紅掛花(べにかけはな)
一体どこまで自分に嫌がらせをすれば気が済むのか。
斎条の言葉にすぐには返答出来ない香月だったが、決断するのにそう時間は掛からなかった。
「わかりました、使います」
「局長……」
先程まで居丈高な態度を取っていた筈の女が、呆然とした呟きを零した。
「斎条さん、保管庫内のどの辺りにあるのか教えてもらえますか」
「あ──はい、では。ご案内します」
部屋の中が訝しな雰囲気に包まれているのがわからないわけではない。提案した斎条自身でさえも、香月の返事は予想外だったものか、呆気に取られた表情をしている。
それはそうだろう、前局長は毒を以て国王を葬り去らんとした罪人だ──あまつさえ彼の最期は壮絶なものだった。刑吏府と大立ち回りを演じ国外に逃亡した挙句、何日か後に死体で発見された。その死は今もって謎に包まれている。
ただでさえ罪人の遺留品を使えなどと言われれば、大抵の人間は屈辱に感じるに違いない。
ややあって歩き出した斎条に従って、香月は調合室の奥へと踵を返した。人が忙しく立ち回る音も、いつの間にかぱたりと止んでいる。
「……あの棚にあるものがそうです」
施錠されていた扉を開け、斎条は保管庫の更に一番奥にしまわれていた道具を指し示した。
立派なの、と称されるのは皮肉ではなかった様だ。天秤も薬研、乳鉢も明らかに上等なものが揃っている。
「粉砕機や丸薬製造機まで……」
世間一般に出回っている薬は散薬が主流である。人体に吸収されやすい代わりに日の光などで劣化する為使用期限は短い。長期に亘って使用する場合に丸薬は重宝されたが、機械がないと作れないので格段と高価なものだった。丸薬や生薬原料を粉砕する機械も、民間では決して手に入らない。
「斎条さん、調合室に丸薬製造機はなかったのではありませんか? これは局員の共有物では」
乳鉢の様なものならばいざ知らず、かつては皆が使っていたであろう機械まで、封印せずとも良いのでは──そう思って聞くと、彼は「刑吏府の許可が出るまでと、副局長から保留にされていまして……」と歯切れ悪く答えた。
「でも、今回私が使って良いという事は、使用許可が出たも同じですよね」
「さあ、その辺りはよくわかりません。確かに理屈としては僕もそうだと思いますが。何かお考えがあっての事でしょう」
曖昧な笑い。含みを持たせている様な気がするが、彼の真意は測りかねた。
「今はただでさえ道具が不足していると、先ほどあの女性の方も話していましたよね? 私から玲彰様に聞いてみましょう」
「あ、いや──それはちょっと不味いのでは」
見るからに慌てた様子の部下に何故、と問うまでもなかった。彼は仙丸の勘気を恐れているのだろう。だが今は薬を作るのが先である。
敢えて追及せずに香月は微笑んだ。
「とりあえず、こちらはお借りして行きます」
両手に余る程の器具を、出来るだけ抱えて運ぼうとすると後ろから斎条が付いてきた。
振り返ると、その両手には大型だからと置いてきた機械類を持っている。
「運ぶの、僕も手伝いますよ」
局長室に道具を運び入れる時、彼は小声で「他にも何かあったら言ってください」と耳打ちして来た。
「それも、指示なんですか?」
不思議に思って問う香月に、彼は複雑そうに笑ってみせた。
「いいえ。──だからこの事は、くれぐれもご内密に」
※※※※
「組織というものは基本的にしがらみだらけです。長く生息したければそれに従うか、或いは自ら流れを作るしかない。前局長が失脚した時点でいくらか少なくなったと思ったのですが、新たな流れが出来てしまいましたか」
姉小路のしみじみと嘆息する声を聞きながら、香月は施術局内の休憩室で目の前に出された茶を啜った。
どうしてこんな話になったのだろうと、内心疑問を禁じえない。河西に渡す薬を作って薬庫に保管した後、まっすぐここを訪れた。確か出迎えてくれた彼と、以前の様に施設内を見せてもらって患者の病態について話をしていた筈だが──
余程自分が浮かない顔をしていたのか。
「斎条君でしたか、彼はここの患者の担当を持っているのもあってよく来るのですよ。経験こそ浅いが、あれで結構骨のある奴ですよ。きっと見るに見かねたのでしょうな」
そう落ち込む事はありませんよ、と笑う所を見ると、やはり自分が悄然としていたかららしい。自覚なく打ち明け話をしてしまうのは、思っている以上に自分が傷付いていたと言うよりも、彼の話術に拠るのだと香月は気づいた。
声は優しく暖かで、安心感を聞く者に与える。病める者達に向かい合うのに、これ程相応しい人もいないだろう。
「そうですね。妾も姉小路局長を見習って、出来る事をやろうと思います」
彼女もまた、彼に向かって微笑んで見せた。
思いがけず味方が出現した様で──例え斎条や姉小路が人として最低限の同情を見せただけだとしても──少なくとも自分は一人ではないのだという気がする。
ふと真顔に戻った姉小路が何かを言おうとして口を開いた時、休憩室の扉を叩く音がした。
返答を待たずに、室内に明らかに貴族だという格好をした男が入ってくる。
「おやこれは、邪魔をしてしまったかな」
「──元良侯!」
慌しく椅子から立ち上がった姉小路の声に、香月も突然の訪問客を思わず凝視した。
元良兼親。雅綾府の長官であるだけでなく、自らも傑出した芸術家として名高い。黄檗色の上着には、淡萌黄色の刺繍が施され目に眩しい。更に紅掛花色の下衣という独自の趣味は彼女の度肝を抜いた。一分の隙もなく撫でつけられた黒髪に艶々と光る恰幅の良い顔という容貌に、服装が何とも似合っていない気がする。
外見はともあれ、楽師としても才能は聞こえている彼を間近に見るのは初めてだった。
「お越しになるのでしたらご一報下されば宜しいではありませんか。出迎えもせず、申し訳ございません」
「いいじゃないか。毎度の事だ、何を今更。君と僕の間で堅苦しいのは抜きにしよう」
恐縮する姉小路にひとしきり爽やかな台詞を投げた元良は、遠巻きにこちらを見ている今一人の人物に初めて目を向けた。「おや」と言いながら近づいて来る。
「お嬢さん、何処かでお会いしましたか?」
すぐ側で見る元良の顔は思ったよりも脂光りしている。張りのある皮膚だが、もしかしたら思ったよりも歳は上なのかもしれない。香月は原因不明の寒気を感じた。
「い、いえ! 初めてお目に掛かると存じます」
「そうかなあ。君みたいな美的素材、一度見たら忘れないと思うんだけどな」
「元良侯、こちらは新しく薬処方局の局長に着任しました、嵯峨紫泉殿です。嵯峨伯の娘御ですよ」
「嵯峨……ああ、それで!」
姉小路の言葉にようやく思い出したと見えて、元良の細い両目が益々細くなった。
「という事は禎祥殿の娘という事か! 道理で見覚えがあると思ったよ。いやあ懐かしいな」
「は、母をご存知なのですか」
父親はまだしも、物心つく前に亡くなった母親の知己に会うとは思わなかった。驚きに目を丸くする。
元良は興奮したのか、早口でまくしたてた。
「知っているも何も。僕と禎祥殿は同じ師匠の下で琴を学んだ、いわば同門の徒だったんだよ。──君の母親はそれは素晴らしい琴の弾き手だった。佳人薄命とはよく言ったものだ、当時は最も『奏の鳴声』に近いと噂されたというのに、病に倒れられてね。風の便りに、忘れ形見の姫も琴を能くすると聞いたが、そうなのかい?」
「はい……あの、母から教わる事は叶いませんでしたが、一応」
徐々に接近してくる顔から逃れる様に、じりじりと後退しながら香月は答えた。
「何と! 実は僕もそれなりに嗜むものでね。是非一度合奏願いたいものだ──」
侯爵様、と背後に控えていた臣下らしき男が小声で窘める。
「お時間がございません。そろそろ」
「ああそうだったね。では姫、約束だよ。また改めて遣いを出そう。姉小路君」
「はい」
芝居がかった動作で彼は踵を返し、部屋の扉に向かった。先に出入り口付近にいた姉小路は香月を振り返る。
「嵯峨局長、申し訳ありませんがこちらで待っていて頂けますか?」
「あ、妾はそろそろお暇を──」
芸術を司る府庁の役人が、病人の施設に何の用があるのだろう。
しかも口ぶりからして、もう何度も足を運んでいる様子だ。
言いながらも香月が眉をひそめていると、視線に気づいたのか元良がこちらを向いた。
にこりと笑いかけられ、またも寒気が襲う。
「何だったら、姫も一緒に来るかい?」
「元良侯、宜しいのですか」
姉小路は怪訝そうな顔をしている。
「構わないだろう。薬処方局の局長ならば、立場上も問題なかろうし。それに、彼女ならばもしかしたら『彼の声』が聞こえるかもしれない」
元良は悦に入った如く上機嫌だった。
「あの、一体何のお話ですか?」
わけがわからず、香月は問いかける。
「うん、実はね。僕はこれから一人の難病患者に会う予定なんだ。日の光に当たると身体が年寄りになってしまう月下病──そんな風に仮に呼ばれている患者さ。これが実に興味深い事に、『声なき声』を出せるらしいんだな。声帯が普通の人間とちょっと違うらしくてね」
名前は何と言ったかな、と彼は姉小路に水を向けた。
「舜橙です」
「そうそう、その舜橙という患者だよ。音を研究するのも雅綾府の仕事の一つ、故にこうしてやってきた次第さ」
聞いた事のある名前に、香月の脳裏にあの日の彼の姿が蘇った。
寂しそうに窓の外を眺めていた、老人にしか見えない青年。
「どうする? 僕としては耳の良い人間は一人でも多く連れて行った方が都合がいいんだ。──何しろ、どんな条件で誰の耳に聞こえるか、まだ全くわからないものだから」
「はい、お供させて頂きます」
香月は強い声音で答えると、元良達に従って休憩室を後にした。
廊下に出ると、術着を着ていない男女が一人ずつ立っていた。どうやら元良の供の者らしい。
別室で身体を消毒して術着に全員が着替えると、廊下に先立って歩きながら姉小路が説明する。
「最初に異常に気づいた時、舜橙さんの周りには無数の虫が寄っていました。勿論建物の中ですから、窓の外に、でしたが──発見したのは局員で、気味の悪い光景だとは思ったけれども深くは考えなかった様です」
その次の機会には鳥が、また別の折にはやけに付近で獣の吠える声が近くで聞こえたという。誰が見ても、舜橙はただ外を見ていただけとしか思えなかったそうだ。
元良が後を引き取って続ける。
「特定の対象しか聞こえない音の存在は数年前から我が府でも認められていた。音は空気を振動させて伝わるもの。通常人が発する声の質──我々は諧声数と読んでいるが──はごく狭いものだ。これに比べて昆虫や獣類など他の生き物は、遥かに幅広い諧声数を持っている。聞き取れる音も同様だ。獣の方が耳が良いと言われるのはそのせいだ。それで最初は、声帯と声唇といった器官ではなく、違う部位から獣の様に音を振動させているのかと思った」
「舜橙さんは話せないのですか? その──普通の声という形では」
「そうなんだ。喉自体に特に危害を加えられた形跡はないが、何故か話す事が出来ない。それが月下病の筋肉の低下に拠るものだと、最初は考えられていたのだよ」
だがこの一連の現象から周囲が疑問を持ち始め、玲彰に奏上した。
元良は玲彰の依頼を受けて、舜橙の為に研医殿内に専用の研究団を作ったのだと言う。
そうこうしている内に病棟に辿り着き、姉小路が舜橙の病室に入るべく扉を叩いた。
「舜橙さん、起きてるかい? 姉小路だが、入ってもいいかな」
「一人部屋なのですね」
香月の呟きに「とにかく日光に当たれないもので、相部屋にすると色々問題が生じるのです」と彼は答える。
程なくして室内から鈴が一回、凛と鳴った。
「会話が出来ないので、意思表示は文字盤と鈴で行っています。──起きている様ですね」
入った病室は、ごく殺風景なものだった。簡素な寝台に小さな机、角灯、ささやかな荷物を置く為の棚。
遮光の為に窓を覆った一面の黒い布のせいで室内は暗い。角灯の明かりに照らし出された寝台に佇む力ない姿の舜橙は、生命力の衰退を感じさせた。
単なる健康な者の驕りなのかもしれない。それでも、こちらを見返す事もしない虚ろな表情は皮膚の色もくすんで皺となり、顎に掛けてたるんで下がりかけている。
髪こそ色のあるままで──鳶色に近い変わった色だ──毛量を保っているだけに、身体に比べて浮いて見えた。
「身体の具合はどうですか」
正面に回りこんで姉小路は患者と視線を合わせる。舜橙はおもむろに机に載っていた紙の板の文字を指差した。そこには等間隔に文字が並んでいる。
〔よくなんかならない。あかるいばしょにでたい〕
病魔と戦う毎日は、精神風土をも荒らしていく。姉小路も慣れていると見え、特に表情は変わらなかった。
「治療の為にも、協力してくださいね。今日はまた、貴方の『歌』を聴かせてもらいたいんだが。どうかな」
〔はい〕
全く無駄のない返答。最低限の意思表示、それすらも疲労を感じるのだろうか。
悲哀を態度に表してはいけないと思い、黙って香月が見守っていると元良の供の内男の一人が持っていた鞄を開けて小さな匣の様なものを取り出した。
「我が府で開発した蓄音装置だ。楽器の原理を応用している」
誇らしげに元良は彼女に笑ってみせた。匣の蓋を開け、手前にある小さな把手に手を掛ける。
「舜橙君、始めてくれたまえ」
名を呼ばれてもこちらを見るでもなく、舜橙はただ座っていた。
病室が全くの無音に支配された──最初、香月の耳にはそうとしか思えなかった。
不意に、高い音が響き渡った。しかも単音ではない。多数の音が全く同時に鳴っている。あまりの不快感に彼女は頭を押さえた。
──これがもしかして、舜橙さんの『声』なの。
布に遮光された窓が鳴った。外から叩かれている様な音がし、尋常ではない数の鳥の鳴声が聞こえた。
「今日は鳥か──宮村、念の為窓の外を視認しろ。日光を入れない様にな」
元良が興奮した様に言うと、部下の女性が部屋の隅に歩み寄り布の隙間に首を突っ込んだ。
「嵯峨局長? どうしました」
「……妾、ちょっと──具合が。失礼、致します」
頭痛はひどくなる一方、吐き気すら催して来て姉小路の声すら遠くなり始めた。もうここにはいられないと、香月はふらつく足で扉に向かう。
元良も彼女の異変に気づいたらしく、「ここは大丈夫だから、付いていてやりなさい」と頷いた。
「しっかりしてください。休憩室まで歩けますか?」
姉小路に身体を支えられて、廊下にようやっとの思いで滑り出ると、不思議な事に不快感はほとんどなくなった。
「急に一体、どうなさったのです」
不調の余波はまだ残っていて、急速に脱力するのを感じる。床にへたり込みそうになるのを、大きな手が受け止める。結果として香月は、しゃがんだ彼に身体ごと凭れ掛かる格好になってしまった。
「……もう、大丈夫です。ご迷惑をお掛けしました」
とは言え一人で立てる程、腕に力が入らない。
結局そのまま姉小路に抱きかかえられて、休憩室の長椅子に寝かせられる事になった。
「迷惑などと。しかし驚きました──もしかすると、『聞こえた』のですか?」
香月は黙って頷いた。
──高音域の倍音に似ているが、あんな音は初めてだ。
音が人間の耳に届く時、響きに「揺らぎ幅」を感じる事がある。それを倍音と呼び、楽の音も人の歌声も、これがあると聴くものに特殊な印象を与えるとされている。
或いは妙音と言い美声と賞賛されるが、単調なものの場合逆に聞くと疲れる場合がある──だが今しがた聴いた音は、そんなものでは済まされなかった。
「少し……休ませてもらえますか」
囁いて香月は瞳を閉じる。身体に障害を持つ人間の中には、たまにああいった特異な能力を持つ者が現れると聞いたが、目の当たりにするのは初めてだった。
──奏の鳴声。
元良が禎祥を指して言った言葉だ。あんな不吉な音ではない。
──それを聞いた者は、皆消えている……。
──確かに、母上は亡くなった。
様々な記憶が埒もなく浮かんでは消え、いつしか香月は深い眠りに落ちていった。
脚注:諧声音=周波数の意味。造語です。
紅掛花=明るめの青紫色
黄檗=ビビッドな黄色
淡萌黄=明るい黄緑色
となっています。