黄白(きはく)
序
禄は幸いを。
遒は多くを集める意を表す。
奏は幸いを謳う鳥。
一声にして百音を奏でると言われている、伝説の神鳥。
その声を聴いた者は、至上の幸いを得るという。
しかし実際の例は無く、故に『奏の鳴声』は“有り得ない事”を表した。
証人がいないのに、何故伝説が生まれたのか──理由は未だ解明されていない。
ただ、まことしやかに受け継がれるもう一つの言い伝えがある。
奏の声を聴いた者は、皆消えているのではないか。
即ち、“至上の幸い”とは『常世に行く』を指しているからだと──
※※※※
無人の館には、灯り一つ灯されていない。自分以外、一体何処に行ってしまったのだろう。
──どうして?
彼女は言い様のない不安と焦燥に駆られて、屋敷じゅうを彷徨っていた。
──父上。苑寿。
母を早くに亡くした彼女は、乳母と父親に育てられた。貴族として、伯爵位を戴く家ではあったが家人は少なく、屋敷もそう大きくはなかった。けれど今は、どういうわけかいくら廊下を走っても父親の部屋に辿り着けない。
──誰か。
声を限りに叫びながら、彼女は走り続けた。
──……助けて。
後ろから、とても嫌なものが追いかけてくる気がした。走りに走って、遂に足がもつれて転んでしまう。
──捕まりたくない!!
『それ』の気配が彼女に覆い被さって来たと感じた瞬間、目の前にいきなり朱塗りの格子が現れて行く手を遮った。
──見つからない。もう諦めなよ。
自分のものではない、ひどく静かな声が聞こえる。
つい最近、どこかで聞いた事がある声だ──
記憶の片鱗を呼び寄せる暇もなく、彼女は背後から伸びてきた無数の腕に飲み込まれ、引きずり戻されて行った。
※※※※
香月は寝台の上で目を覚ました。身体は寝汗でしとどに濡れていて、悪夢の余韻に心臓は早鐘を打っている。
──まただ。また、あの夢を見た。
初めて見る夢ではなかった。父親を亡くしてから、暫くはほぼ毎晩の様に見ていたのだから。
内容も全て覚えている位だというのに、見る度に恐怖で震える。しかも。
──最近は見ないで済んでいたのに、どうして……。
不安に打ちひしがれる日々は、もう終わったではないか。それとも、ここまで自分は子供だったのだろうか。
彼女は自分以外誰もいない寝室を見回して、溜息をついた。
刻はもう朝を迎えているらしく、開いている小半蔀から旭光が入り込んで来る。鳥の囀りも聞こえた。
ここはもう、寿楽ではないから──鷹信の添い寝は必要ない筈で、断るしかなかったのだと自分に言い聞かせる。
額の汗を拭って起き上がった。乱れた寝間着の襟を締めると、香月は部屋と廂を隔てる襖障子を明ける。
秋を迎えた王都の空気は幾分ひんやりとしていて、汗が引いていくのが気持ち良かった。更に塗り格子を少しだけ開けて、部屋に光を取り込む。
「まあ、姫様!」
音で眼を覚ましたのか、隣の部屋の障子が開いて、聞き慣れた女性の声がした。途端に香月の顔から憂いの表情が消える。綻んだ笑顔に、向ける相手への愛情が溢れていた。
この屋敷にはかつて住んでいた生家の何十倍もの使用人がいるが、彼女を「姫」と呼ぶ者はごく僅かしかいない。
それは、親しい身内であるという証。
「早いのね、苑寿」
苑寿と呼ばれた女性はだが、渋面を見せて主人に詰め寄った。
「そんな事、妾や侍女達を呼んでお命じください! 折角侯爵様が姫様の過ごしやすい様にと人を揃えて下さったのですから」
「少し外の空気を吸いたかったの。それだけだから、人を呼ぶのも悪いでしょう」
「しかもそんなお姿で──いいですか、もう少し姫様は貴婦人としての嗜みというものを──」
叱られているというのに、香月はくすくすと笑い出した。
「聞いていらっしゃいますか!?」
「ごめんなさい、何だか懐かしくて。久しぶりね、苑寿の小言を聞くのも」
「……姫様」
乳母はうっすらと涙ぐんで、主の華奢な身体を抱き寄せた。
香月も甘える様に苑寿の肩に頭を凭れかける。
懐かしい、心安らぐ匂い。それでも別れたあの日に比べて鬢に白いものが増えている。
父玄達が何者かによって毒殺された後、それまで困窮していたとも思わなかったのに、家には莫大な借財だけが残された。
返済の為と、どこからともなく現れた人買いに、香月を始め若い娘は皆遊郭に売られ、男や苑寿の様な年配の者は王都の郊外で奉公に出されたのである。
鷹信が全員の居所を突き止め対価を払って引き取ってくれた時、苑寿は酷使され酷く衰弱していたと聞く。
彼女は彼女で大変だったに違いないのに。再会してからこの乳母は、香月の心配ばかりしていた。
今もこうして、子供の時と同じく背中を優しく叩いてくれる。
失ったものも大きかったが──変わらないものが取り戻せたのは奇跡だと思った。
「本当に。……これも皆、倉嶋侯のおかげでございますね。あのお方には、感謝してもし足りない程の恩義を受けました。苦界に入ったにも関わらず、姫様があの様な御方に出会えたのは、天恵と申す外ございません」
「ええ。鷹信様に出会わなければ、こうして貴方がたと再会する事はとても叶わなかったわね……」
しみじみと呟いて、香月は今までの記憶を反芻していた。
そう。恐ろしい事はもうきっとない。鷹信は以前に比べたらすぐ側で、毎日会えるのだ。例え他にいくばくかの問題があろうとも、比べたら些細な事ではないか?
「──姫様っ!」
両腕を掴んで、苑寿はいきなり主を引き離した。
「ど、どうかした?」
もの思いを破られて、香月は眼を瞬く。
「何ですかこの寝汗。着物が湿っているではありませんか。倉嶋侯にお会いするというのに! すぐ湯浴みなさって下さい、ほらっ」
鬼神の如き形相で、苑寿は手を振って彼女を追い立てた。
「ほらほら、さっさと動く! 今日はただでさえ登殿の日ですよっ!! 湯殿の準備も出来ておりますから」
「わ、わかった! わかりましたっ」
──まだ時間は余るほどあるのに。
香月は苦笑しながら、乳母の言う通り形ばかり急ぐ事にした。湿った話が──着物も──大嫌いで実際主義な所も、相変わらずだと安堵しながら。
※※※※
国は王と、十七の侯爵位を受くる貴族によって支配されていた。
貴族は侯・伯・子・準爵位を以って序列を成し、頂点に立つ国王と合議し政を為す。
伯爵家の娘にも関わらず、借財により香月が遊郭立ち並ぶ箱庭『皐乃街』の店に売られ、遊女となったのは一年近く前の出来事。
当時不器用が故に辛酸を舐めていた彼女を救ったのは、侯爵の中でも筆頭に近いと目される倉嶋家の主・鷹信だった。
とある事件で彼は毒を身に受け、危うく命を落とす所だった。それを救ったのが縁で、今現在香月は王都にある倉嶋邸に目下居候の身となったわけである。
「今日の登殿は十刻からだったな」
鷹信の問いかけに、長卓にて差し向かいで朝餉を摂っていた香月は「はい」と歯切れ良く返事をした。
食事や共有に使う中殿は他の者が起居する外殿と造りを異にしていて、窓は大きく縦長で玻璃が埋め込まれている。庶民の昔ながらの文化と、異国のそれとの折衷が貴族の屋敷の特徴だった。
「でも、もう半刻ほど早く出るつもりです。局内の仕組みや色々勉強しなければならない事がありまして」
「そうか。では帰ってからでも、琴を弾いてもらえるかな」
鷹信はにこにこしている。まるで、我が子を送り出す父親の様な笑みだ。香月は少しどぎまぎして、顔を赤らめた。
この屋敷に引き取られてから、彼がこんな見る者を虜にする様な表情を見せる機会が増え──毎日に近く会える様になったせいか──、そしてその度に、彼女の動悸は不規則に早くなるのだった。
「はい、必ず。……鷹信様は、今日も王宮に出仕されるのですか?」
彼の格好が屋敷での執務には少々正装に近いものだったので、香月は首を傾げる。領地の責務もある侯爵が、毎日王宮に出向く事は少ない。あるとすればそれは、重大な決定事項を承認しなくてはならない時だ。
「ああ。少々皆で決めねばならない事があってね」
「もしかして、各府の予算についてでしょうか。ここの所、研医殿でもその話でもちきりです」
「そうか。確かに『現在の』研医殿では、どれだけの予算を割り振られるのか検討もつかないだろうからな」
鷹信は考える素振りを見せた。
「其方の局内の人事はまだ、定まらないのだろう?」
「……はい。恐らくは、それが原因だとも」
香月は表情を曇らせる。
皐乃街での働きを買われて彼女は長たる王后玲彰に研医殿に招かれた。彼女は自分を過大評価する性質ではなかったので、殿内が数ヶ月前あった事件のせいで慢性の人不足である事も理解している。
だがそれでもまさか──本当に局長にされるとは思わなかった。
「せめて局長を、仙丸様にして頂ければ良かったと思うのですが。あのお方なら、局内の人望も厚く経験も長い。妾よりも何倍も適任だと思います」
「尚暁殿か。確かに有能だと聞いてはいるな」
鷹信は真顔に戻ってじっと彼女を見つめていたが、ふと立ち上がった。
「だが其方は自分にもっと自信を持った方がいい。玲彰様がお決めになられた事だ。きちんとお考えがあってのご判断だろう」
側近くに寄って、手を差し伸べ頬に触れる。励ます時の、彼の癖だ。
「私の命を救ってくれた時の事を覚えているか」
そのまま、ひたと香月の双眸を覗き込む。銀灰色の瞳はきりと澄んで、吸い込まれそうに美しい。
「……はい」
「あの時、意識を取り戻してから快復するまでも苦痛は続いた。死の方がどれほど良いかと思った時もあった。そんな私を、其方は懸命に看病してくれたな」
「鷹信様……」
「患者と共に其方は医者として闘ってくれた。──あの時の事を思えば、大抵の問題は乗り越えられると私も信じているよ」
この人に隠し事は出来ない、それは彼女もわかっていた。きっともう局内の軋轢など知れているのだろう。だからこそ、香月は頷くしかなかった。
──鷹信様に何もかも頼ってはいけない。
金銭の上でもう、充分に迷惑を掛けている。この上仕事まで寄りかかっては、彼女が望む目的さえ果たせない気がした。
あの苦界を出る時、香月は一つの誓いを立てた。
それはもしかしたら、途方もない望みかもしれない事。
到達するには、第一歩目で躊躇している場合ではないのは、頭ではわかっている。
だからその一歩目の任務が、今の所局内には誰一人として香月の味方がいないという、誠に心細い状況だとしても断る事は出来なかった。
研医殿に巣食う魔物退治──国王弑逆未遂事件の実行犯、前薬処方局長尾上の一派の残党の炙り出し──という玲彰の依頼は、不可能に近い難題に思えたけれども。