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村の物を売りに出稼ぎに来た母親のところに戻る途中も、納得できない男の子は、唇を尖らせ、ぶつぶつ呟きながら歩きます。
「うーん、なんでだめなんだろう。まおうなんてこわくないのに。それなら」
「そこの人の子、今なんと言った? もう一度言え」
「え?」
そんな男の子に、通りすがりざまに声をかけたのは、黒い落ちくぼんだ目に、色の白い不健康そうな肌の、人を近寄らせない不気味な雰囲気が漂う男でした。
「もう一度言えと言った。魔王は恐ろしくない、だと?」
何を隠そう、この男こそが世を騒がせている魔王だったのです。
魔王ともあろう存在が、小さな人間の子供にすら恐れられていない。
この事実は魔王の自尊心を傷つけこそしませんでしたが、怒りを買うには十分でした。静かな、されど威圧に満ちた声を聞き、睥睨されれば、大人であればすくみ上ったでしょう。
しかし、まだ強者のすごみすら分からない無邪気な男の子は怖がらずに頷きます。
「うん。さっきおにいさんにはなしをきいておもったんだ。それよりもね、おかあさんがいってたんだよ。さいきんは、まものよりひとのほうがこわいって」
「魔物は怖くないのか?」
「うーん。こわいけど、でも、いっぱいでるわけじゃないもん。むらからここまでくるまでも、こわいひとたちにおそわれないかがしんぱいっていってたんだ。なんだっけ……ぶ、ぶ、ぶっそう? ぶっそうになってるって」
男の子の言葉に魔王は目を眇めました。男の子の言った「人の世が物騒」である理由に心当たりがあったからです。
社会が物騒になった理由。
それは、まさに先ほど話に出ていた、「勇者募集」が行われたからでした。
魔王退治をする勇者を異世界から召喚するのではなく、この世で候補を募集する。
そこまではよかったのですが、それでは正義感に溢れた人とよほど生活に困った人だけしか集まらなかった……つまり、あまりふるわなかったのです。それもそのはずですね、みんな命は惜しいですし、魔王に殺されてはただの犬死になるのですから。
そこで、人間の国王は魔王の討伐に報奨金を与えるというだけでなく、この「勇者募集」に賭博要素を加えたのです。どういうことかと言うと、勇者選抜という神聖であるはずの儀式を、まるで観劇のように一般の観衆に開放し、加えて、「勇者」候補たちはその勝敗――すなわち力と体、そして悪くすれば命にお金を賭けられることとなった、ということです。
これによって、より多くの「勇者候補たち」が集まりました。なにせ、勇者候補が勇者になるだけで多額のお金を得られるようになったのですから。
そして大きな娯楽が与えられることになった大衆は、たくさんのお金をそこに浪費し、人外の生き物への怯えや現実の辛さから逃避し、刹那的な享楽にふけりました。
「勇者」を募集し、塀の中で競わせ、金をからめて人を熱狂させ、殺し合わせる。
本来の目的である「勇者」の意味が忘れ去られ、建前と化し、まるで蠱毒が――いえ、人蠱とでもいうべきでしょうか――生成されるにつれ、大衆、そして社会は、浅ましく汚れていきました。金に醜く歪んだ人間たちは、退廃的な空気を漂わせるようになったのです。
そして魔物とは、人の負の感情を好むもの。その例にもれなかった魔王は、ついつい惹かれてこのような場所まで出てきておりました。魔物の干渉を受けずとも人の世がすさみ、心が荒れていくその光景は魔王には酷く滑稽でした。
だからこそ、ほくそ笑みながら上機嫌で歩いていたところに浴びせられた、脆弱な子供の一言は聞き流せなかったのです。
それはまるで、愛しい相手との記念すべき日に食べる極上の料理の中に髪の毛が入っていた時の不快感と同じだったのですから。
「ふん。それもこれも実は魔王のせいだと言ったら、人の子よ。お前は怯えるのか?」
「えぇ!? これもまおうのせいなの? じゃあまおうがたおされたらおさまるんだね」
「魔王を倒すなどと。簡単に言ってくれるものだな」
「だってきっとかんたんだもの」
あんなにたくさんの人が「魔王を倒せる」と思って集まっていたなら、自分だって平気なはずだ、そう男の子は思ったのでした。
男の子の言葉に、魔王は今度こそ怒りを隠さずに覇者のオーラで男の子を睨みつけました。
「よくもぬけぬけとそのような戯言を……! 余が魔王だと言うても同じ口が利けるか!」
さぁ、怯えるがいい!
目を爛々と輝かせて魔王は男の子を見下ろしました。
しかし、男の子はわずかに首を傾げるだけでした。
「おじさん、ほんとにまおう? なんでじぶんがまおうだってわかったの?」
「……何だと?」
「まおうって、まもののなかでいちばんつよくてえらいんだよね? じゃあなんでつよいってわかったの?」
「そんなもの……!」
「まもののなかでたたかいあったの? おじさんはこのよのすべてのまものにかったの? ぜんぶたおしたの?」
「いや……」
「じゃあどうしてわかったの? もしかしたらおじさんよりつよいまものがいるかもしれないでしょ?」
「そんなはずは」
ない。と言いかけた言葉は、されど最後まで言えませんでした。
確かに魔王は全ての魔物と戦ったわけではなかったからです。
おそらく魔王は強いのでしょう。周りを怯えさせるオーラも、力も持っています。けれど、本当に魔物の誰一人として魔王たる自分に勝てないのか、全力を尽くした相手をやすやすと地につかせこの世から消すことができるのか。
絶対とは言い切れませんでした。
一番の強者は自分だと思いこんでいた魔王の自信が、こんなにも小さい平凡な人の子の素朴な疑問で揺らぎます。
「余を倒しうるのは勇者だけ、そしてその勇者もあの様子だと到底余には敵うまい。もうこの世は余の天下なのだ」
そう豪語し憚らなかった魔王ですが、所詮「自称」なのです。もしかしたら、自分が知らないだけでこの世界のどこかに、他の「自称魔王」がいるかもしれません。
王が二人だと?そんなことは許さん。
激しい怒りが沸き上がり、ぐつぐつと煮え立つ魔王の内心を知らないまま、男の子はのほほんと呑気に続けました。
「おじさんがほんとうにまおうだったら、ぼく、きっとすごくおじさんのことがこわいとおもう。だって、おかあさんがこわいとおもってる『ぶっそうなひと』もまおうのせいなんだもん、いちばんこわいよ。でも、おじさんがまおうじゃないかもしれないなら、ぼく、こわくないな」
魔王の魔王たる所以はその強さ、そして恐ろしさ。
人に恐怖を与え、人の世を阿鼻叫喚の苦しみに陥れることが魔王たる彼の役目だったはずなのです。
しかし、魔王であるはずの自分はこんなに小さくて貧相で平凡な子供にすら畏怖の念を抱かせられない。
このままでは魔王は魔王としての根幹を失ってしまうでしょう。
「……よかろう。我が魔王であることを知らしめてやる」
魔王は気づいた事実の恐ろしさに内心真っ青になりながら、男の子に言い捨てると、姿を消しました。
男の子はと言えば、変な人に話しかけられたなぁ。と思いながら、母親の待つ場所まで少し速足で歩き続けました。
男の子は知らないことですが、その後、魔物はなぜか急激に数を減らし、人里を襲うことがなくなりました。魔王と言われる存在は何度も出てきましたが、なぜか一人でに消滅を繰り返しました。
そして、魔物が減り、平和な世界が戻った人間たちは、少しずつ今の自分の生活を見直すようになり、今の「勇者募集」の仕組みの是非を唱える人物も出て来るようになりました。
「魔王がいなくなれば、魔王を倒す勇者もいらない」
その声が高まり、とうとう、勇者募集も終わりを迎えました。
そうして、人の世は平穏を取り戻したのです。
そう。誰も知らない、平凡でちっぽけな、名もない「勇者」のおかげで。
めでたしめでたし。
お読みいただきありがとうございました。