第1話 泥に塗れた前世と、眩しすぎる産声
俺の人生は、常に足元のコンクリートを見つめて歩くようなものだった。
学校では教室の隅で息を潜め、誰とも目を合わせず、ただ時間が過ぎるのを待つだけの毎日。
目立てば標的にされる。少しでも声を上げれば嘲笑の的になる。
だから俺は、透明人間になることを選んだ。誰の記憶にも残らず、誰からも愛されず、ただ静かに摩耗していくだけの冴えない人生。
それが、俺の前世だ。
……そう、前世である。
「……あっ、あ、あの……先生、この子は……」
「ひっ……! い、いえ、あの、異常は、あり、ありません……。ただ、その……眩しすぎて、直視、できなくて……申し訳、ありません……っ」
微かに聞こえる、震えるような声。
重い瞼をゆっくりと開けると、ぼやけた視界に白い天井が映った。消毒液の匂いがする。どうやらここは病室らしい。
体を動かそうとしたが、うまく力が入らない。自分の手を見て驚いた。ふっくらとした、小さな小さな赤ん坊の手だった。
(……転生、したのか?)
状況を理解するよりも早く、俺の視界の端に、ベッドを囲む大人たちの姿が映った。
おそらく俺の母親であろう女性と、白衣を着た医者、そして看護師たちだ。
だが、彼らの様子がどうもおかしい。
自分の子供が生まれたというのに、母親はなぜか俺の顔を見ようとせず、ベッドのシーツをギュッと握りしめてブルブルと震えている。
医者に至っては、カルテで自分の顔を隠しながら、壁の隅に張り付くようにして立っていた。
「あ、あの……私なんかの子供で、本当に、ごめんなさい……。こんな、こんなに美しい子が、私のお腹から出てくるなんて……おこがましいにも程が……っ」
母親が、蚊の鳴くような声で懺悔を始めた。
(いやいや、自分の子供に向かっておこがましいってなんだよ)
俺は泣き声を上げようとして、小さく「あー」と声を漏らした。
その瞬間だった。
「ひぃっ!?」
ビクゥッ! と医者が肩を跳ね上がらせ、看護師の一人があまりの緊張からか、その場にへたり込んでしまった。
「お、お声も……なんて透き通った、天使のような……っ。す、すみません、私のような薄汚い大人が、同じ空気を吸ってしまって……っ」
看護師が涙目で土下座のような体勢をとる。
(……なんだこの空間?)
俺は首を動かし、病室の横にあった大きな鏡に目を向けた。
そこに映っていたのは、作り物のように整った顔立ちをした、信じられないほど美しい赤ん坊だった。
透き通るような白い肌、宝石のように輝く大きな瞳。まだ赤ん坊だというのに、将来は間違いなく絶世の美男子になることが約束されたような、圧倒的な造形美。
(これが……俺?)
前世の、鏡を見るのも嫌だった自分の顔とは似ても似つかない。
だが、俺が驚いたのは自分の顔だけではなかった。
ふと、病室の隅で小さく音を立てているテレビに目をやると、そこには『国民的トップアイドル、待望の新曲ライブ!』というテロップが流れていた。
前世の俺にとって、アイドルは暗い現実を忘れさせてくれる唯一の救いだった。
どんなアイドルだろうと期待して画面を見た俺は、我が目を疑った。
画面の中でマイクを握っている少女は、客席に背を向け、床をじっと見つめながら、ボソボソとお経のような声で歌っていたのだ。
『……あ、あの、聞いてくれて、ありがとう、ございます……すみません、私なんかが、歌って……』
客席のファンたちも、誰一人としてサイリウムを振らない。全員がパイプ椅子に縮こまって座り、下を向いて申し訳なさそうに拍手をしている。
(……嘘だろ?)
トップアイドルがあれ? 観客のテンションはどうなってるんだ?
そこで俺は、この世界の決定的な『異常性』に気がついた。
母親の異常なまでの自己評価の低さ。
医者や看護師の極度な怯え。
そして、テレビの中の覇気がないトップアイドル。
(もしかして……この世界の人たち、全員『極度のインキャ』なのか……?)
前世では、俺が一番の底辺だった。周りはみんな自信に満ち溢れ、俺を見下していた。
しかし、この世界はどうだ。
少し目を合わせただけで、大人が怯えて目を逸らす。少し声を出しただけで、天使の歌声だと平伏される。
誰も俺をいじめない。誰も俺を笑わない。
俺のこの『圧倒的なビジュアル』と、前世で培った『相手の顔色を窺って生き抜く冷静さ』があれば。
(……この世界、俺にとっては天国すぎるだろ)
泥水ばかりを啜ってきた前世。
誰にも愛されなかった俺が、この全員インキャの世界で、圧倒的な『陽キャ』として君臨したらどうなるか。
胸の奥で、かつて感じたことのない高揚感が湧き上がってくる。
「あー、うー!」
俺がベッドの上で元気よく両手を突き上げると、病室にいた大人たちが「おおお……!」と感極まったようにどよめき、母親は感動のあまり静かに気絶した。
俺の、二度目の人生。
最高の青春と、誰も見たことのない熱狂をこの世界に作り出すための、無双劇の始まりだった。




