黒紅(くろべに)
少々残酷な描写があります。苦手な方はご注意ください。
「……とにかく彼女は連れて帰ります。全く、この忙しい時に何を悠長な」
不意に聞こえて来た何者かの声に、香月は自分が覚醒しつつあるのをぼんやりと感じていた。薬のものらしき匂いを感じる。
──そうだ。私……施術局で倒れて、そのまま……。
「ですからわざわざ自ら来なくても、連絡したでしょう。私が運んでも良かったのですよ」
違う人物の声も聞こえた。笑い含みにも思えるその声は、姉小路のものだとすぐにわかった。
「貴方にしては随分と目の敵になさっているらしいですね。気に入らない相手は端から歯牙にも掛けない貴方が」
「私も出来るものならそうしたいさ。だが玲彰様がやけに肩入れなさっている。粗略には扱えまい」
「玲彰」の言葉で最初に聞こえた声の持ち主に思い至って、香月は目を見開いた。
「気が付きましたか──良かった」
「……姉小路局長」
長椅子の脇に置かれた丸椅子に腰掛けた姉小路が、安堵の表情を浮かべてこちらを覗いている。
他にいた人物が予想通りだったので、即座に起き上がり居住まいを正した。
「詳しくは後日伺います。とりあえず今日はお帰りになった方が宜しいでしょう。立てますか?」
「は、はい。そうします。ご迷惑をお掛けしました」
上の空で答えながらも、視線はその人物に釘付けとなってしまっていた。香月の様子に姉小路も苦笑する。
「もしこのまましばらく目覚めない様でしたら、彼が局まで運ぶと話していた所だったのですよ。そうですよね? ──仙丸副局長」
姉小路の斜め後ろの壁に凭れる様にしてこちらを冷ややかに見下ろしていた仙丸は、上体を起こし扉に向かう。出入り口に辿り着くと振り返り、にこりと笑った。
「局長がお倒れになったというのに、他の局員に介抱に向かわせたとあっては外聞も悪いですからね。だが幸いな事にもう自力でお帰りになれるご様子で、安心しました」
完全無欠の愛想笑いである。
「嵯峨局長、今日はもうお帰りになって結構ですよ。後の事はいつも通り、私が万事抜かりなく務めておきますので」
怖気に身震いをする香月を尻目に、彼は部屋から出て行った。
「これはまた、随分と言い訳めいた……」
姉小路は苦笑していたが、傍らの人物が真っ青な顔をしていたのに気づいて笑いを納めた。
「大丈夫ですか? また何か不調でも」
「い、いえ……」
何とか立ち上がり、まだぼんやりとした頭で歩き出した。
局までやはり送った方が、との申し出を断って施術局を後にする。
外面の良い仙丸の報復を恐々として薬処方局に戻ったが、彼の姿を見かける事はなかった。
局長室に入り机の上の水差しから水を飲んで、ようやく人心地つく。
──あの音。
思い出せば今でも息苦しくなる程、奇妙な音だった。
幼い頃より学問と楽の音を学んできた身である。一度聴けば、何の音階が用いられているのか大体想像が付いた。
その耳を以ってしても、舜橙の『歌』は理解出来ない。単なる不協和音にも聞こえるが──聞き続ければ、人を狂わせる事が出来るのでは──そう思わせる威力が、あの音にはあったのだ。
音に拠っては、聴力を破壊させるものもあるという。倒れたものの身体に損傷がなくて良かったと、安堵の息をついた。
──今日はもう、帰ろう。
空になった器を机に置くと、局長室を出て薬庫に向かう。帰る前に出来た薬を河西に渡さなくてはならない。
部屋に入った途端、香月は何処か違和感を覚えて眉をひそめた。
室内に特に変わった様子はない様に思える。元々雑然と保管棚が並んだ部屋の事、誰が何かを動かした所で普段なら違いになど気づかないだろう。違和感を覚えた原因がわからないにも関わらず、何かが訝しいと思う自分も不可解だった。
目的は中央の調温器だったが、念のため最奥の劇薬棚を確認に行った。
「──そんな」
香月は愕然とした。
劇薬の棚は棚そのものが載せられたものの重量を測れる様になっている。薬毎に個別に仕切られていて、上には四角い皿。そして棚板の縁には小さな窓が付いていた。ここで皿に載っているものの重量を確認する仕組みであるが、麻珍の重量目盛が明らかに昨日よりも少なくなっている。
局長となって玲彰より拝命してからは毎日の様に確認していたものの、変化はなかった。管理者が変わって鳴りを潜めていただけだったのかもしれない。
──玲彰様に報告しなくては。
香月は調温器から薬を容器ごと掴んで袋に入れると、記録簿に増減を記入してそのまま持ち、部屋から出た。鍵を掛けたのを確認して、昇降機に向かって駆け出す。名残か頭が割鐘の様に痛んだ。
今にも作動する、という昇降機に飛び乗って気づいた。
薬庫の違和感の理由は、『匂い』だ。
常に薬臭い室内に、一際強く香る匂い──先程施術局で嗅いだ匂いと、同じものだった気がする。
※※※※
息せき切って辿り着いた芭墨の間は、主不在で扉を固く閉ざしていた。
大抵の幹部は室内に補佐官を置くものだが、彼女の所には誰もいない為、清掃以外の不在時は施錠されている。
余りの事に連絡もせずに来てしまったのを悔やんでいると、廊下を歩く坂ノ内副長官に「玲彰様なら、三階に行かれたよ」と気軽に話しかけられた。
五十代半ばのごく普通の風貌の坂ノ内も、本来ならば玲彰に勝るとも劣らない雲上人なのだが、意外と彼は普通に接して来る。気さくというよりは、身分や上下などの俗事にあまり興味がない風にも取れた。
「三階というと、雅綾府の研究の件でしょうか」
「さあ、そこまでは。二刻程で戻ると仰っていたよ」
今は昼三刻だ。後二刻待てば五刻、宵に入って皐乃街では夜の顔見世が始まってしまう。そうなれば浅尾に会うのは難しくなる──薬を一刻も早く渡したい香月は、しばし迷った挙句坂ノ内に伝言を頼む事にした。
「危急の用がありまして、本日は退がらねばなりません。明日改めて伺いますので、今の話、くれぐれもよろしくお伝え下さいませ」
「わかった。伝えておこう」
頷いた坂ノ内に一礼すると、すぐさま踵を返して来た道を引き返す。
保管簿を元の場所に戻し、帰り支度をする間も廊下に局員の姿がないのは幸いだった。建物を出てすぐの場所に呼んでおいた馬車が来ている。駆らせて皐乃街へと急いだ。
──姐さんは、絶対私が治療してみせる。
研医殿のある王都からは馬で一刻、出来る限り急がせたものの大門に到着した時には既に夜見世が始まってしまっていた。
「浅尾ちゃん、私。香月よ」
暮れを迎えて間もない格子楼──上級遊女達が客引きをする場所だ──は燈籠の灯りも朧げで、幻想的な風情を醸し出している。目映いばかりに着飾って籬の中に鎮座していた浅尾は、深紫の頭巾姿の彼女にすぐには気づかなかったらしい。声を掛けると白塗りの顔に期待の面持ちを見せた。
「頭巾姿なんて、例の謎のお客以来で驚きました。──もしかして、出来たんですか?」
「ええ。とりあえず七日分だけ持ってきたわ。一日に三回、朝昼晩と飲ませて欲しいのだけど」
夜は彼女もお勤めがあるだろう、と語尾を濁らせると浅尾は「彩に頼みますから、大丈夫です」と請け負ってくれた。
「よう、浅尾ちゃん」
香月の背後から若い男の声がする。
「あらあ、舛屋の若様じゃないですか。お久しぶり。随分とお見限りでしたよね?」
男は間にいる頭巾姿の人物にちらりと流し目をくれたが、「最近家業の方が忙しくってなあ」と笑いながら格子際に割り込んだ。
浅尾に薬の袋を押し付けて、目顔で頷くと足早に香月は格子楼を離れた。大路に出て気づけば道は遊女を買いに来た如何にもな人々や、袖を引く若衆と呼ばれる男達で溢れていた。
──こんなにも、人が。
かつて自分がいた場所ではあったが、出てしまえばまるで異邦人の様な気さえしてくる。
人ごみに揉まれつつも何とか河西のいる場所まで辿り着いた。打って変わって、灯りもなく闇と静寂が支配した町外れへと。
「河西姐さ──」
前に来た時と同じ様に、河西は格子際にその身を投げ出していた。頼りになるのは己の掲げ持つ角灯と、荒屋に灯された蝋燭の明かりのみ。輪郭でようやく彼女だと、判断した香月の目にそれはありえない異物として飛び込んで来た。
河西の足元に、何者かが蹲っている。
立ち竦んで息を呑んでいる香月の耳に、男のものらしき荒い息遣いが聞こえて来た。
はだけられた肉の薄い胸元に、異物から伸ばされた闇が触れている。手に見えた。無骨な指が、河西の乳房を鷲掴みにしている。
小刻みに動く闖入者──それが客に蹂躙されているのだと気付いた時、香月は悲鳴を上げていた。
河西の表情はわからない。ただ身じろぎ一つせず、男にされるがままになっていた。
「何だ、どうかしたのか!」
大路から憲兵が駆け付けて来る。女が一人で叫んでいるのだと知ると、両肩を掴んで「商売の邪魔をしないでくれ」と連れ出そうとした。
「離して! 姐さんは、姐さんに──あんな!!」
「端女郎が客を取っているだけだろう! 大人しくしないと力ずくで黙らせるぞ」
河西は病気なのに、そう叫べばこの場は助かるだろう。ただの感冒程度ならともかく、誰も好き好んで命取りになる瘍頭持ちを抱こうなどと思わない。──だが、その後はどうなる。
香月は言葉を失くして、力なく踵を返した。叫ぶのを止めたので憲兵も「さっさと帰りな」と後追いはして来ない。遊女の家族とでも思われたのかもしれない。
ここは遊郭なのだ。
「苦」ばかりの世界故に苦界と呼ばれた、少し前までは当たり前の光景だったではないか。
──皐乃街の撤廃を提案したが、叶わなかった。
玲彰の言葉が脳裏に蘇る。馬車に駆け込み椅子に崩れ落ちると、上がってきた息に咳き込んだ。涙を零したのは苦しかったからばかりではない。
息を整えて、それでも更なる涙は何とか堪える。──鷹信を治療する時、嘆く暇などなかった。同じ奇跡をまた、起こしたいと思ったから。
※※※※
『見つからない。もう諦めなよ』
呆れた様な男の声が聞こえる。身体が沢山の手に絡め取られて、またあの夢なのだとわかった。
いつもと違って、今日は夢だというのに早く気づいた。自分が精神的に苦しんでいる時に限って見る、過去の悪夢。
無人の屋敷、追いかけられる廊下。恐らく父が亡くなった時の恐怖と自分を責める気持ちが見せるものだと、繰り返し見るに至って香月は結論づけていた。
玄達が亡くなってから今に至るまで、夢を見なかったのは鷹信が客になって不安を拭ってくれた時だけだった気がする。今思えば、狭い世界に閉じ込められたせいで現実から目を背けていたに過ぎない。
現にこうして鷹信と同じ屋敷にいても悪夢を見るのだから──
──つ。……げつ。
誰かが自分を呼ぶ声が聞こえて腕の幻が消え、また彼女は生家の屋敷内を逃げ回っていた。
訝しい。いつもと違う。
いつもなら、捕まった時点で目が覚める筈なのに。
気づけば香月は、父の部屋の前に立っていた。
辿り、着いた?
今まで決して、「此処」には辿り着かなかったのに。
『……様は、この男が持っていると確信なさっていたが。ないではないか』
部屋の中から男の声が聞こえた。若い男のものの様に思えた。
『だからさっさと殺さずに、拷問にかけて吐かせれば良かったものを』
声は一種類しか聞こえなかったが、誰かを相手に話しているのは明らかだった。
──香月。しっかりしろ。香月。
頭の上辺りから、また自分を呼ぶ声が聞こえた。
『……吐かないさ。自分の……すら犠牲にして……男だ』
──目を覚ませ! 香月!!
『こいつには他に……がいなかったか……』
ああ、と思った瞬間香月は再び走り出していた。
自分は「あれ」から逃げていたのだ。
「あれ」に捕まってはいけない。
……父がその為に、自分を隠していたのだから。




