川
ステファンが言っていた一月後の開戦まで数日となった。
フレヤと歌とメノウの声の力、この二つを掛け合わせることによって
騎士たちはアルハフ族と同じくらいの一時的な身体能力を手に入れた。
しかし、日々鍛錬を怠らないところが騎士らしい。
フレヤたち一行は、隣国オスロ国との国境まで来ていた。
先に偵察隊が状況の確認のために国境近くに行き、
安全を確認してからフレヤたちは出立した。
誰もが決意に満ちた凛々しい表情で道を進んでいる。
国境から少し離れたところに本陣を置き、
その夜はそこで過ごすことになった。
野営に慣れているアルハフ族の戦士たちが
てきぱきとテントを張っていく。
それを手伝う騎士たちの姿を見てフレヤは目を細めた。
少しずつ、彼らの間にあった溝が薄く浅くなっていくのを
この目で見ることができるのは、なんだか不思議な気分だ。
「あんたのテント張っておいたよ、フレヤ」
はっとして振り返るとルザが立っていた。
彼女とはチノのこともあって少し気まずい。
小さく礼を言って顔を上げる。
しかし、ルザはその場を動こうとしなかった。
まっすぐにこちらを見つめてくる緑の瞳は
どこかチノと似ている。
「あんたに、ちゃんと謝れなかった。
今まで、きついこと言って悪かったね。
あんたがのことが羨ましかった」
ルザを目をそらさずにそう言った。
フレヤはルザがまぶしく見えた。
そうしてアルハフ族の女性たちはこうも凛として
とても素直なのだろうか。
「私は、チョルノの番じゃない。
チョルノの番が見つからなかったから、
前族長の娘の私がチョルノの許嫁になったんだ」
「そう、なの」
「でも、チョルノのことは本当に好きだった。
ぽっと出のあんたなんかにとられたくなかった。
……でもあんたはチョルノの番なんだ」
「チノがそう言ったの?」
ルザを首を横に振った。
丁寧に編み上げた髪も一緒に揺れる。
「見てたらわかる。
チョルノがあんたを見ているときの顔。
私にはあんな顔見せてくれたことはない」
そう言ってルザは寂しそうに笑った。
ここでルザに謝罪をするのは違う。
それは彼女の誇りを傷つけるだけだ。
「私が、彼の傍にいる。
一人には、させない」
「うん。
……ありがとう」
ルザは笑った。
彼女の目の端に光るものがあるのは見ないふりをした。
フレヤは、用を足してくる、と嘘をついて
川辺に一人で来ていた。
そうでもしなければ、カインやチノがどこまでもついてくるからだ。
誰もいない場所に行きたかった。
一人になりたかった。
静かなせせらぎの音が響く中、
フレヤが嘔吐する音が混じった。
荒い息を吐いて、フレヤは静かな川面を見つめた。
騎士たちの、アルハフ族の、国民の命を背負う重圧が
重くのしかかってきていて、息が詰まるかと思った。
道中、吐き気をずっとこらえていたのだ。
嘔吐したにもかかわらず、首を絞めつけるような
吐き気は消えない。
生理的ににじむ涙を荒くこぶしでぬぐうと、
吐しゃ物に土をかけて見えなくした。
立ち上がって浅瀬に近づき、冷たい川の水で顔を洗う。
ふとフレヤは川の向こう岸に
誰かが立っていることに気付いた。
ひゅっと自分ののどが空気を吸って鋭く鳴った。
ステファンだった。
黒い外套に身を包んでいる、ステファンの姿が
月明かりに照らされていた。
胸のむかつきがすっと冷え込んだ。
二人はしばらく何も話さずにお互いの姿を見つめていた。
ステファンの周りには人の気配はない。
どうやらフレヤと同じく一人のようだ。
まずい。
ステファンにフレヤの歌の力は効かない。
ましてや、ステファン自身の力は未知数。
それ以前に男性であるステファンに力でかなうわけがない。
ステファンしかいないのが不幸中の幸いだ。
「貴女は女王となったのですね」
警戒心をあらわにステファンを見つめていると
唐突に静かな声がかかった。
ステファンとの間に距離があるため、
彼がどんな表情をしているのかは見えない。
「王とは、孤独だとは思いませんか」
唐突な言葉にフレヤは眉をひそめた。
昔のような優しい声でも、
あの夜の時の様に毒を含んだ甘い声でもなかった。
感情の抜け落ちたような無機質な声音だった。
その違和感に目を細める。
「民は王に完璧を求める。
己が保身のために」
「いいえ、違うわ。
私が彼らを守りたいから完璧でありたいの」
戸惑いながらもフレヤはそう答えた。
ステファンが何を求めているのかはわからないが
彼に屈するわけにはいかない。
強く、凛としていなければならない。
そうしなければ、頭から喰われてしまうような恐ろしさがあった。
「惨めな姿を他にさらすまいとしている貴女の姿は
誰よりも気高く、そして、醜く愚かだ」
「かまわない。
私がすべて背負うから」
ステファンのから殺気は感じられない。
彼は何がしたいのだろう。
フレヤを攫いに来たのなら、とっくに行動に移しているはず。
夜風が二人の間を強く吹き抜ける。
フレヤは髪をかき上げながら、目を細めて風をやり過ごした。
「貴女は変わった。
変わったしまった」
「私は、変わっていないわ」
「私たちは似ている。
貴女が変わったことで
貴女の魂は私により近くなった」
ステファンの言っている意味が分からない。
彼の目的もわからない。
フレヤはステファンの隙を伺った。
しかし、自然体で立っているように見えて、やはり隙がない。
「やはり、私のものにはならない?」
「ええ、決して」
「今なら、貴女の国の民を殺さないで
奴隷にするだけで済ませてあげるというのに。
貴女の騎士団ごときでは
敗北することは貴女もよくご存じかと思っていたのだが」
「……」
わかっていた。
そんなことは誰よりもわかっていた。
血がにじむほど強く唇をかみしめる。
口の中に鉄の味が広がった。
だけど、これしか方法がなかった。
他に、なにも方法がなかった。
何もせずに散っていくよりも、
戦って、立ち向かって、砕け散るほうがいい。
だけど、それは騎士たちを、アルハフ族たちを
この手で殺すようなものだ。
その罪の重さに耐えかねて嘔吐したことを、
ステファンは見抜いている。
ばしゃりと水音がしてはっとした。
ステファンが少しずつこちらに近づいてくる。
恐怖心が一気に膨れ上がった。
「こ、ないで」
護身用のナイフは置いてきてしまった。
フレヤは後ずさって逃げようとしたが、
それよりもステファンがこちらにたどり着くのが早かった。
頬に手を当てられる。
ひやりとした冷たい手。
まるで首にナイフを突きつけられているような感覚だ。
「はやく貴女が絶望し、その魂を闇に堕とす姿が見たい」
睦言の様に甘くささやかれる冷たい言葉。
恐怖に目を見開いた自分の姿が、
ステファンの目に反射して映っているのが見えた。
美しいアイスブルーの瞳はダークエルフの血族の証。
太陽神の姿をした悪魔のような男。
すっと手が離れて髪をすいていくのを震えながら見つめた。
「貴女がその気高い魂を闇に堕とした姿は
地獄の女神のごとき美しさだろう。
その時はこの髪に、血のように赤い薔薇と、
闇よりも暗い黒の薔薇を飾りたい」
さらり、とかすかな音を立てて
髪が肩を滑り落ちていくのを感じた。
ゆっくりとステファンの手が離れていく。
「私は、どんな目に遭おうとも
あなたにだけは屈しない」
はおw食いしばるようにして、地を這うような低い声で言うと、
ステファンは虚を突かれたようにわずかに目を見開いた。
次の瞬間にはくすくすと笑いだした。
フレヤが大好きだった笑顔で。
まるでたちの悪い悪夢のようだ。
いっそ今までのことがすべて夢だったらと
何度願ったことだろう。
だけど、これは冷たく、硬い現実。
まぎれもない、運命だ。
「それでこそ貴女だ、フレヤ様。
とげのある薔薇ほど手折り甲斐があるというもの。
その気高い魂を黒く染めて、私だけのものにしたい」
ごくごく自然な仕草でフレヤの手を取ると、
ステファンはそこに氷のような口づけを落とした。
その姿は、舞踏会でフレヤにダンスを申し込んだ時のものと
何一つ変わらなかった。
アイスブルーの目は凍えんばかりの熱が踊っていて
見るだけで動けなくなってしまう。
彼はふわりと立ち上がると、何事もなかったかのように
向こう岸に歩き出した。
一度も振り返らない背中は、
夜の闇に紛れてすぐに見えなくなってしまう。
その場には川岸にへたり込むフレヤだけが取り残された。




