焚火
しばらくするとじゃりっとした感触を足裏に感じた。
浅瀬になってきた。
腕にいるチノを引きずるようにして砂浜まで連れていく。
やっとのことで波の来ないところまで引きずると、そっと砂浜に
チノの体を横たえた。
体がだるく、ひどく重い。
この倦怠感は何からくるものなのだろう。
チノの唇は完全に血の気をなくしていた。
体が冷たくなる。
焦りが胸を突く。
どうすればいいのだろう。
チノの体を温めなければならない。
水を飲んだかもしれないから吐かせないと。
でも、どうやって?
火を起こしたことなどない。
水の吐かせ方など知らない。
自分の無知をいやというほど思い知る。
いや、まずは、考える前に動かないと。
そう思い、フレヤはとりあえずチノの服を少しはだけさせることにした。
ボタンが窮屈そうだったからだ。
だが、徐々にその手はのろのろとしたものになっていった。
ボタンを解く手が震える。
こんな時だというのに、
しっかりとした筋肉に覆われた胸板だとか腹筋だとかに目がいく。
ひどくうろたえてしまう。
強くチノが男なのだと意識してしまう。
ぼぼぼぼぼぼっと音がしそうなほどフレヤは赤くなった。
顔が熱い。
こんな、こんな感情は知らない。
怖気づく自分を叱咤して、次はそろそろと掌をチノの胸にはわせた。
水は鼻から飲んだ場合、呼吸器官に入っているかもしれないから
肺を押せばいいのだと思う。
だが、肺がどこにあるのかはわからない。
手あたり次第に胸を押したが、固い筋肉に覆われていて
あまり手ごたえがない気がした。
掌がじんじんする。
体が熱かった。
海風が髪を揺らす。
肌寒さを感じて、フレヤはくしゃみをした。
するとそれに誘発されたかのように、チノがせき込みだした。
あわてて、彼の体のあちこちをさすって
水を吐き出しやすいようにする。
「ふ、れや……?」
かすれた声だった。
緑色の瞳が何度か瞬きを繰り返しこちらを見た。
「……ここは?」
「わからない。
私が泳いで連れてきたところ」
フレヤは安堵のため息をはいた。
次の瞬間もう一度くしゃみをしてしまった。
チノはずぶぬれのフレヤを見ると、しばしためらった後に
自分のシャツを脱ぎ、フレヤの体に着せた。
「ち、チノ!!」
「濡れていて、気持ち悪いと思うが我慢しろ」
いや、違う。
そうじゃない。
チノが上半身裸なのが問題なのだ。
風邪をひいてしまうし、目のやり場に困るのだ。
「あ、あの!!
チノが風邪をひいてしま……」
「おまえの、その、恰好が、あれだから」
めずらしくチノがしどろもどろになっている。
彼は視線を横に向けて決してこちらを見なかった。
いぶかしく思って自分の姿を見ると、乗馬服は濡れていて
肌にはりつき、体のラインと肌の色がくっきりとわかるほどになっていた。
フレヤは無表情だった。
一切表情を変えなかった。
しかし、彼女と付き合いが少し長い者であったら、
彼女が恥ずかしさのあまり死んでしまいそうであることに気付けただろう。
チノは特に様子が変わらないようだった。
さっと立ち上がると、何事もなかったかのように周囲を見渡している。
その横顔が恨めしく思えるほど、彼は冷静そのものだった。
自分だけが動揺しているみたいで悔しくなる。
「……あそこに行こう」
チノが視線で示した先には、
岩壁にできた小さな洞窟のようなくぼみがあった。
フレヤはおとなしくチノに従った。
こちらをまったく振り返らないチノが少し恨めしく思える。
広い背中を追いかけて進む。
チノはフレヤにくぼみで少し待っているように言うと
どこかにいってしまった。
大人の余裕だ。
なんか自分がひどく幼くなってしまったような気がして落ち着かない。
静かだ。
波の音しか聞こえない。
少し前の喧噪が嘘のようだ。
「お父様……」
遅かれ早かれ彼は、死んでしまっていただろう。
だが、もう少し、もう少しだけ話をしてみたかった。
フレヤは目を伏せた。
願わくば、彼が安らかに眠れるように。
ちゃりっと手首のあたりで金属音がした。
目を向けってはっとする。
母の形見のネックレスが鈍い金色に輝いていた。
息をのみながらそっとまき貝を模した部分に触れる。
父に愛された母は何を思ったのだろうか。
メノウの話が真実ならば、彼女は愛する人と無理やり引き離されて
一生を終えたのだ。
幸せ、だったのだろうか。
もう顔もよく覚えていない。
それがひどく悲しいことのように思えて、
フレヤは眉をひそめた。
その時、不意に指先に違和感が走った。
注意深く手元を見ると、手元のペンダントに不自然な突起があった。
よく見ると、うっすらと金色の巻貝には亀裂が走っていた。
もしかすると、このネックレスの巻貝は開くのかもしれない。
「悪い、遅くなった」
手元に影が落ちて、視線を上にあげると
腕いっぱいに木の枝を抱えたチノがいた。
慌てて立ち上がろうとしたが、チノに視線で制されてしまう。
手早く枝を地面におろして、一か所に集めると、
彼は、腰のあたりから何かを取り出した。
「それはなに?」
「火を起こす石だ」
そう言うなり、彼は石と石を強く打ち付けた。
薄暗い中パチッと赤い光が数度走った。
フレヤは瞬きを数度繰り返した。
瞬く間に、木の枝に火がともり、勢いよく燃え出したからだ。
「どうして遠くまで木の枝を取りに行ったの?」
「海辺の木だと湿気が多くて燃えにくい」
「チノは……たくさん物事について知識があるのね」
「アルハフ族ならば、これぐらい子供でもできる」
ぶっきらぼうな口調は照れているのかもしれない。
こっちをなかなか見ないのも照れているのだろうか。
「それよりも、はやくここで温まったほうがいい。
体がますます冷えるぞ」
自分なんか上半身裸で絶対寒いはずなのに、
先にフレヤのことを考える。
優しい人。
そろそろ手放す時だ。
元いたところに返す時だ。
「火のおこし方を教えてくれないかしら。
そのほかの、生活に必要なことすべて」
チノが少し驚いたようにこちらを見た。
フレヤはふわりと焚火の近くに腰を下ろした。
「おまえは……本当に何でも知りたがるな。
こんなことを知ってどうする」
「これからは、一人で生きていかなければならないもの」
何でもない風を装って、一息に言い切ると、
肩からチノのシャツを外した。
手が震えないように気を付けて、チノに手渡す。
「はい、これ、ありが……」
「どういうことだ」
硬い声に手が止まる。
チノの瞳に剣呑な光が宿っていた。




