。
「そりゃそうだ」
私は小さくつぶやいた。
本当に小さく言った。
誰にも聞こえないと思った。
しかし泣いている人間の耳は、時として猛禽類より鋭い。
ヴィオレッタ様が顔を上げた。
「今、何と言ったの?」
全員が私を見る。
ここで言うべき言葉は決まっている。
殿下はヴィオレッタ様を愛しています。
気の迷いです。
あの娘が誘惑したのです。
どれも言いたくなかった。
「そりゃそうだ、と言いました」
令嬢たちが息を呑んだ。
ヴィオレッタ様は涙を忘れたように私を見た。
「どうして?」
「どうして、とは」
「あなたには分かっているの?」
ヴィオレッタ様が立ち上がる。
「殿下が、なぜあの方に惹かれているのか。あなたには答えが見えているの?」
答えというほど大したものではない。
少し考えれば分かる。
ヴィオレッタ様は殿下の前で、完璧な婚約者であろうとしすぎている。
立派で、美しく、正しく、決して失敗しない。
対するリリア様は、殿下を王子ではなく、一人の男として扱っている。
笑いかける。
冗談を言う。
間違える。
転ぶ。
殿下の前で完璧であろうとしない。
それが、殿下にとっては新鮮なのだろう。
恋愛では、努力した人間が勝つとは限らない。
真面目な人間が勝つとも、最も愛している人間が勝つとも限らない。
相手の中に、都合よく入り込めた人間が勝つ。
ヴィオレッタ様は美しい。
努力家で、誠実だ。
そして、殿下の前で完璧すぎる。
対するリリア様は、殿下を一人の男として笑わせている。
そりゃ、見せる顔も違う。
ただ、これをそのまま言えば、ヴィオレッタ様はさらに泣くだろう。
その程度のことは私にも分かる。
私は空気が読めないのではない。
読んだあと、どうすればいいのか分からないだけだ。
「まあ」
私はできるだけ穏やかに微笑んだ。
「残念ながら、恋愛は得意なので」
「恋愛が?」
「はい」
私は胸に手を当てた。
「自分ではやりませんが」
温室が静まり返った。
三人の令嬢は、何を言っているんだこいつ、という顔をしていた。
ヴィオレッタ様だけが、涙を浮かべたまま真剣に私を見ていた。
「教えて」
彼女は言った。
「私に、何が足りないのかを」




