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禄遒の奏  作者: 伯修佳
第壱楽章
3/25

瑠璃紺(るりこん)

 王が執務を行う内宮ないぐうの大殿、亳令宮はくりょうきゅうは年に一度の重要議題を前にして緊張した空気をはらんでいた。

 国王楠を正面の最上座に、脇には滅多に会議に顔を出さない筆頭侯爵箕浦と王后玲彰が顔を揃えている。

 次位に席を得る鷹信にとっては、最近人口密度が高い──という程度のもの珍しさしかなかったが、王者の覇気に満ち溢れた楠王と人離れした容貌の玲彰が並ぶのは、見る者に名状しがたい威圧感を与えるらしかった。

 これで玲彰が単なる后として愚見を挟むならば、姻族の専横と非難されるのだが。幸か不幸か、研医殿始まって以来の天才と謳われた彼女の見識は、十七侯爵にとっても端倪たんげいすべからざるものとして畏れられていた。

 気が向いた時にしか会議に参加しない事を除けば、国王以上の砦になったかもしれないとも噂されている。


「……ではこれより、各府の予算事案の協議の続きを行いたいと思います」


 進行役の鈔納府しょうのうふ──財政を司る部署である──長官、鏑木かぶらぎ候の重々しい声が響き渡った。


「本日は雅綾府がりょうふ及び研医殿の予算についてです。お手元の書簡をご覧頂きまして、各々の説明をお聞き下さいませ」


 研医殿、の言葉に周囲から訝しげな囁きが起こった。

 書簡を流し読んだ鷹信も、ちらりと玲彰の顔を一瞥する。


──突貫工事で人員をお決めになられたのだろうか。


 府の予算は人員数と前年度実績、それに今年度の事業予定の内容によって割り振られる。今朝香月に聞いた時は薬処方局のみがまだ人員数が決まっていないとの話だったが、こうして現に提出されている。理由は一つ、彼女が与り知らぬ所で首尾が進んだとしか考えられない。


「──特に異論がなければ、申請のあった枠にて決議を行います」


 鏑木の声が凛と響いて、一同を取り巻いていた緊張の気配が薄れる。

 あたかも、これは既に終わって次の審議を迎えるばかりとの如く。

 侯爵の中でも中堅と目される鏑木は、四十半ばの神経質そう片眼鏡が特徴の男だった。

 色白で文弱にのみ印象を残す官僚肌の彼はまた、この国きっての『財務職人』としても知られる。

 即ち、衣食住よりも数字が大事という職業人で、報告書の数字が一文字変わっただけであっても全体の余波を見抜く特技を持っていた。


「研医殿におきましては、年次の予算に加えまして薬処方局の新薬開発、及び人件費の増額の要望を受けております」


「お待ち下さい──人件費とな。人ならば減りこそすれ、増やすべき理由は見当たりませぬが」


 と声を上げたのは、宮廷のご意見板と畏怖される老侯網淵であった。

 齢八十を数える彼は、一見白髭の好々爺にしか見えない。だが例え相手が国王であっても怯まず諫言する手厳しさから、『言を通したければまず彼を陥とせ』と噂されている。


「これには重大な理由がある。私は本日、遊里ゆうり皐乃街について新懸案を提出致します」


 玲彰の返答に、誰とはなしにざわめきが起こった。


「網淵候のみならず、諸侯のお手元にもその旨の書簡があると思うが、漏れでもあったろうか」


 網淵侯爵は白筆にも似た眉をひそめて書簡を睨んでいたが、ふと苦笑して顔を上げた。居並ぶ侯爵達も慌てた様に手元の小冊子──上質の紙を束ねて背を糸でかがり綴じされたものだ──を見返す。

 一同の中で楠王と玲彰の父の箕浦侯爵、そして鷹信だけが顔色一つ変えないでその場を見守っていた。


「これは儂も耄碌もうろくしたもの。気づきませなんだ。しかし玲彰様、王族の方が皐乃街に干渉するなど、前例がございませぬぞ」


「皐乃街は他の町と同じく、一自治区に過ぎぬと考えている。なれば住まう者達を気遣うのは当然の話。侯爵はあの中に生きる民を何と看做みなしているのか」


「仰る事はご尤もでございますが、単なる街ならばあれほどの独自な法は罷りますまい。そもそも遊郭という生業自体が、庶民のそれとは全く違った仕組みに成り立っているではありませぬか」


「私も網淵候と同意見にございます。あの街は独自に発展しているからこそ、現在の様な美しさを保ち続けているのですよ」


 網淵の横からそう口を挟んだのは、雅綾府長官の元良もとら侯爵である。


「玲彰様の慈悲深いお考えはわかりますが、研医殿の人員も無限に補充出来るわけではありますまい。派遣というならば、他の街になさっては如何ですか?」


 自称玲彰の信者とあって、元良の福福しい丸顔には追従の色が浮かんでいる。

 生身の女性に興味がないと、兎角の噂があるこの男は芸術家としては超一流の腕前を持っていて、描いた絵が動き出した事があるという伝説の持ち主であった。

 鷹信がちらりと楠王を見ると、彼は元良の濡羽の様な黒髪を忌々しそうに眺めている。どうも元良の油っぽい外見が、つくづく気に入らないらしい。

 くだらぬ、と玲彰は切り捨てた。


「一体この国のどれだけの人間が、あの街に金を落としたと思うのだ。経済的に介在している以上、独自文化であろうとなかろうと国の一部だ。それに其方等は、あの街に通って病に罹った客が、外にそれをばらまいても仕方ないで済ますと言うのか」


 他の侯爵達の反論はない。彼等の応酬に宮内は先程までとは違い、困惑の気配が訪れた。

 老候と玲彰の舌戦は実にいつもの事であるから仕方ないにしても、皐乃街は侯爵達にとって異国と同じ扱い、開けてはならない匣の様なものであったからだ。

 しかも先般、他ならぬ国王自身が足繁くそこに通い、大層な金を落として遊女の一人を寵愛している。

 彼の妻たる玲彰は女性らしい嫉妬や邪推をする様な人間ではないと知れ渡っているが、周囲の方が何かと気を遣わざるを得ない、繊細な問題だ。


「仕方ないなどとは申しませんが。街にも医者がいるでしょう。彼等を再教育なさる、というわけには行かないのですかな?」


「知っている者も居ようが、私は先日あの街に行ってみた。もし医者を再教育するのなら、一度街から引き上げて研医殿と入れ替えをすべきだ」


 一同にどよめきが起こった。


「……これはまた、思い切ったお話で」


 網淵に怒りの様子はない。呆れた様な声音には、賞賛の意すら籠っている。

 二人がよく衝突するのは、それだけ率直に意見を述べているからとも取れた。他の侯爵であれば、自分の立場を考えて計算をするものを、この二人にはそれがない。

 目的の為には手段を選ばない玲彰と、慣例を遵守する彼との方向性の違いは常に議論を過熱させる。

 だが大体において、網淵は納得しさえすれば引き際を見極められる分別を持っていた。


「皐乃街に王の力を介入させるのは、悪くない案だと思います。むしろ取り込むのならば半端にではなく、一つの領土として公平に取り入れるべきです」


 そう口を挟んだ鏑木を、網淵はじろりと睨んだ。


「お主、もはや租税の収益を試算しておろう」


 鏑木の片眼鏡の奥の瞳が、薄く笑みを浮かべた。


「皐乃街があの場所に押し込められてから百有余年の歳月が経っております。その間、生産性がない事を理由に租税は免除されて参りました。しかし、毎年納められてきた上納金とは、街の盛況を考えれば些細なものかと。見直しを掛けるべき時が来たのかもしれませんな」


 他に何かご意見は、と彼は周囲を見渡した。


「異を唱えるわけではありませんが、その決定の際には原案を全員に見せていただけるのですね」


 鷹信の問いに、鏑木は「勿論です」と眉を上げた。


「お待ちなされい、まだ儂は是とは申して居りませぬぞ」


 網淵の食い下がりに、玲彰はいつも以上の冷ややかな眼差しを向けた。


「旧弊を守っていては、民は倦むばかりだ」


「しかし問題の根本がそこではありますまい。民が身売りをする時勢を変えなければ──」


 その通り、と初めて玲彰は網淵に同意を見せた。


「身売りする場所がなければ、商売も成り立つまい。私はいっその事、皐乃街自体をなくしてしまえば良いと思っている」


※※※※


「玲彰様。少しばかりお時間を頂けますか」


 会議が一旦休憩に入った時、楠王が席を外した時を狙って鷹信は目指す相手に近寄った。玲彰が一人になるのを待ったのは、特に疚しい所があったわけではない。

 内容を聞けばあの国王は間違いなく面白がって彼を揶揄やゆすると思ったのだ。


「構わぬが」


 無表情な双眸を上げただけで、動こうとはしない。彼は片膝を付いて目線を下げると小声で囁く。


「薬処方局の事で……お話を伺いたいのですが」


 ああ、と事もなげな頷きが返ってきた。


「委細は後で話そう。少し話が長くなるかもしれない」


「──畏まりました」


 その一言で彼はある予測に思い至り、故にあっさりと引き下がった。もし己の考えが当たっているなら、また別の手を打たねばならない──

 

「おお、どうした鷹信。また香月の事で何か心配性の虫が騒ぎ出したのか?」


 にやにや笑いの主君が席に戻って来たので、慌てて鷹信は退散の姿勢を取った。

 その背中をむんずと掴まれる。


「まあそう照れなくとも良いではないか。今まで公務一筋の朴念仁で来たお前の事、慣れない駆け引きに迷いも多かろう。遠慮なく相談しろといつも言っているじゃないか」


「──迷いなんかありません」


「嘘を申せ。顔に出ているぞ」


 鷹信は休憩の為空席が目立つ卓を一瞥して反撃した。


「陛下こそ、いくら元良候が玲彰様の絵を描きたいと散々言っているからって、あそこまで睨む事はないのでは? ご本人は気づかれていない様ですが」


「……何の話かな」


「自覚されていないのでしたら結構です。玲彰様も、王族の方は肖像画を残さなくてはならないのですから、この際引き受けては如何かと」


 冗談じゃない、と怒りを露にしたのは絵を描かれる本人ではなかった。


「お前も見ただろう、あの男の粘着質な視線を! どうせ現実には何もしないだろうが、あんなのと長時間二人一緒にいるのかと思うだけで私は嫌だ!」


皓慧こうけい様、絵を描かれるのは私ですが……」


 苦笑する鷹信と渋面を見せる楠王、二人を見比べながら玲彰は不思議そうな顔をしている。


「それに倉嶋候。私は慣例には興味がないし、絵を描かれる間動けないのだろう。そんな時間があれば研究していたい。だから今後も受けるつもりは全くないぞ」


 楠王は我が意を得たりと言わんばかりの表情を浮かべた。


「というわけだ。人の事より鷹信、お前香月とはその後どうなった? 上手くやっているのか」


「ご心配には及びません」


 いつの間にか不仲を解消したらしく、ここの所楠王は上機嫌な日々が続いていた。

 玲彰はあまり以前と変わらない様な気もするが、こうして並んでいても二人の間に漂う雰囲気が変わったので、やはりそうなのだろうと思う。

 歓迎すべきだとは思うが、こちらにまで水を向けて来るのに鷹信は辟易していた。


「お前の事だ、どうせいつまでも手をこまねいているのではないのか? 大事にするのも良いが、逃げられぬ様注意するのだな」


 いつまでも続きそうな主君のお節介から逃げるべく、彼はそそくさと自分の席に戻った。かつては漁色で聞こえた国王、確かに男女に関しては詳しいのだろうが──

 少なくとも、勘は鋭い。


──そんなに顔に出ているのだろうか。


 次の議題の資料を眺めながら、鷹信は己の整理しきれない感情をひとまず頭から追い払った。


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