瑪瑙
翌日の朝、コペンハヴン国の国民すべてに避難勧告が出された。
オスロ国から最も遠い北西の地域に、
避難民を迎え入れるための簡易滞在所として
王宮の別荘を開くことになった。
あそこは夏になると涼しく穏やかな気候で
フレヤが幼いころはよく訪れたものだった。
まさか、思い出の別荘がこんな形で役に立つとは思わなかったが
非常に大きな別荘地帯なので、
ある程度の国民は迎え入れられるはずだ。
幸い、今は秋なのでそこまで気候も厳しくない。
もしもの際には、北国に逃げ延びることもできる。
騎士団の一小隊を避難誘導と護衛を兼ねて
既に派遣している。
食料や物資は、王宮の貯蓄庫にあるものの半分以上を持たせた。
これも昨日の軍議で決めたことだった。
これで、少なくとも一月は持たせられるはずだ。
「陛下」
騎士団の軍事演習をバルコニーから眺めていると
背後から突然声をかけられた。
カインだった。
騎士服に身を包んでいる彼は、
きびきびとした動作でこちらに近づいてくる。
「こちらにおられたのですね」
「軍事演習を見ていたの」
そう言うと、フレヤは再び視線を前に戻した。
カインの顔を見られない。
どうしても二日前の夜を思い出してしまう。
あんなに感情を必死に押し殺しているカインを見たのが初めてで
どう対応したらいいのかわからないまま今日になってしまった。
カインは第一部隊隊長だ。
それほど重要な役職を持っている彼が
軍事演習を抜け出すほどの用事があるのだろう。
「部隊長が軍事演習を抜け出すなんていいのかしら」
「あの男が四六時中陛下に張り付いているので、
軍事演習中の今しかないと思い、馳せ参じました」
あの男とはチノのことのようだ。
カインはチノのことを嫌っている。
こちらとしては仲良くしてほしいのだが、
そうもいかないらしい。
「それで?」
「今からでも遅くありません。
アルハフ族を兵力として加入することをおやめくださいませ」
「でも、もう軍議では通ったわ」
二度目の申し出。
それだけ、カインが必死であるということだ。
昨日の軍議で何も言えなかったのは
上司であるハイヴが隣にいたからだ。
「それは表向きのことにすぎません。
騎士団のほとんどの者は、アルハフ族のことを
よく思ってはおりません。
あの類まれなる身体能力は得難いものです。
ですが、同時に騎士たちの誇りを傷つけております。
我々のことは、役立たずだと陛下がお考えなのかと
不満を募らせている者も少なくありません」
「そんな」
「事実、騎士団の風紀は乱れつつあります」
フレヤの視線の先にある軍事演習。
滞りなく進んでいるように見えるが
よく見れば、騎士団もアルハフ族も表情は
荒々しいものだ。
それは、軍事演習で気が高ぶっているからではないのは
ここからでもわかった。
昨日ぬぐい切れなかった不安が
今こうして形を成している。
「カインの言いたいことと気持ちはわかったわ。
でも、もう少し様子を見ましょう」
「フレヤ様。
これは時間が解決してくれる問題などではありません」
ひと際風が強く吹いた。
風の中に冷たさを感じた。
秋が深まっている証拠だ。
「違うわ、カイン。
時間は解決してくれない。
だけど、これは彼らが自分自身で解決する問題なのよ」
数日かけて、少しずつではあるが、春の氷がとけるように
騎士団のアルハフ族に対する態度が
柔らかくなっていくのがわかった。
騎士団では、新入りの者は雑務をするのが基本だ。
それをなかば嫌がらせのごとく大量に押し付けても
文句ひとつ言わずに寡黙に働き続ける姿に
少し心を動かしたらしい。
やがてアルハフ族も雑務だけでなく
軍事演習にも参加できるようになった。
彼らの実力は折り紙付きだ。
力を重んじる風潮の騎士団で
アルハフ族は少しずつその存在を認められるようになった。
「ねぇ、カイン?
大丈夫。
あなたが心配することは何もないわ」
数日後の軍事演習をバルコニーから眺めながら
背後にいるカインに声をかける。
「……さようですね。
私の考えすぎだったようです。
お許しください、陛下」
振り返ればカインは穏やかな笑みを浮かべている。
春の日差しのような穏やかな笑み。
きっと気のせいだ。
カインの声が、激情を平たく抑えた
無機質な調子に聞こえただなんて。
「カイン?」
顔を覗き込むようにして一歩近づくと、
彼ははっとしたように一歩下がった。
取り繕ったように優しい笑みをまた唇に浮かべている。
「失礼いたしました陛下。
少し……今後の戦略や陣形について考えておりました」
その言葉に少しほっとする。
カインもアルハフ族を受け入れて、
彼らも入れた騎士団の陣形まで考えるようになったのだ。
もう、きっと大丈夫だ。
「カイン、陛下って呼ぶのをやめてはくれないの?」
また一歩近づくと、さりげなく一歩後退される。
まるで一定の距離を置かれているような、いや
距離を置かれている。
必要以上に近づかないように一定の距離を保たれている。
「陛下は、この戦争が終われば、すぐに即位式を行います。
現在、女王となりうる方は、あなた様以外におりません」
「そう言う意味じゃない。
カインだから言っておくけど、
やっぱり私は女王になる気はないわ。
あと、カインにはいつもみたいに名前で呼んでほしい」
カインのグレーの瞳にぞっとするほど昏い色がよぎった。
驚いてまばたきを繰り返したら、
それは瞬く間に消えてしまった。
こちらを見下ろすように立つ長身のカインは
その場でスッと膝をついた。
「……陛下は、陛下にございます。
それ以外の呼称でお呼びするなど、不敬に値します」
プラチナブロンドの頭を垂れて彼はそういった。
今のは、気のせいだったのだろうか。
気のせいだ。
カインが、あんな憎悪のような焦げ付くような感情を
こちらに向けるはずがない。
「私、騎士団の軍事演習を近くで見学しようと思うの」
フレヤはわざと話題を変えた。
その場の妙な雰囲気になんだかいたたまれなくなったからだ。
何事もなかったかのようにカインが立ち上がり、微笑む。
「それは、騎士団の者には、大きな励みとなります。
私がご案内いたしましょう」
騎士らしいきびきびとした、だけど恭しい仕草で
浅く礼をすると、カインはゆっくりと歩き出した。
フレヤは、胸に生まれた違和感には
今は気づかなかった振りをすることにした。
しかし、何もかもが上手くいくわけではなかった。
メノウの存在だった。
メノウは革命軍のもと長だ。
騎士団は一時的にとはいえ、彼女の支配下におかれた。
彼ら全員がフレヤのことを信じていたわけではない。
それゆえ仕方のないことだったといえばそうなのだが、
騎士団の者達は忠義に篤い。
それゆえ、一度でも守るべき存在にたてついたことを
深く悔いている者も少ないようだった。
それと比例するように、メノウに向けられる感情は
決して温かいものではなかった。
メノウは呪術師の孫娘として
アルハフ族の戦士には加わっていないが
この王宮に滞在している。
フレヤの見えないところで嫌なことを
騎士に言われている可能性高かった。
それを少しも表に出さないメノウは
ただひたすら凛としていた。
フレヤはそれを見て良心がちくちくと痛むのを感じた。
自分が受けた痛みを、民が受けた痛みを
同じだけ感じてほしいと思った。
どれほど苦しかったのか、どれだけ惨めだったのか
知ってほしかった。
だけど、何も変わらない気がしている。
自分はただの報復をしている。
コンコンと部屋の扉が叩かれた。
「陛下、メノウ様がお見えになられました」
はっとした。
まさかメノウのことを考えているときに
本人が訪ねてくるとは思わなかったのだ。
「入れてちょうだい」
すぐに扉が開かれ、メノウの姿が見えた。
色鮮やかなアルハフ族の民族衣装が目にもまぶしい。
彼女はさっそうと部屋に入ってきた。
実に堂々とした対振る舞いはカリスマ性を感じさせた。
だから、革命軍も彼女についていきたくなったのかもしれない。
「人払いをしていただけますか」
部屋にたくさんいるメイドを横目で見ながら
メノウはそう言った。
チノは軍事演習に参加しているため、ここにはいない。
代わりに背後にいるのはカインだ。
「下がってくれるかしら」
そう言うとメイド達はさっと部屋から出ていく。
しかし、カインは動こうとはしなかった。
「フレヤ様」
久しぶりのその呼び方に少しだけ肩の力が抜けた。
たとえその声音が硬く、たしなめるような響きを帯びていてもだ。
メノウのことを警戒しろ、と言いたいのだろう。
「あなたは、もしかして自分の主のことを守ろうとして
残っているのですか?
だとすればとんでもなく愚かで無意味です。
私はあなたの主と同じ、声に力をもつ者です。
あなた程度など、まるで相手にならない」
目を細めてメノウがカインに向かって言う。
そのあまりにも歯に衣着せぬ言い方に
カインの剣が小さく音を立てた。
「カイン」
静かに名を呼んで、抑えろ、と言外に命じる。
逡巡するような気配があったが、殺気は消えた。
「彼女が私の命を狙っているのなら、
部屋の扉が開いた時点で、声を使って
あなたの意識を操っているわ。
何もしないで部屋に入ってきたのよ。
彼女にそんな気はない」
しかし、カインにも聞かせたくないほどの話なのだろうか。
「メノウも、カインにも聞かせられないような話なの?
彼は騎士団第一部隊隊長よ。
信頼に値する人間だと思うわ」
メノウは何も言わないで、じっとカインのことを見ている。
やがてその緑の目はそらされた。
「そのうち騎士団にも伝わることでしょうから構いません」
「それで?
話したいこととは?」
「騎士団なんて、ダークエルフ相手に
無駄死にするだけだと伝えに来ました」
正面からの騎士団への侮辱にカインの気配が
また荒々しいものに変わった。
フレヤの前だからかろうじて剣を抜かずに済んでいるのだろう。
だが、メノウは腹いせにこのようなことを
言う娘ではない。
「だから、そこの騎士にも外してほしかったのです」
顔をしかめて言うメノウに、ますますカインの気配が
刺々しいものに代わっていく。
それをなだめてから、フレヤはメノウのほうを見た。
彼女の緑の目は凪いでいた。
深い森の色。
その瞳の奥は獣のどう猛さと深い知性が見え隠れしている。
「なにか策があるの?」
「私の声と貴女の歌を使えば、兵を強化できる」
「馬鹿なことを!!
陛下に戦場の最前線まで来ていただくというのか!?」
「でなければ、我が一族もろとも全滅すると言っているのです」
フレヤははっとした。
メノウはコペンハヴン国のことを案じているというより
一族のためにここに来たのだ。
このままだとステファンに負け、
アルハフ族もただではすまないと気づき、
いち早く行動に移したのだ。
彼女は、自分のプライドと一族を秤にかけ
一族の安全を取ったということだ。
「……正直、この国の者達への憎しみは消えておりません。
非常に不本意ですが、
こうするほか我が一族の全滅を防ぐ手立てがないのが現状です。
いくら我が一族が戦闘に秀でた一族で、その中でも
選りすぐりの戦士を参戦させているとはいえ、
ダークエルフ相手に我らだけで勝てるとは思いません。
四人がかりで不意打ちだったとはいえ、
私が手も足も出なかった存在です」
「……っ、ダークエルフと交戦したの?」
ダークエルフは空想上の存在だと考えていた。
あの夜初めて見たから、少しでも情報は知っておきたい。
しかし、メノウは目を伏せた。
「反撃する間もなく、一瞬で昏倒させられたので
ほとんどなにもわかりません。
それだけ体術にも秀でた一族であるということです」
悔し気に言うメノウに、唇をかみしめて考える。
アルハフ族の血族の者でも苦戦する相手なら
たしかに、騎士団では歯が立たないだろう。
同じことをカインも考えたのか、とくに反論の言葉はない。
「今もまだ軍事演習を行っている時間。
今なら、私の声とあなたの声の効果を試せます」
強い決意を秘めた瞳に、フレヤは頷いた。
自分の歌が力となるのなら、
声が嗄れ果てるまで歌うつもりだ。




