彼が人になった日
感情はいらない。
何かを考える必要はない。
幼い頃から、彼の心を縛ってきた唯一の鎖。
国民は上層階級の者のために生きるしかなかった時代においては、司法の平等など存在しない。冤罪で死ぬことはよくある話だった。そしてその時、それを執行するのに用いられたのが拷問人という存在だった。
拷問人とは、職業柄いつ誰をその対象にするかは分からない。昨日までの友人かもしれないし、家族かもしれない。そんな時でも滞りなく”仕事”ができるようにするための、そして彼らをその罪悪感や悲しみから少しでも遠ざけようとするための、一族の掟だった。自らの生きがいを選ぶ権利のない彼らは、そうして望まぬ十字架を背負い続けなければならなかった。
彼も、そんな時代の波に翻弄された一人だった。
拷問人にとって、人の死は容易く日常に没する。
その少年は、拷問人として名高い家系の生まれだった。彼の一族は、仕事の際に鳥のような怪物の仮面を用いていたことから、人々からは「トリ」と呼ばれていた。
拷問人は汚らわしい、と忌み嫌われる。人が人に向ける愛情は、知る必要はない。なぜなら、彼らの血に塗れた手で誰かを愛することは許されなかったからだ。
幼い頃母が死に、彼は父の傍で掟を教え込まれ、拷問人として生きる方法を学んだ。
やがてその父親も死んだ。父親の死を持ってしても、少年の固く閉ざされた心が揺らぐことはなかった。少年は、一族が誇る優秀な拷問人になっていた。
少年は若くして、魔女裁判の尋問人に抜擢された。当時少年の住んでいた国では、疫病や凶作が相次ぎ、社会的な不安が高まっていた。やがて王族に国民の不満がむけられていくのだが、それをそらすために、王はその原因を魔女が存在しているからだとした。
恐ろしい魔女狩りが始まった。老人や異国人などは真っ先にその犠牲になった。魔女を見つけた者は多大な賞金を得ることができたので、貧困に喘ぐ国民たちは競って魔女を探し始めた。だが実際連れて来られた者たちが魔女であるという証拠は無く、言いがかりや虚偽の報告によるものばかりだった。昨日まで親しくしていた隣人が密告者になることもよくあった。信じていた人に裏切られ、疑心暗鬼になり人間不信に陥った者も多かった。
少年はくる日も来る日も、教会の司教や教皇が語る”神の制裁”をさせられた。彼は淡々とそれをこなしたが、それを指示する司教たちの手が汚れることはなかった。無実の罪を着せられた人々が苦しむのを、彼らは薄ら笑いを浮かべて見ていた。拷問は、一種の娯楽でもあったのだ。
魔女だなんて、馬鹿らしい。
そんなもの、いるわけないじゃないか。少年は、心の何処かでそう思っていた。神の名を翳しその権威を振りかざす司教らを、少年は仮面の下から冷めた目で見ていた。
そうして少年は、毎日の勤めをただ機械的にこなしていた。
そして、彼は出会った。
夕陽が美しい日のことだった。
1人の少女との出会いが、生きるために生きていた毎日に、薄い色をつけた。少女は少年に微笑みかけ、彼女の暖かさが少年が忘れていた感情を呼び起こした。
だが時代は、残酷にもその幸せの芽を刈り取った。
少年は、少女を殺した。
少女が魔女だと、誰かが吹聴したのだ。
その日も、彼はいつものように仕事をこなした。少女の悲痛な叫びを、鼓膜に刻みながら。少女の苦痛に歪む顔を、目蓋の裏に焼き付けながら。
そして彼は、仮面の下で泣いた。声を殺し、嗚咽を堪えて少女を責めた。彼女との思い出が、頭をよぎる。
-辛い。苦しい。悲しい。
彼はこのときになって始めて、拷問人の掟の意味と、自分はそれを破ったことを理解した。今までは何とも感じなかった掟の枷が、彼の心をギリギリと締めつける。
少女が死ぬその瞬間、確かに少女と目が合った。彼女はその時だけ笑った。いつも少年にむけていた暖かい笑みから、少しずつ体温が奪われていくのを彼は黙って見ていた。彼の頬を静かに、とめどなく溢れる涙は、仮面の下に隠され誰にも届かなかった。
これで、いいのだ。
拷問人としての勤めは果たした。
俺は身じろぎひとつせず、彼女の側に立っていた。下賤な司教から彼女を守るとでもいうように…彼女は、俺の手で殺したというのに。
死体を処理しろ、と司教が手を振る。司教はこちらに目もくれずに立ち去って行った。
これでやっと、この忌々しい教会から彼女を解放できる。
彼女を抱えて、俺は海まで来た。今まで”俺”を隠してきた仮面を放り投げる。それは波に攫われ、やがて見えなくなった。
海水の中へ足を進める。思っていたより冷たくない。沖に向かって歩こうとすると、波が背中を押してくれた。
魔女として死んだ者は、煉獄に堕ちるのだろうか。
もしそうならばまた、きっと会える。トリとして生きてきた俺も、そこへいくだろうから。
俺はナイフを、心臓に突き立てた。
少年と少女の影が、海面でひとつになった。影はゆっくりと消えていった。後に残ったのは少年から流れた紅と、地平線に沈んでいく夕陽の赤だけだった。
written by 神山咲
中2くさいものは書いていて非常に楽しいですね!笑
読む人が楽しんでくれるようなものが書けるようになりたいです
ありがとうございました。
by 神山咲




