第12話:二人
目を覚ました。
すぐには、目を開けられなかった。
朝だということは分かった。
カーテンの向こうが明るい。
どこかで車が走る音がしている。
どこかで犬が鳴いた。
私は布団の中で身体を丸めたまま、息を殺していた。
昨夜の声を覚えている。
私が眠りに落ちる直前の笑い声。
あれはきっと夢でも幻聴でもない。
あの声が、目を開けるのを邪魔していた。
もし、目を開けた瞬間。
少女が目の前にいたら。
昨日みたいに、何でもない顔で立っていたら。
いや、もしかしたら眠っている私を覗き込むようにしているかもしれない。
そう思うと、まぶたが動かなかった。
大きく息を吸ってみる。
ずっとこうしているわけにはいかない。
そろそろ目を開けなければならない。
でも、怖い。
先程と同じことを考えてしまい、私は思考を中断する。
これじゃダメだ。
怖い、じゃなくて、あの子がいたらどうするかを考えなければ。
息を殺して考える。
何かあれば蹴飛ばしてやればいい。
もしそうなったら、学校を休もう。
お母さんにはあとから連絡すればいい。
急いで家を飛び出して、走って、走って、どこまでも遠く。
あの子の来られない場所まで逃げよう。
少女はこれまで、物理的に干渉してきたことはない。
手を掴まれたことも、肩を触られたこともない。
大丈夫。
もしあの子がいても、きっと逃げられる。
覚悟を決めて、私はゆっくりと目を開けた。
天井。
見慣れたいつもの天井。
視線だけを動かす。
机。
椅子。
本棚。
カーテン。
誰もいない。
昨夜、少女がいついなくなったのかは分からない。
最後に覚えているのは、布団のすぐそばから聞こえた笑い声。
少なくとも昨日の夜は、布団一枚を隔てて、ほぼ体がくっついてしまうくらいの距離にいた。
私はゆっくりと体を起こした。
今度は目だけではなく、しっかりと部屋全体を見回してみる。
机の下。
カーテンの隙間。
いない。
そんなところを確認する自分がおかしいのかもしれないと思った。
でも、そうでもしないとベッドから降りられそうになかった。
枕元のスマホに目をやる。
画面は暗く、通知音も鳴らない。
少し待ってみても、何もない。
また少し待つ。
それでも何もない。
私はようやく手を伸ばした。
七時十一分。
通知がいくつか溜まっている。
紬から昨日の夜に来たメッセージ。
クラスのグループ。
新着動画の通知。
それだけだった。
少女からはまだ何も届いていない。
アプリを開き、メッセージの履歴を上から下まで見る。
「あれ」
違和感。
ない。
少女のアカウントが。
昨日まで確かにあった、あのアカウントが消えている。
『今日は楽しかったね』
『また明日ね』
何度も写真を送ってきた、少女のアカウント。
ふと思い立ち、IDの文字列を覚えている限りで打ち込んで検索する。
しかし、見つからない。
私は画面を見つめたまま動けなくなった。
消えた。
そう思った。
次に浮かんだのは。
終わった、ではなく、なんで、だった。
写真フォルダを開く。
これまで少女が送り付けてきた写真は、保存したくもないのに勝手にフォルダに保存され続けていた。
昨日、少女が送ってきた写真も、確かに保存されていた。
そのはずだった。
至近距離から私を撮った写真。
こんな近くでカメラを構えられて気づかないはずがない、という距離から知らぬ間に撮られた不思議な写真。
私が寝転がるベッドまで徐々に近づいてくる写真。
どれも、記憶の中で鮮明に思い出せる。
学校で送られてきた写真も。
昇降口での写真も。
全部。
その全てが、無くなっていた。
画面を滑る指は止まらない。
気になることがある。
少女が送ってきた写真が消えたのなら、もしかして。
私は、写真をスクロールしていた指を止めた。
予感は的中していた。
ファミレス。
文化祭。
なんてことはない、いつもの帰り道。
何枚めくっても、写真の中には二人だった。
紬と、それから私。
文化祭の日の写真をもう一度見る。
紬と私が並んで笑っている。
昨日まで、ここに少女がいた。
たしか、いた。
本当にいた?
いや、少女は絶対にいた。
そうでなければ私はこんなに怯えていない。
でも、今ある写真を見ると、どうしても最初から二人だったようにしか見えない。
私はスマホを伏せた。
机の上のノートを取ってぱらぱらとめくる。
『私と紬は二人だった』
『私はあの子を知らない』
『友達ではない』
『撮らない』
自分の字。
私は文字を指でなぞった。
昨日、確かに書いた。
紬と私が初めからずっと二人なら、わざわざこんなものを書く必要はない。
やっぱり、いた。
昨日まで確かに。
私は薄れていく記憶を捕まえるようにノートの端を握りしめた。
そうだ。思い出した。
みんなあの子を知っていた。
紬も。
美香も。
先生も。
お母さんも。
私だけが、あの子が誰だか知らなかった。
私はノートを閉じた。
階下から音がした。
食器の音。
きっとお母さんだ。
身体が少し強張った。
昨日、お母さんは少女のことを
『いつも来てる子でしょ?』
と言った。
私は、しばらく立ち上がる気になれなくて、真っ黒なスマホの画面を見つめていた。
そこには一切の表情を削ぎ落とした、無感情な私が反射していた。
◇ ◇
階段を下りる。
途中で足が止まる。
リビングから、お母さんの鼻歌が聞こえる。
いつもの声。
いつもの音。
それなのに、ドアを開けるのが少し怖い。
何を怖がっているんだろう。
お母さんなのに。
これまでずっと一緒に暮らしてきたのに。
私は一度大きく息を吸ってからドアを開けた。
お母さんが振り返る。
「あら起きたの、おはよう」
普通。
本当に普通だった。
私は少し遅れて、
「……おはよう」
と返した。
テーブルを見ると、皿が二つ。
コップも二つ。
椅子に座ると、お母さんが目の前に味噌汁を置いてくれた。
「まだ顔色悪いね」
「そう?」
「今日休んだら?」
「行く」
「無理しないでよ」
「大丈夫」
パンをちぎる。
口に放り込むが、味がしない。
聞かなきゃ。
そう思った。
でも、聞きたくない。
お母さんは、少女のことを覚えているのだろうか。
頭の中でシミュレーションしてみる。
まずは、お母さんが覚えているパターン。
「あの子のこと、覚えてる?」
「ああ、いつも紬ちゃんと一緒に三人でいる子よね」
怖い。
次は覚えていないパターンを想像してみる。
「あの子のこと、覚えてる?」
「誰のこと?」
怖い。
結局、どっちでも怖かった。
私はしばらく黙って、味のしないパンを食べることにした。
「お母さん」
「ん?」
口にしたあと、やっぱりやめようかと思った。
「昨日さ」
「うん」
「晩ご飯、何人分作った?」
お母さんが一瞬だけ止まる。
私はその顔を見る。
「何人分って」
お母さんは少し考えてから、笑った。
「二人分でしょ」
全身が総毛立つような感覚がした。
急速に部屋が冷えていく。
そんな感覚。
「……二人?」
「そうだけど」
「本当に?」
お母さんが不思議そうに私を見る。
「何?」
「……何でもない」
「寝ぼけてる?」
「かも」
それ以上は聞けなかった。
昨日、少女が座っていた椅子を見る。
普通の椅子。
今は誰も座っていない。
「灯?」
「何?」
「学校、本当に大丈夫?」
「うん」
「ならいいけど」
お母さんはそれ以上、何も言わなかった。
少女のことも、昨日の夕飯のことも。
何も言わない。
いや、何も覚えていないのかもしれない。
少女のことだけを忘れている。
そんな気がした。
◇ ◇
家を出る。
道路を見る。
誰もいない。
歩き出す。
昨日と同じ道。
曲がり角。
店のガラス。
カーブミラー。
私は一度も立ち止まらなかった。
でも、しっかり全部見ていた。
やっぱりどこにもいない。
前から来る女子高生。
違う。
自転車で横を通る人。
違う。
黒い髪が視界に入るたび。
胸が跳ねるような気がした。
いつもの交差点。
紬がいた。
一人だった。
「灯、おはよ」
名前を呼ばれる。
身体が一瞬固まる。
「……おはよう」
紬が近づいてくる。
「まだ具合悪い?」
「大丈夫」
「ほんと?」
「うん」
昨日、私は紬を怖いと思った。
あんなに異常な様子の少女を見ても、何とも思わなかった紬。
当たり前に少女を受け入れていた紬。
私の知らない人になってしまったみたいで怖かった。
目の前にいる紬は、少女のことを覚えているのだろうか。
「行こ」
紬が歩き出す。
私は隣に並ぶ。
二人で歩く。
紬は何も言わない。
私も何を話したらいいのか分からなかった。
横を見る。
誰もいない。
反対側を見ても、やっぱり誰もいない。
「灯、さっきから何見てんの?」
「別に」
「変なの」
紬が笑う。
私は笑えなかった。
少しして。
「ねえ、紬」
「ん?」
「昨日」
紬がこちらを見る。
「昨日、何?」
「……あの子がさ」
紬が首を傾げた。
「あの子?」
「私たちと一緒にいた子」
「誰?」
私は歩く速度を落とした。
紬が立ち止まる。
「昨日、学校で」
「うん」
「私と紬と」
「うん」
「それからもう一人、いたでしょ」
紬は少し考えた。
「誰?」
喉が詰まった。
「本当に分からない?」
「うん」
紬の顔を見る。
演技には見えない。
困っている。
私が何を言っているのか、本当に分かっていないという顔をしていた。
「灯、大丈夫?」
「……私、昨日何で保健室行ったか覚えてる?」
「え?」
紬が考える。
「体調悪くなったんじゃなかった?」
「私、叫ばなかった?」
「叫ぶ?」
「昼休み」
「……何を?」
やっぱり紬は覚えていない。
私はそれ以上聞けなかった。
心配そうに顔を覗き込んでくる。
反射的に一歩下がってしまった。
「……ごめん」
「何で灯が謝るの」
「分かんない」
そして、再び並んで歩き出した。
足音が二つ、小気味よくコンクリートを鳴らしていた。
◇ ◇
教室へ入る。
窓際。
後ろ。
廊下側。
少女はいない。
美香が手を上げた。
「おはよ」
「おはよう」
「昨日大丈夫だった?」
「うん」
「急に飛び出したからびっくりした」
私は美香を見る。
美香は覚えている。
私が飛び出したことを。
少女のことも覚えているかもしれない。
「何で私が飛び出したか覚えてる?」
気づけば言葉が出ていた。
「え?」
「昼休み」
「体調悪かったんじゃないの?あ、でも」
そう言って美香は少し黙った。
「体調悪かったなら飛び出さないよね。凄い勢いで走って行った気がするもん」
なんかあんまりおぼえてないや、と美香が笑う。
「私と紬と美香以外に、その場にいなかった?」
美香が首を傾げる。
「いないけど」
即答だった。
私は机の端を握った。
「本当に?」
「何それ」
美香が少し笑う。
「紬と灯はいつも二人じゃん」
◇ ◇
ホームルームが終わるとすぐに、私は先生のところへ行った。
聞きたいことがある。
「先生」
「ん?」
「この前の話、覚えてますか」
「この前?」
先生は斜め上を見ながら思い出そうとしている。
やっぱり覚えていないんだ。
「じゃあ先生。私と紬と一緒にいた子は覚えてますか?いつも三人だったと思うんですけど」
口にしてから少しだけ怖くなる。
先生に質問するためとはいえ、いつも三人だったと口にしてしまった。
「いつも三人だった?」
先生は困ったように眉を寄せた。
「ごめん、ちょっと覚えてないな」
「そうですか。変なこと聞いてすみません」
席へ戻る。
誰も覚えていない。
昨日までは、あんなに自然にあの子を受け入れていたのに。
最初から、誰もいなかったみたいだった。
◇ ◇
放課後。
鞄を持ち上げる。
今日は持ち帰りの教科書が多くて少し重い。
「帰ろ」
紬が言った。
胸が一瞬だけざわつく。
昨日、あの少女も。
『帰ろ?』
と言っていた気がする。
「灯?」
紬が不思議そうにする。
「……何でもない」
「またそれ」
「ごめん」
紬が笑いながら鞄を肩に掛ける。
「一人で帰る?」
少し迷った。
昨日は一人で帰りたかった。
紬すら怖かった。
でも、今日は。
一人になる方が嫌だった。
胸騒ぎというか、なんというか。
紬と一緒にいた方がいいような気がした。
「ううん、一緒に帰ろ」
◇ ◇
校門を出て、二人で歩く。
いつもの道。
夕焼けに染まる空。
その下を車が走る。
自転車に乗った制服姿の学生。
犬の散歩をしている中年の女性。
缶コーヒーを片手に歩くくたびれたサラリーマン。
街は、つまらないくらいにいつも通りだった。
途中、ガラス張りの店の前を通った。
私は何となく、そこに映った姿を見る。
私と紬。
やっぱり二人。
私は前を向く。
紬が隣で、さっきから新しいアイスがどうとか話している。
「だから絶対おいしいって」
「まだ食べてないんでしょ」
「でも分かる」
「何で」
「勘」
「一番信用できないやつ」
紬が笑って、私も笑った。
会話の温度も、随分元に戻ったと思う。
ここ数日の出来事は、まるで私だけが見せられた悪夢だったかのように思えた。
夕焼け空の下を二人で歩く。
私の足音。
紬の足音。
そこに、もう一つだけ、音が重なった気がした。
ざわりと背中を撫でられたような感覚がして、私は少しだけ歩く速度を落とした。
紬は気づかずに先へ進む。
足音は、私と紬の二つ。
「灯?」
少し先で紬が足を止め、振り返った。
「どうしたの?」
簡単な話だ。
振り向けばいい。
あの子がいるかどうか確かめたいのなら、今すぐ後ろを見ればいい。
でも、私はそうしなかった。
「……何でもない」
「またそれ?」
「うん」
「最近多くない?」
「気のせいだよ」
そう言って、紬の隣まで追いついた。
紬は、絶対そんなことない、と頬を膨らませている。
聞き間違いだったのかもしれない。
誰かが後ろを歩いていただけかもしれない。
あるいは。
その先は考えないことにした。
少女が誰だったのか。
どうして写真に写ったのか。
どうしてみんなの記憶に入り込んだのか。
結局、何も分からなかった。
今もどこかにいるのかもしれないし、影も形もなく消えてしまったのかもしれない。
何も、何一つ分からない。
ただ、知らない方がいいことはきっとある。
少なくとも、今は。
私たちは並んで歩き出した。
いつもの帰り道を。
何でもない話をしながら。
もう、足音は数えなかった。




