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第弐話 薙綯

 そこは、どうってことない、印象の薄そうな田舎町である。田舎町、といっても千早赤阪村のような名の通りの、村、という誰もが考えそうな風景ではなく何とも言い表しのしにくい___小説描写では不向きの___町並み。僕がいつも考える町並みの田舎度を表す言葉群、田舎・準田舎・準都会・都会・都心、で今霧を言い表そうとすると、準田舎になると思う。そこまで新しそうではなくそして古くなく、意外と不便ではないけれど便利ではないみたいな、微妙な町だと第一印象はそうだった。

「そりゃあ、憶えてないのも当然だよな。」

 僕は、聴こえないように呟いた。さっき言った通り、僕は思い出すことが出来なかった。

 僕の駅のイメージでは、駅の近くには大通りがあって、車がよく通るようなそんなのがあった。然し、車の一つも通らないような道ってあるんだなと今霧駅の前を通る道を見るとつくづく思う。見た目の印象は先述の通り準田舎だけれど、その町の中身は、通る人の種類、数からいくと、田舎、と表記しても良いかもしれない。

 という、とんでもなく、そして怖ろしく意味のないことを考えながら僕は灸原の先行のもと、今霧の町(町ではなく村と言う方が良いのだろうか)を歩いていた。

「君は今、どんなことを考えているのかい。」

 灸原は僕の心の声を見え透いているように言った。いつも、この勘の鋭さには驚かされる、されっぱなしだ。

「いんや、別にそこまでの事は考えていないよ。」

 軽く嘘をついて返事をした。

「そう、ならいいのだけれど、いやな、なんか、今霧について怖ろしく嫌な事を考えていたのではないだろうかと心配をしたんだよ。」

 御見事、細部は異なってはいようとも、言いたいことは合っている。

「御見事じゃねーよ!」

「……、?君は何を一人で突っ込みをしてるのかい?」

「してない。」

 しらばっくれることにした。

「それはそうとだよ、君。今から俺らが行こうとしているところはどこだか憶えているかい?」

「ん?……、よく遊んでいたところ、だったっけな?」

「正確に言うと昔よく遊んでいた場所なのだが、君は記憶力というのは皆無なのかい?と、今は言及しないでおこう。」

「その言葉がもう言及していることのなるのだが?!」

 言っちゃったら駄目だろう。そういうのは心の内で、*。

「とまあ、昔よく遊んでいた場所、なんだけれど。」

 灸原は言う。

「そこは薙綯(なぎない) 恋奈(こうな)の家だよ。」


 薙綯恋奈、どう考えても女のような名前のように思えるが、まあ、女で間違いが無いだろう。僕には小二の頃モテキというものがあったのだろうか。モテキ(嗤)。

「恋奈は、俺らと友達だったんだ。」

「友達だったのは僕と灸原だけじゃなかったんだ。」

「俺ら二人入れて、六人くらい?」

 僕と灸原と薙綯と他に三人。

 僕、友達今よりいたんだ。ああ、悼んだなあ。

「他の三人の事は思い出してから、若しくは、会ってから言うとして、まず今行こうとしている薙綯恋奈のことを少しだけ紹介しておくよ。」

「おう。」

「薙綯恋奈、女子、多分十四歳、多分今もこの町に住んでいる。そして多分、俺らのことも憶えているだろう。」

「多分が多いなあ!!」

 そんな曖昧なプロフィールがあるか?!あっモデルのならあるか。例えば、BWHね。

「だから、今から行くのも、本当にそこにいるか分からないのだよ。君の運次第だね。」

 無駄足になること必死。


 飽きるというのは非常に怖いことで、全てに飽きたら飽きることに飽き、飽き足らず生きることに飽きることになるのだろう。そういう僕はあまり飽きるということはあまりしたことがない。かく言う僕(僕ではなく僕のこと)はこの弐話に飽きてきた気がする。


 無駄足にならなかったことは唯一の救いである。というのも僕らの言った先にはちゃんと家があって、表札にも薙綯という文字が彫られていたからだ。

「君、あったな。」

「きまったな?」

 灸原は唸った。

「……、確かに、君あったなを


kimiattana

kimattana

きまったな、


で変換は出来るけれどもさ、聞き間違いにしては強引過ぎやしないかい。」

「ん、ごめん。というか。」

 僕は薙綯の家を見てもインターフォンを見ても表札や玄関を見ても何も思い出す事が出来ない、症的に。

「本当に僕は、ここでよく遊んでいたものなのかい?」

「ああ、……、若しかして君、未だ全く思い出す事が出来ないのか?」

「ええ、まあ。」

「御丁寧にどうも。」

 灸原は、頭を掻く。

「こりゃ、重症だなあ。ここまで君が忘れ去られているだなんて。本当に君は傑なのかい?」

「……、傑だけれど。今日、母さんに訊いてみたけれど、灸原のことは知っていたみたいだぜ。」

「そうか、ということはどうでもいい。インターフォンを押そう。」

 灸原は薙綯の家のインターフォンを押す。

 薙綯、どういう奴なんだろうか。

 

 然し、返事は無かった。

 返事は無かった、より留守だったというほうが良いのか、住んでいないといった方が良いのか。ここまで来たのだから、留守だった方がいいのだが。

「いないな。」

 インターフォンを押してちょっとしての僕の発した言葉だった。

「なんでだろうか、……。表札はあるんだけれど・・・。」

 僕の頭にあるひとつの可能性が浮かび上がる。

「若しかしたら、出掛けてるんじゃないか?」

「ああ、そうだな。」

 灸原も納得したようだ。

「じゃあ、ちょっとこの辺でも散歩しておこうか。」




 太陽が丁度真南に来た午後十二時二十四分。雲はいくつかあるが理科の天気では晴れになるようなそんな天気だった。今は八月十三日だからとても暑い。然し、我慢できないほどではない。都市部でのヒートアイランド現象のようなそんな異常な気温ではない。加えて、ヒートアイランド現象がまだ指摘されていない数年前の都市部の気温とも違う。今霧は田舎だから、気温がそこまで高くなく涼しい。まあ田舎だからといって肯定するわけではないのだが。この涼しさはいいなと僕は思う。ああ、住みたいな。けれど昔僕は住んでいたけれど。

「涼しいだろう、まあそうだろうよ。なぜならここら辺には墓地があるんだからな。今霧墓地。」

 前言撤回!

「昔はよくそこで肝試しをしたものだよ。肝試しといっても、まあ二年生がするようなものだ、昼にしたんだけれどね。」

「昼って、それってただの墓参りにしかならなくないか?」

「まあ、いいんじゃないの。」

 墓地、墓地、墓地。一つも覚えがない。

 僕が墓地をさらに五回言い返したとき、後ろから何か音がした。僕が今歩いているのは、車が一応通れる二車線の車道に隣接されている、歩道だ。今霧に来てから一つも車を見てないという記憶から、車が通るという線は消え、他に何か通るものがあるかと考えた。

 その音はさらに大きくなる。僕はさっき後ろと表記したが、いや然し、真後ろと著したほうがいいのだろう。そしてこの音は、車は車でも。

「ああ、翔じゃないの。久し振り。」

 それは自転車であった。しかもその自転車は、僕らを追い抜くとあっと声を上げて戻ってきた。

「おう、久し振りだな、薙綯。」

 そしてその子は薙綯恋奈だった。

「どうしたの、珍しく今霧に戻ってきちゃってさ。何か忘れ物?」

 すると、灸原は僕の手を引き、薙綯の前に突き出した。

「梢……、連れてきたんだ。」

「……、?傑?」

「ああ、えっと。……、初めまして、僕の名前は梢傑です。」

 話すことが思いつかなかったので自己紹介をした。

「どうしちゃったのよ、傑、改まって自己紹介なんかしちゃってさ。友達なんだから、そんなことしなくていーじゃん。」

「薙綯、梢は、君のことも憶えてないらしいんだ。」

「へ?」

 灸原は、二人で話す時にしか君、と使わないんだな。

 薙綯は、驚いた表情で言った。

「そうなの?傑。」

「はい、まあ。」

 まあ、信じられないだろうな。あんなに仲が良かったのであろう人が自分の事を綺麗さっぱり忘れているなんて。

 然し、その場合、口調をどうしたらいいのだろう。

 敬語?タメ語?

「あの、じゃあまず敬語やめない?」

 指摘されちゃった。

「分かった。」

「うーんと。」

 薙綯は、少し考えて、言う。

「喉渇いてない?うちに来たら?」

 僕らは来た道を引き返すことにした。


 今は僕は、薙綯恋奈の家にいる。僕にしちゃあ知らない人の家だしなにか緊張するものがある。相手は多分緊張してはいないだろう。知り合いなんだし。

「傑、本当に久し振りね、そりゃあ小学校の二年生のときから会ってないんだもん。顔も分からないよ、声変わりもしてるし、でも、声あんまり変わってないね。顔も面影残ってるし。」

「ああ、そうなんだ。僕に関しちゃあ、薙綯のことを全くといっていいほど憶えてないんだよ。ごめんね。」

「そうよね、憶えてないよね。」

 少し、俯く薙綯。言い過ぎたかな。

「でも、あんまり口調って変わってないね。昔っから人を少し小馬鹿にしたようなその言い方。見透かしているような、ね。」

「え、そうだったのか?灸原。」

「ん?あ、ああ。まあ。」

 我知らずお茶を飲んでいる灸原。正座で。

「懐かし。本当に懐かしいね。憶えてないだろうから言うけど後他に、壕と喜納と楳々がいたんだよ。皆に会いたいね。」

「その三人もどっかに引っ越したのか?」

「ううん。まあ、喜納だけ引っ越しちゃったけど。壕と楳々は今霧にいる。そうだよね翔。」

「ん?あ、ああ、でも喜納が引っ越したのは知らなかったけれどな。」

 お構いなしに饅頭にかぶり喰らっていた灸原。引き続き正座で。

「中一の夏に引っ越しって行ったの。翔が知らないのも無理ないわね。」

「?なんで?」

 僕は言った。

「灸原は、最近墓苗中学校に入学してきたんじゃないのかい?」

「言ってなかったっけ、君に。僕は中学生になる時に君の今住んでいる町、墓苗に引っ越してきたんだよ。」

「……。じゃあ灸原は一年の時からいたのか。」

「そういうことになるな。」

 知らなかった。灸原がいることを。僕は知らなかった。

「それはそうと傑。傑がさあ、あの時言った言葉覚えてる?」

 灸原の初めの言葉と同じだ。

「僕はそんなに印象深い言葉を薙綯たちに発したのか。」

「どういうこと?」

「灸原にもその言葉を憶えてるかと訊かれたんだよ。」

「へえ、偶然ね。」

 そして言う。

「でも、言っちゃあいけないんだったよね。思い出すまで言ったら駄目だって言ってたから。」

「ふーん。」

 なんか、歯痒くなってきたな。二人は憶えているのに、僕だけ憶えていないだなんて、僕に何があって記憶がおかしくなったんだろう。

「そういえば引っ越しの時、傑、泣いてたよね。ものすごく。」

「泣いてたっけ?」

「いや知らんけどもさ。」

 憶えていないし。

 憶えてる人らに言われても。

 こいつら憶えてない人に訊くとか、どうかしてんじゃ。

 ていうかおい灸原、爪楊枝でシーシーするんじゃない!しかも正座で!

 いつまで正座してんだ!修行僧かお前は。禅組め禅!

「泣いてたか?高らかな笑顔でお別れ会をした憶えがあるけれど。」

「ん?その後じゃないの?ていうか私、お別れ会に用事があって行けなかったと思うんだけど。」

「そうだっけか?」

「……。」

 記憶が曖昧だな!

 僕が言える事ではないけれど。

「そういえば薙綯、何をしていたんだ?自転車に乗ってどこに行こうと。」

「私?うーん別にいく当てとかなかったんだよね。部活も入ってないから……まあ、ぶらぶらとしてたよ。翔は?向こうで何してんの?」

「俺は、別に。部活もはいってはいないし委員会も入っていない。強いて言うならば、一貫して。」

「傑を捜してたんだね。」

「いや別に。」

「違うんかい!」

 そこは捜せよ。

 あの時言ったことを言った僕のことを!

 少し寂しいじゃないか。このやろう!

「……、?あれ?灸原っていつ墓苗に引っ越してきたんだ?」

「前にも言ったろう。中学一年生のときだ。」

「それって、なんで?」

「父の出張の関係で今霧よりも墓苗のほうが効率が良かったからだ。」

「あっそ。」

 なんだ、灸原が墓苗に来たのは唯の偶然か。

 そう、唯の。 

 そんな偶然あるんだな。信じることが出来ない。もしも必然だとすると可笑しいのだ。この世界は多分偶然の連続であるだろうし、必然だらけだけならば、この世界は決まり決まったことだらけなのだろう。物語みたいに。ん?家庭の医学という本を見て、こんな症例を見たな。『今起きていることが絵空事のように感じる』。ははは。

 然し、困った偶然もあったものだな。

 いや、そこまで困って無くも無いか?

 灸原に出会って、困っているのだろうか。多分   

 いや、大いに困っているだろうよ。うん。

 唯、単に困っている。

 昔のことを蒸し返されて、よく分からないことを言い明かされて、故に僕は何も分からない。憶えていない、想い返せない。記憶というのはこんなにも曖昧で不束なものなのか。全く行き届いていない。脆く淡く薄く細く、然し、そう考えてはいるけれど、どのような記憶だったのか、僕は分からない。そう考えること事態、不束だ。

 僕が憶え返せば良いだけの事なのだろうか。

 そうなのだろう。

「さっきの話に戻すけれど、一貫して、何だ?」

「一貫して、求めていたんだよ。」

「何を。」

 なんだろう。

 何かの核心に衝くようなその感覚は……。

 まあ、殆ど嘘なんだけど。

 殆ど嘘。

「君に言われたことの答えだよ。」

「……。」

「うーん、その様子だと翔は未だ求まってないようね。」

「そういう薙綯こそ。」

 何のことだろう。

 好い加減、腹が立つ。

 むきー。

「あれ?さっきからあんまり傑、喋ってないみたいだけど。」

「んー?そーぅ?あはは。」

「キャラが変わってるぞ!君!」

 気が付かなかった。

「否、我の先刻より申しておった口調はこのようなものだったはずであるぞ。」

「さっきと違うし、どこの国の言葉だよ。」

「日本の言葉アルよ。」

「分かってるし、返しのその言葉がもう既に日本でないし!」

 ふん。たまにはボケるというのも楽しいものだな。

 でも、見る分に関すれば天然ボケが一番面白いんだけれど。

 会ってみたいな天然ボケ。

 ていうか、へぇー、灸原突っ込めるんだ。以外に思うね。新境地開発だ。

「そうだ傑。何か思い出す事があった?」

「……。全然だ。全くもって思い出せていないよ。」

「そう、それじゃあ、うーんと。」

 薙綯は少し考えて、言う。

「今霧神社、行ってみよう。」


 今霧神社。僕は昔、今霧駅の南に位置するそこに六人で行った事があるのだという。行った事があるというか、よく行っていたらしい。僕はその神主さんとも仲が良かったみたいであるし、その境内では時たま駆けっこもしていたらしいし、神主さんもまあ許していてくれたそうだ。神社の境内で駆けっこなんて罰当たりすぎるだろう。そんな事許してくれる神主さん本当にいるのだろうか。信じ難い。

「ああ、梢君やね。お久しぶり。さあ、駆けっこでもなんなりしていってな。」

 実在した!緩い神主!前言撤回します。すいません。信じます。

「いきなりで悪いんだけれど、ね、神主さん。」

 薙綯はそういう風に言うと、丁寧に神主さんは返事をする。

「なんやね、恋奈ちゃん。改まっちゃって。」

「梢ね、この町のこと憶えてないの。」

「ええっ?!記憶喪失っちゅうやつか!?」

「違うんだけれど。」

「いいや若しかしたらそういう可能性ってものも在るやろ?えーと、梢君!」

 名前を大声で呼ばれた。

「はい。」

「君の名前は?」

「え?えー……、と。梢 傑です。」

 当たり前のことを訊かれてしまった僕だった。

「うーん、少しの間があった、若しかしたら若しかするんちゃうの。」

「若しかしても若しかしません!」

 初対面の人に張り合ってしまった。

 相手から見ると、そうではないと思うけれど。

「じゃあ、私のことは?」

「全く。」

「即答やんか!」

 あはは、大阪弁面白っ。

「若しかして、僕のことあまり憶えてないのですか?」

「憶えてるよ、ちゃんと。あれやろ?あのほら、引っ越していく時に大泣きした子。」

「……。」

「で、ですよね!傑って泣いてましたよね!」

「いやいやその。」

その印象しかないんかい!

「うんうん、梢君はね、何かここで、何かに遭ったらしーて泣いて帰っていったんよ。」

「神社……、確かに、私が泣いている傑に会ったのって、神社から傑ん家の間の道___」

 間を空ける薙綯、空ける必要はあるのか。

「___だったのかもしれない。」

 曖昧か!奇しくも『欧米か!』みたくなってしまったが、いいとして。

「あんまり泣かんのちゃうんかと思うとったんやけれど、大泣きしてもうてな、ほんま笑ってもうたよ。」

「慰めてはくれなかったんですか?!」

「嘘や嘘や。   なんや梢君、突っ込み上手くなりよって、前の時なんか今のこと言ったら、『あ…はい。』と言うから。成長したもんやな。硬い返事硬い考え方、硬々しい姿勢。それはなんとなく感じられるけど。」

「あっはい。」

 成長した   っていうけれど、突っ込みだけかい!だけなんかい!

 おっと、神主さんのように大阪弁になってしまった。

 しかも、返しが『あっはい』。

 成長していないんだな、僕。

 と、灸原のことに気付く。そういえばさっきからいないような……。

「あれ?灸原は?」

「うん?灸原君やったら……あれ?どこおるんやっけ。」

「翔なら、そこで猫と戯れてるよ。」

 本当だ、灸原は境内の中に居た黒縁の猫とじゃれていた。どこにでもいそうな記憶の片隅にいるような猫。

「にゃー」

 その猫は、僕の方を見ると、てこてことやってきて足に擦り寄ってきた。

「あれ?」

「おお、君。ミーに好かれてるじゃないか。」

「ミー?」

「この猫の名前だ。ミー。英語読みすると、Me、私って言う意味だな。」

「……、?」

「翔、その話何回目よ。」

 こんなどうでもいいこと何度も言っていたのか灸原は。

「……?俺、そんなに言っていたっけ?」

 しかも自覚なし!

「梢君。」

 神主さんは、僕に訊いてきた。

「はい。」

「今霧神社や私のことで、思い出したことはないん?ほら、少しのことでもいいんやで。」

「うー……ん。」

 正直なところ、一つも思い出す事が出来ないでいた。今霧神社、僕はここでの思い出は何もないのだろうか。

 思い出、想い出、憶えていない。

 想いが薄いと憶え返せないのか。

「今のところは、全く。」

「そうか……。」

 残念そうにした神主さん。

「今日はこの辺にしといてくれへんか?これから用事があるから出なあかんねん。」

「分かりました。じゃあ、行こうか、翔、傑。」

「はい。」

「分かった。」

 そう言って、薙綯先行のもと、神社の出口、鳥居の架かったところをくぐる。僕は一番後ろだった。そしてそのすぐそこに、下へ降りる階段がある。


ツキン……、


 何か、音   否   衝撃がしたような気がしてはっとする。頭の中に何か映像が流れてくる、そんな感じがした。然し、それは本当で、感じ、と言う概念では言い示すことの出来ない、実際的な現実的な全く持って写実的ではない、そうであった。その映像は   

  



神社に、西日が架かっている。その西日は美しくて、それは木々や草花に乱反射して一層輝きを増している。木々や草花はそれに応えるように色豊かにそして鮮やかに演じる。

別れを告げた後、鳥居をくぐる。その時、何か目の前で眩しいものが光ったと思う。と、それは夕日なのだと改めて思う。然し、それは、そう思うにはもう遅かった。

足は、宙を舞い、手は空気をかき景色は一回転する。

足を踏み外したのだろう、階段を落ちていく。

気付いた時には、顔には水が溢れていてそれは涙であることが、目の前にいる人から言われて気付いた。

そして、気が付いたら、家にいた。



映像は巻き戻り、目の前が眩しくなる。

そこで、映像が遅くなり遅くなり、拡大されるとそこは足で、今にも踏み外しそうになっていた。

口は反射的に言う。この後、起きることを予想して、言う。



    僕の頭を一瞬で駆け巡る。

「あっ……、危ない!!」

「え?」

 然し、僕の眼に映ったのは階段にいまだ差し掛かってのいない薙綯の姿だった。

 僕の声は虚しく、響くこともなく散っていった。

「どうしたの?」

「い……、いや。」

 今のはなんだったのであろうか。フィクションでしか有り得ないはずの走馬灯のような。これは若しかすると若しかして。

 僕の記憶……?

 間髪いれず、僕は言葉を発す。

「なんで、泣いていたのか、分かったかも。」

 その言葉で察したのか薙綯は、

「思い出したの?」

 と言った。 

「そんな大袈裟なんじゃあないんだけれど、なんていうか。さっき言った、泣いた理由だけ。」

「で、それはなんだったんだ?」

「言うことが恥ずかしくなるような、そんなんだけれど。」

 さっきの映像を、丁寧に思い出すように、言葉を紡いでいく。

「そこの階段で、落ちた。」

「落ちた。」

「落ちた?」

「そう落ちた。」

「落ちた(笑)。」

「笑うんじゃない!」

「もっとシリアスななんかだと思っていたんだけれど。」

 ははは、と笑う灸原。続けて、『いやな。』、と言う。

「神主さんがここで何か遭ったって言うから、なにか悲しい事件でも起きたのかと思ったんだ。」

「それって、軽ーく、神主さんの所為にしてない?」

「してないしてない。」

 薙綯の問いに、灸原は答えた。僕は言う。

「さあ、ちょっとした疑問は解けたからさ、行こうよ。」

「ちょっと待って。」

「なに?薙綯。」

 薙綯は僕に声を掛けた。頭上に広がる空は青く澄み渡っている。

「その記憶にさ、私という人物はいた?」

「薙綯が?」

「ええ。」

 僕はゆっくりと記憶を思い出していく。ゆっくりと。然し、薙綯に似た人物、少女は見当たらない。後に掛かってきた声も少年の声であったし。

「いていないな。」

「階段を降りてから、家に帰るまで。いなかった?」

 何でそういうことを訊くのだろう、意味はあるのだろうかと思うがまあ、質問には答える。

「……、気付いたら家だったから、多分、薙綯には会ってない気がする。それがどうしたの?」

 逆に、僕が訊きたいことはそこだった。何故訊くのか、意味はあるのかないのか。

「ん?ああ、私の記憶が正しいのかなと思ったんだよ。でも、憶えていないんだったら私が間違ってたのかな。うん。そう思うよ。」

 薙綯はそう取り繕ったあと、言った。

「それじゃあ、行こうよ、私んち。傑の近況も、まだまだ聞き足りないこと、いっぱいあるしね。」

 薙綯は、鳥居を未だくぐり終えていない僕らを引っ張って、階段を降り始めた。まだ、日の暮れなさそうな午後の風が吹いている。


 そういえば、僕の兄ちゃん、梢瑞希や僕の姉ちゃん、梢美月などは、この町のことを憶えているのだろうか。一応、この町に住んでいたのであろうし、若しかしたら、薙綯や灸原も、兄姉のことを憶えているのかもしれない。

 午後三時三十二分、僕らは薙綯の家にいる。まあ、さっきにも言ったのだが、八月なのに意外と涼しい。蝉の声は僕の住んでいる墓苗よりなおさら聴こえるのだけれど、然し、それは苦になるほどではなく、寧ろ、夏の風物詩として捉えてもいいぐらいだ。その大合唱よりも気温が大事なのだ、気温。こんな快適な気温、今の墓苗の時期ならば考えられない。今の向こうは暑いのだろう。

「暑いね。今年は。」

「いきなり僕の考えを否定するなよ。」

 まあ、慣れ、というものもあるから、暑いところにいつもいる人がそこよりも涼しいところに行くと『涼しいじゃけ~』と言うだろうし、寒いところに住む人がそこに行くと『ここは暑いけんのぉ~』というだろう。

 要は慣れなのだ。

 薙綯は涼しいところで慣れすぎた。

 今年は日本全体暑いのだ。

 酷暑極寒、猛暑大雪雨霰。

「そうだ、傑。傑のお兄ちゃんはどうしてる?よくお世話になったんだよね。」

「ん?兄ちゃんのことか?相変わらず、頭が良いよ。」

 僕に関しちゃあ、兄ちゃんが昔から頭が良いとかそんなこと知っちゃこったない、否、知らない。

 やっぱり、知っているのか、兄ちゃんのことを。

「そうだよね、あんな頭がいいの、見たことがなかったもん。」

「そうだな。君のお兄さんは天性のものが有った。まるで、合格するために生まれてきたような、然し、決して勉強するためではないのだけれど、及第点を軽く超える怪物。若しも及第点を満点と捉えたら、それに到達する、否、それ以上を超えていくだろう、ね。」

「いやいや、そんな大袈裟なことは、ないと思うけれど。」

「いやあ、そんなことはあるよ。」

 灸原は、氷と麦茶の入ったコップを持ちながら例を考える。

「だってだよ、君、俺が君のお兄さんに言ったんだ、今度全国統一小学生テストで全部満点取ってみてよとね。そうしたらどうしたと思う?君のお兄さんは。」

「ん?そりゃあ、」

 それは幾らなんでも頭の悪い僕でも分かる。

「勉強をしたんだろ?及第点   今は満点か、それを取るために必死に。」

「いやあ、それがね。」

 灸原は含みを持たせて言う。

「全く勉強をしなかったんだよ。」

「ほう。」

「そうして訊いてみたんだよ、何で勉強しないの俺の要求を忘れたのと、君のお兄さんは憶えていたみたいだけれどね。」

「敢えて勉強しなかった。」

「そういうことになるのだろうね。」

「傑のお兄ちゃん凄いね。」

「で、僕の兄ちゃんは満点取ったのか。」

「はあ、君は、それまでも忘れているんだ。」

「煩い。」

 すぐ斬り還して言う灸原。

「満点取ったよ、君のお兄さん。まさに化物だよ。」

 満点。

 小学校のテストでは、そこまで凄いとは思わないのだろうけれど、実際勉強しなくてもいい点取れる(僕は無理だ!)。然し、それは公共のテスト、その小学校の学力に合わせたものではない、頭のいい学校に通う人も悪い学校に通う人も受けるテストである。そりゃあ飛び切り難しい問題だってあるだろう。中学生が主に受ける五ッ木の模擬試験だってこれ解ける奴いるのかと思うような(解けるから載っているのだろうけれど)問題がある。それを満点で、加えて全教科。まさに化物。

「俗に言うノーベンで満点。傑のお兄ちゃんは、怪物なんだね。」

「それはそうとだよ君、君のお姉さんは今何をしているんだい。よく遊んではいたけれど、駆けっこでは勝てることができなったな。そりゃあそのときは三歳の差があったけれど。」

「ああ、僕の姉ちゃんね。相変わらず、走ってるよ。まあ、長距離だけれど。」

 当時のことを僕は憶えてないけれど、灸原の言葉から予測して、そういうことだったのだろう。

 昔から、足が速かった。

 予測はしていたが、昔からそうだったのか。

「長距離か、そうか、うん。俺の予想では短距離かと思ったんだけれどなあ。若しくは他のスポーツ、例えばバスケとかソフト、野球にバレー。弓道なんてのもいいと思ったのだけれど。」

「ああ、そうなのか。」

「そうだよ、傑のお姉ちゃんは、何でも出来たんだから。まるで運動の怪物みたいって皆言ってたよね。」

「ああ、そうみたいだな。」

 そう、僕にはその今霧での記憶というものが一つも憶えていないのだが、薙綯と灸原との会話で薄々は感じていた。

 二人は昔からそうだった。

 昔から二人は怪物だった。

 化物と表記してもいいのかもしれない。

 絶対的な勉強能力を持つ兄と、絶対的な運動神経を持つ姉。

 完璧野郎が、二人に分かれたみたいな、そんな二人。いつも、この二人が一人だったら完璧なんだろうなと思う。

 もとの一人に戻るみたいな。なんか厨二病のように聴こえるけれど。

 この二人が一人だったらというのは、今霧のときでも同じだったのであろう。ここでもそう思われていたのであろう。

 然し、本質はそこではない。

 その分野に関しては完璧だという、昔から二人は怪物だったということだ。

「薙綯。」

「えっ、えっと、何?」

 僕は、薙綯に声を掛けた。唐突だったので、薙綯は少し驚いていたようだ。今まであまり、僕から声を掛けることはなかったので、驚いたのであろう。久しぶりな感覚、そんな感じだったのだろう。

「今度さ、今霧にある僕の家に来たらいいよ。兄ちゃんも姉ちゃんもいるんだからさ。」

「あ、うん、ありがと。」

「勿論、灸原もね。」

 忘れていないよ、とでも言うように僕は言う。

「分かった。君のその言葉を憶えておくよ。あの言葉みたいにね。」

「あの、そのさ、あの言葉、というのを止めてほしいのだけれど。なんか、その、灸原や薙綯、それから二人の友達らもそういうのだろうから、その友達。それらから何か、迫害を受けているような他者、ここでは僕になるね、それの介入を妨げられている感じがするんだ。何も知らないし何も分からない。憶えていない僕が悪いのも分かるけれど、そんな君達は出来ることならばその言葉は極力言わないでほしいんだ。」

「ああ、そうか。ごめんな、気付かなくて。」

「いやいいんだ、言わなかった僕が悪いんだし。」 

 あれ、言いたいことが違う気がする。

「私も、ごめんね、傷つける気はなかったんだよ。」

 謝ってほしいわけではないのだけれど。

「あ、えっと。じゃあ、その。あっそうだ。」

 さすがにこれ以上謝られるのもきついので、話を変えることにした。

「僕の元々居た家に案内してよ。見てみたいものでもあるし。」

「そうか、君は見たいんだな、うん。」

 何か嬉しそうな灸原。

「じゃあ案内するよ。薙綯も来る?」

「そりゃあ行くよ。」

「じゃあ行こう。何時から行くの?準備とか要るのか?」

「別に、そこまで遠くないから、今からでしょう。」

 どこか古めの塾講師を思い出される言葉だった。




西の夕日を背負いながら、道を歩いていった。影は目の前に伸びていて、まるで帰り道へ*うよう。

後ろから音がすると思うと、それは鳴き声で、いつもよく見る猫だ。

私だったに違いない。

私は道を駆けて行き、そして少し行くと大通りに抜ける。私は友達であった男の子の前で立ち止まる。

「どうした、その顔。何があった。珍しいな、泣いてるのか。××らしくない。」

その声に気が付く。顔には涙が溢れて、溢れて、溢れて。

水の張った盆をそこから持ってひっくり返したように。

溢れている。

分かっている、そんなことは、自分らしくないことくらい。

××は歩み寄っていき、声を掛ける。

「ごめん。今日は用事でいけなかった。」

その事で泣いたのではないと思っているけど本当はそれなのだと思わされる。

「お別れなのにな、××はいつも××たちを励ましてくれたよ、うん。」

××は、感謝の言葉を告げる。それは私に向けたのではなく。

他でもない、自分自身だった。

「おいおい、さらに泣くのをやめろ。」

もう。

嫌な記憶は消してしまいたい。

泣いていることではなく、階段から転げ落ちたことでもなく。

それが原因だったのだけれど。否、要因だったのだけれど。

嫌な記憶を、自分自身の失態を。

自分自身の、欠陥を。

消してしまいたい。




 僕の家を見た時、頭痛がした気がした。

 ヅキン……、

 そんな気がした。

「……、?大丈夫か?君。」

 何かを察した灸原は聞いてきた。

「大丈夫だ、心配ない。」

 そう、僕は言い返した。

 その僕は今、元僕の家の前まで来ている。小学校二年生の時まで、住んでいた家。それには何も張り紙などが掲げられてはいなかった。

 色褪せていなさそうな家。記憶充分の僕が若しも見るのならば、色褪せずに見えるのだろう。昔住んでいた家とはそんなものだ。記憶が甦り、思い返され、その色彩は煌びやかに、衰えることの無く、そして、褪せることなく見えてくる筈である。

 幾度も言うようだが、僕にはそれは分からない。

「ここでもよく遊んだんだよ。」

「そ……そうなのか。」

「そうだよ。私の家で遊んだくらいの頻度と同じくらいに傑の家で遊んだんだから。」

「ふうん。」

 思い出せないのは何か当たり前のようになっているのだが、何か僕にとって不利な記憶などでもあるのであろうか。泣いていた記憶は分かったが、それが記憶忘去の決定的な問題でもないのであろうし、と僕は予想する。

 僕には、興味本位な所があって、それはこの記憶忘去の件にも表れている。僕は、その忘れてしまった記憶を知りたいのではあるのだが、思い出せないとなると、何とも腹立たしい。それは興味があることを表しているのだと思う。僕には分からないのだけれど。

「ここか……。」

 表札は撤去されているようで、それがありそうだったところには、何も無い。何か何故か何と無く心許ない。心に何か小さい穴の開いたような、まるでパズルのピースが二つほど無くなったような、そんな感じがする。それは比喩であり、深いものではない。

「ここが……。」

 僕の住んでいた場所。兄と姉、それから父と母、そして僕、五人で住んでいた。その時まだ、父さんは出張に行っていなくて、そういえば父さんが出張に往ったのはちょうど二年生、今霧から墓苗へと引っ越した時だ、と言っていた。

「ここで……。」

 兄や姉は、目の前にあるこの家で、小学校生活を謳歌していたのだろう。小学校といえば、皆より何かが突飛出てできていればちやほやされる年代であろう。二人はあんな性格だろうけれど、人気者であったに違いない。僕はそんな兄姉をここで後ろからいつも見ていたに違いない。兄よりも劣る勉学、姉よりも劣る運動。それを苦にしながら、過ごしていたのだろう。何故そう思うのか、それは簡単なことで、何故なら今もそうだからだ。

「まあ、入ることも出来ないであろうし、思い出すことも出来なかったし。意味は無かったのかもしれないな。」

「そうかな、傑の記憶の片隅に、傑の家という断片ができたじゃない。若しかしたら何かの原因でそれが要因となって何か思い出す事ができるかもしれないじゃない。」

「そうだね、そう思っておくよ。」

 そういった僕はあることに気が付く。

「そういえば、灸原は?どこにいる。」

「ああ、翔なら。」

 薙綯は右手を、数字を数える時の、1の形にして僕の家に指差した。僕は最初何も分からなかったのだが、何となしに目線をその先に向ける。然し、何も見当たらない。首をかしげている僕に薙綯は言った。

「家の中に入っていったんじゃないかな。」

「な……?!」

 いやいやいやいやいやいやいやいや、いやいや。それはそれは不法侵入というあれじゃないかな、そう犯行、いや、犯罪ではないのか。ボールが人の家のガレージに入って取りに行こうとするときに少し考えてしまうそれ。不法侵入じゃないか!

「まず、止めないと!」

「え……?でも。」

「いいから早く!」

 僕は、僕の家に入った。玄関の鍵は開いていて、不法侵入だなと何か変な感じがすることは口に出さずに、流暢に靴を脱いでから上がる。灸原も流石に玄関で靴を脱いだようだった。

「お邪魔します!」

「あ……、私も。お邪魔します。」

 一応ね、一応。

 さあ、僕からのお願い。誰かの家に入る時は、お邪魔しますと言いましょう。でも、空き巣は駄目だよ。たとえ、お邪魔しますと言ったとしても空き巣は駄目だよ。それが僕からのお願いだ。それは犯罪になるからね。牢屋、俗に言う豚箱一直線まっしぐらだ。え?僕達は良いのかだって?……。お答えし難いものではあるね。

「灸原、どこなんだ。」

 大声を荒げるのは気が引けるので、小声で。然し、充分向こうに聞こえる大きさではあるだろう。

 一階の居間には……、居ない。台所……、居ない。和室……、居ない。トイレ……、居ない。

「ねえ、二階か三階じゃないかな。」

「何で。」

「今、音が。」

「何!?」

 急いで階段を探して二階に向かう僕。早く灸原を見つけないと、怒られてしまうのではないか。誰かに。

「それは無いと思うよ。」

「えっ?!」

 階段の途中で言われて思わず聞き返した。それはない。怒られてしまうところか?いやいや、怒られるのは当然だろうし、何で薙綯は心を読んでいる!灸原と同じか!

「当然じゃないよ、だって、この家。」

 走りながら、薙綯は続ける。そして、薙綯がそこまで言うと斜め上で物音が聞こえる。その音の発信源が階段の頂上であることに気が付く、見るとそこには男の人が佇んでいた。灸原ではない誰か。

「ああ、傑、久しぶりだね。」

「……、?」

 話しかけられたのだが、思い出せない。思い出せない。思い出せない。三回言っても思い出せない。計四回。誰だ、この老けた顔の老人は。そういえばどこか、誰かに雰囲気が似ている気が……。

 薙綯は続ける。

「傑のお爺ちゃんが住んでいるんだよ?」

 お……、お爺ちゃん。

 なんだ、それ。考えていた僕。そこであることに気が付く。僕は今階段を上っていたことに。何かに集中していた時に考え事をするとその糸がプツリと切れるように、それは僕にも例外なく当てはまり、気付いた時にはもう遅く。

 僕は、階段を踏み外していた。

 踏み外すのはまだいいものの、然し僕に関しては踏み外した後がいけなくて、踏み外した勢いで階段という壁にぶち当たり、反動で後ろに反り返ってしまう。つまり。

 僕は、階段から落ちてしまった。

「す……傑!」


 薙綯は僕を助けようとしてくれたけれど、自分を危険から逃れる事しかできなくて、手を伸ばそうと試みてくれたけれど、その手は惜しくも僕の手と掠っただけで終わってしまった。もう少し勇気を出せば手を握ることはできたと思うのだが、そこは人、薙綯は自分を優先した。

 落ちる時間は何故か長いような気がして。薙綯の顔が長く映っているような気がして。僕のお爺ちゃんと呼ばれるべき人は何か叫んでいるような気がして。灸原が察知して階段を覗き込んだ気がして。僕は落ちていく。

 ああ、これがあの日、体験したやつなんだ。

 そんなくだらないことを考えることができるこの時間は、本当に長い。

 いっそのこと、すっと、落ちてしまいたい。

 僕のことなんだから、僕の頭はそんなこと容易で考えることができるのであろう。

 あれ、僕の頭?僕の頭は、そんなことを考えるだけの*はあったのだろうか。

 そんなこと自体、否、この時間は何なのだろうか、長い。これこそ、フィクションでしかありえない、ならば何故、僕は。

 この時間を体験しているのだろうか。

 僕にはそんな厨二病的特技など持ち合わせてなどいないのに。そう僕は平凡で勉強なんか人並みにしかできず平均点をいくらか下回るようなそんななのに、運動も駆けっこで一位の旗の前にも立ったことの無いしリレーに出れば負けるといわれた疫病神的存在だったそんななのに。

 そこで、ある言葉を思い出す。

 成績が良かったとなんて言ってない。

 成績だけが全てじゃないと、よく言ったものだが、それを何とも言っているような、台詞だった。

 僕は、聞き返したけれど、返ってはこなかった。彼からは返ってはこなかった。

 ああ、僕は何でそんなことを思い出す事ができるのであろうか、僕は記憶力が良かったのか?まるでいつもの僕とは違うような。

 いや、記憶力がいいじゃなくて、いつもより思い出せる。

 成績が良かったとなんて言ってない。

 言ってない、ということは、何かそこで僕は訊き間違いをしたという事なのだろうか。

 思い出せ。

 いつもは無理なのだろうけれど、今なら。

 思い出せるはずだ。

 ……。

 あ、ああ。思い出した。

 あの時、君は賢かったからね。

 そうだ、あの時、君は賢かったからね、だ。

 賢いと成績がいいでは明らかにニュアンスが違う。

 僕は、賢いと言われたんだ。

 あの時、君は賢かった。

 賢いとは、抜け目がないとか利口だとか、そういう意味。

 思い出せばその意味は分かるのだろうけれど、今は分からない。

 知りたい。

 知りたい!知りたい!!知りたい!!!

 何なのだろうか、この興味は。

 若しかするとこれらの僕は、

 そこまで考えるとそこで、底で。

 僕の体は階段の底まで落ちる。

 この時間が長いといっても、体感速度が、という意味であって、実際には一瞬なのだ。

 一瞬。

 そして。

 凄くてそして今までに二度ほどしか体験したことのないような衝撃が僕に流れた気がして、目の前が真っ暗になっていく。

 気を失っていく、そんな気がした。








続く

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