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禄遒の奏  作者: 伯修佳
第参楽章
10/25

橡(つるばみ)

「香月っ!!」


 身体が揺すぶられる感覚に、香月はようやく目を覚ました。

 あまりに生生しい恐怖の残滓はまだ記憶に新しくて、目の前の状況をすぐに把握する事が出来ない。心臓は早鐘を打っているし、額を伝って汗が流れているのは感じられたのに。


「随分とうなされていたぞ……呼びかけても中々起きないので思わず揺すってしまった。済まない」


「鷹信様……?」


 自分の身体を抱え起こしている鷹信は寝間着に丹前を羽織った恰好で、同じく就寝途中かその前と思われた。確か自分は皐乃街から帰り、具合が悪いと言って食事も摂らずに寝台に引きこもった筈。とすれば今はそう遅い時刻ではないのかもしれない。

 ではと思い至った矢先、案の定彼の傍らに水差しが載った膳を持って苑寿が現れた。


「姫様、一体どうなさったのです? 研医殿で、何かあったのですか」


「苑寿。……貴方もしかして、鷹信様を呼んだの?」


 苑寿は膳を枕元に置くと、眉を吊り上げ「いけませんか」と強い口調で返した。


「夕餉もお摂りにならず湯浴みもされずに一人で寝室に直行されれば、倉嶋候がご心配なさるのも当然でしょう。ご就寝前に候は妾に姫様が何か悩みを抱えているのではないかと、お聞きになられたのです。その時たまたま、ひさぎが急を告げに飛び込んで来たというだけの事ですが?」


 楸は側仕えの侍女の一人だ。年齢は香月よりも二歳下の十六の娘、いきなりうなされだした主を急病と勘違いしたらしかった。

 それ程自分は苦しんでいたのかと溜息を付く香月に、乳母は険しい顔で尚も詰め寄った。


「妾はどうやら悩みさえ打ち明けて頂けない間柄ですので、この際倉嶋候にじっくり相談なさっては如何ですか? 夜毎うなされる様ではお身体に良くありませんし、傍にいる者達も寿命が縮まりますからねっ」


「え、苑寿。違うのよ、これは──」


「では倉嶋候、申し訳ありませんが妾共はこれで失礼致します。お寝みなさいませ」


 香月の言葉を全く無視して、苑寿は鷹信に微笑む。鷹信も苦笑しつつ頷いた。


「ああ。お寝み」


 乳母が足音もなく去っていった方向を呆然と見送って、彼女はふと置かれた膳に視線を落とした。

 水差しの隣には、夜食が整えられてある。寝間着の替えも奥に用意されていた。


「……明日にでも、苑寿に話をしておくのだな。乳母にとって打ち明け話をしてもらえないのは、哀しいものだろう」


 複雑な響きを感じ取って、香月は鷹信を振り返る。途端にその双眸が物憂げに自分を見つめていた事に決まり悪くなった。

 悪夢を見ないと嘘をついた事が知れてしまった──


「私も悔しかった。彼女の気持ちがよくわかるよ」


 彼の言葉は、香月にとって意外なものだった。


「え──それは、どういう」


「何故其方は、何でも一人で背負い込もうとするんだ。玲彰様に長塚伯の……尾上の手の者を探せと言われたのだろう? それに、河西が病気になったそうだな」


「だ、誰から聞いたのですか」


「いくら其方が隠そうとしても、私の所には逐一話が入ってくるんだよ。皆其方を心配している証だ」


 香月は脱力した。自分が見張られている様に思えたのだ。

 所詮自分は鷹信の庇護がなければ何も出来ないと、懸念されているのだろうか。


「そう……ですか……」


「その顔だと、誤解しているらしいな。皆が心配しているのは香月、其方の心の内なのだぞ」


 鷹信の声はあくまでも優しい。彼は膳から水差しを取って、中身を器に注ぎいれると香月に渡した。


「皐乃街にいる時に其方がうなされていたのは、てっきり遊女の生業なりわいが辛いのかと思っていた。だが、そうではなかったのだろう」


 器を受け取りながらも、香月の瞳は問われた相手を凝視している。


「妾──もしかして、何か言いましたか。うなされている時」


「いや特に何もないが。聞かれたくない事でもあるのか?」


 彼にしては珍しい不興の気配を感じて、慌てて「いえ、そうではないんです」と付け加えた。


「今まではその……単なる夢だと思っていたものですから」


 そう前置きして、彼女は夢の内容を話し始めた。


──正直これが、本当はどんな意味を持つのかはまだわからない。


 だが一つだけわかるとすれば、黙っていても事態は進展しないだろうという事だけだった。

 父は『自分の存在』以外にも、きっと何かを隠していた。

 今見た夢が現実に起こった出来事の封印だったとしたら──父は誰かに、何かを狙われた為に殺されたのだろう。自分と一体どういう関わりがあるものなのかはわからないが。

 夢だから、支離滅裂な部分も多い。けれど明敏な鷹信ならば、そこから推測するものがありそうだ。

 母親の死についても、後で苑寿にきちんと聞いてみようと思った。


「……成程。屋敷に誰かが侵入していたかもしれない、と其方は考えたのだな」


 語り終わった後、水を飲み干して香月は頷いた。

 鷹信は予想以上に渋い表情をしている。

 麻珍の中毒に似ているという部分は省いて、何者かに毒殺された様に見えたとは以前にも話した。加えて今まではただ亡骸を見つけた記憶しかないと思っていたが、だが実際のところ夢の中で見た事は、衝撃のあまり忘れていたものではないかと。考えた事を、そこは正直に。


「残念ながら、途切れ途切れにしか夢には出て来ませんでした。それに、あくまでも単なる夢かもしれないのです。……以前は『辿り着けない』というものでした。誰かに話せば心配させるだけだと思って。だから黙っていました」


「嵯峨伯の死については、私も人を使って調べさせよう。ただでさえ其方は他に考える事も多い筈だ。遠慮する事はない──河西についてもだ」


 日中皐乃街に人を遣わして、代わりに様子を見させると彼は提案した。


「薬を作って、渡したのだろう。後はそう頻繁に行く必要はないのではないか」


「ですが、そこまで頼るわけには」


 言いかけて香月は首を傾げた。従者が報告したにしては、細に入り過ぎている気がしたからだ。会いに行ったぐらいはわかるだろうが。

 重ねて問うのもどうかと思っていると、眩しい程の微笑みが返って来た。


「気にするな。其方は出来るだけの事をしている。今度は研医殿での仕事に集中した方がいい。……流石に私も研医殿には滅多に行けないからな」


 食べられるか、と鷹信は膳を引き寄せる。


「……はい」


 正直食欲は全くなかったが、折角苑寿が用意してくれたのだ。少しでも食べておこうという気になった。


「じゃあ、口を開けて」


 料理に手を伸ばそうとする前に、鷹信が匙を使って粥を掬い上げているのに彼女は仰天した。


「い、いいえ! そんなとんでもないっ。病人ではありませんから、自分で食べられます!」


「あ、ああ。そうだったな」


 大真面目な表情といい、どうやら疑問を持たずにした行動だったらしい。

 頬が熱くなったのは温かい出来立ての料理のせいだけではなかったが、香月は黙って食べ続けた。口にしてみると、身に染み入る様に美味しく感じられるのが嬉しい。さっきまでの吐き気が嘘の様だ。

 鷹信は去ろうとはせず、寝台に腰掛けて食事を見守ってくれている。

 食事が終われば安心して帰ってしまうのだろうと思っていたら、彼は次に寝間着を替える様勧めて来た。もっとも実際に着替えたのは香月自身で、その間鷹信は向こうを向いて手を通しやすい様に寝間着を掲げていたに過ぎないが。


「よし、今度は隣に私が付いていよう。皐乃街にいた時の様にな」


 その言葉にようやく香月は気づいた──鷹信は、添い寝してくれようとしているのだ。

 大丈夫だと突っぱねるには心もとなく、かといって以前とは違い胸の高鳴りが抑えられない。

 考えてみたら、十八の娘が幼子の様に他人の、しかも男性の手を握って安心して眠っているなんて常識的に考えられない状況である。ここは無理にでも、大丈夫だと言っておくべきではないだろうか。


「い……いえその、妾は」


「まさか、この期に及んで『大丈夫だ』と言う気ではないだろうな。そんな顔色をして」


 短時間に二度目の鷹信の不機嫌顔に遭って、結局香月は断念した──確かにその後、握っていた手の効力か──再びあの悪夢を見る事はなかったのである。


※※※※


 香月が眠りに就くまで、鷹信は以前教えてくれた話の詳細を語っていた。

尾上が畏れ多くも楠王の命を狙ったのは、そもそも研医殿の利権を巡っての争いが原因だという、その続きを。

 先代国王の治世までは、研医殿はある一人の侯爵によって管理されていた。

 本来候爵位は十八を数え、十八番目に任を受ける者が領土の代わりにこの学者の城を統べていたのだという。

 研医殿は国の全ての産業を開発し、莫大な収益のある一定の割合を受け取る事で運営されていた。それだけでも一侯爵領に匹敵する富だったらしく、見る間に侯爵は蓄えを増やし、自然と権力をも強めていった。

 侯爵達は疎か王でさえも、経済を動かす為には彼に許可を取ってから研医殿に研究または開発させねばならず、その度に費用と称して寄付金を取られる始末であった。

 国王が代替わりし今の楠王になったのを機に、諸侯は研医殿の利権を王に帰属すべきだと考えたという。表向きは収益を全て研究費用に充てればもっと産業に貢献出来るというもの、実際の所は機密と利益を独り占めしていた侯爵に危惧を抱いたのであった。


『その侯爵様は何というお名前ですか?』


 寝物語にしてはあまりに衝撃的な内容だったが、香月は瞼を閉じてさりげない風に問いかけた。研医殿を巡って争いが起きたなどと、鷹信に聞くまでは知らなかったのだ。


『当時は“いしばし”候を名乗っていた。だがその後彼は研究者の倫理を踏み外した罪科で候爵位を剥奪され、国外追放の身となったのだよ』


『倫理を……? 一体どんな研究をされたのですか』


『彼の研究の途中成果が尾上や環なのだ。磴候は身体に毒を仕込む暗殺者や、“特定の目的の為だけに生きる人間”を造ろうとした』


 思わず香月はその時、両目を開いて起き上がってしまったものである。

 隣に並んで横になっていた鷹信は苦笑した。


『済まない、眠るに眠られない話をしてしまったな。……この話はまた、明日にでもゆっくりとしよう』


 最後に彼は一つだけ付け加えた──国を追われた磴候は辺境に辿り着き、廃嫡になった母方の姓“長塚”を名乗る様になったらしいと。ある理由で、国内にその名が知れ渡った──話はとりあえず、そこで終わった。


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