157話 ベルラントの森
アクイルンを後にし、ダムへと旅立った一行は、深く静かな森の道をたどって旅を続けた。
季節は真冬のただ中にあったが、雪が積もった痕跡はまだない。骨 ばった枝が空へと長く伸び、細くたなびく影を地面に落としていた。落ち葉がかさかさと足元を飾り、あちこちに残る薄らとした緑の苔が、冬の中にも命が息づいているような印象を与えていた。
木の幹には湿った露 が降り積もり、薄い霧が森を包んで遠くまでの視界をぼかしていた。空気は冷たく澄んでいた。息を吸うたびに、冬の冷気が胸の奥まで染み入ってくるようだった。
道の先頭を行くのは、マウとダレンが乗る馬車だった。
そしてその馬車の荷台から、静かな森の中へと長く溶け込むように響いてくるのは、クラバの深く重みのある寝息だった。
アクイルンを発つ前夜、クラバは弟子のネイディンをはじめ、他の石工 たちと幾杯もの酒をやりとりしながら飲み明かした。そのせいで翌日の約束の時間にやっと間に合う形で馬車に身を乗せ、今はふぅ〜と長い息をついたまま眠りこけていた。
いつものように、ダレンは穏やかな声でグラベルに森にまつわる話を聞かせていた。
「この森はベルラントの森と呼ばれています。アクイルンとダムを結ぶ道に広がる森です。そしてここは、木の牧者 たちが眠る場所とも伝えられています。」
ダレンの言葉を聞いていたグラベルは、目を輝かせて尋ねた。
「木の牧者たち?彼らはどのような存在なのですか?」
ダレンは微笑みながら頷いた。
「ヴラントという木の巨人たちです。私もずいぶん前にダムの長老たちからお聞きしただけですので詳しくはありませんが、彼らがこの森と深く関わっているのは確かです。この森の名前も、最も年老いたヴラントであるベルラントの名に由来すると言いますから。」
マウが傍らで微笑みながら言った。
「ヴラントなら私も耳にしたことがあります。森の守護者である木の巨人たちだとか。」
「そうです。」
ダレンが言葉を続けた。
「ヴラントは、自らを守る術を持たず成長の遅い木々が、自分たちを守ってくれる存在を求める願いから生まれたと伝えられています。森を守り、外からの侵入者を退け、木々を慈 しむ存在だったと。ですが今は、その姿を見ることができません。なぜなのかはわかりませんが、少なくとも私の祖父もヴラントを直接見たことはないとおっしゃっていました。」
「古くからこの森に生きてきた存在たちなのですね。今は姿を現さないという……」
「体もひどく大きかったと言います。エルフたちは彼らを『木の巨人』と呼ぶこともあれば、太陽と月明かりの下でもっとも年老いた存在という意味の名で呼んだとも言われていますが……なんと言ったかな……。とにかく、最も若いヴラントでさえ身の丈が6キュビト(3メートル)もあったというのですから、本当に途方もなかったことでしょう。そしてアオルンという森の番人たちと共に、彼らは今もどこかで眠り続けていると伝えられています。」
ダレンが言葉を締めくくろうとした、まさにその瞬間、周囲から奇妙な音が聞こえてきた。茂みの揺れる音と低い息遣いが重なって、森の静寂を破った。
「……ん?何の音でしょう?」
ダレンが振り向こうとした刹那 、森の中からトロルが三体、どどっと走り出してきた。苔と泥まみれの巨大な体に、手には重く荒削りな木の棍棒 を握っていた。
「GWaaaaaa!」
「うわあああ!トロルだ!」
ダレンが叫んだ。
ニアとイリスは迷うことなく動いた。ニアは素早い動作で最前のトロルへと突進した。
ニアの剣が森の影を裂くように鋭い弧を描きながら振るわれた。トロルが振り下ろそうとしていた棍棒は剣の軌跡 とともに瞬く間に真っ二つに断ち切られ、続けてニアはトロルの腕と脚を一息に斬り飛ばした。剣はたちまちトロルの首へと走り、大きな頭が地面に落ちてどうと音を立てた。
イリスは右手のトロルへと剣を抜いた。彼女の動きは落ち着いていながらも鋭かった。トロルが攻撃を仕掛ける間もなく、イリスの剣がその腹部を深く切り裂いた。トロルが悲鳴を上げてよろめいた瞬間、イリスは素早く剣を引き戻して頭部へと振り抜いた。トロルはその場に倒れ伏した。
そしてイリスは最後のトロルへと身を躍らせた。素早い動きでトロルの脇へと回り込んだイリスは、飛び上がるようにして剣を振るい、トロルの首を一息に断ち切った。三体目のトロルが崩れ落ち、地面が揺れた。
それらすべてが、ほんの数秒の間に起きたことだった。
ダレンは目をぱちぱちさせながら言った。
「……すごいですね。お二人とも。」
「大したことないだる〜。」
ニアが軽やかに微笑んだ。イリスは剣をゆっくりと納めながら周囲を確認した。
マウは息を整えながら言った。
「トロルを三体……こんなにあっという間に倒してしまうとは……」
*****
深まりゆくベルラントの森。空には赤みを帯びた暗い光がじわじわと消えゆき、濃い闇が森全体を包み込んでいた。
木々は細い枝を伸ばして互いに絡み合い、空を覆っていた。足元には落ち葉と苔が入り混じり、歩みを重くした。時が経つにつれ、森の生き物たちさえ声を潜めたかのように、ただ深い静寂だけが漂っていた。
そんな森のただ中で、橙色の炎が闇の中から少しずつ立ち上り始めた。
焚き火の光が枝の間で揺れながら外へ滲み出るさまは、まるで闇の中で巨大な瞳がゆっくりと目を開くかのようだった。炎は次第に大きく育ち、周囲にじんわりとした温もりを広げた。森の静けさを揺り起こすように、枝の燃える音がかすかに広がっていった。
「さてと……火をおこすのは簡単だが、きちんとやらないと長持ちしないぞ。」
クラバが焚き火の傍らに立ち、低い声でつぶやいて一行の視線を引いた。彼の白い髪が炎の光を受けて、まるで銀糸のように輝いていた。
ゆっくりと身をかがめて石を拾い上げたクラバが、手にした石を焚き火の脇に慎重に置いた。
「こうして石を丸く並べてやると、な。」
彼は手振りで周りの石を指しながら言葉を続けた。
「火が中心から熱を放つとき、この石たちがその熱を受け取って、また火へと返してくれる。そうなれば、火はより熱く、より長く燃え続けることになるわけだ。」
その言葉に一行は関心を示し、静かに近づいてきた。クラバは石を一つずつ丁寧に拾い上げ、焚き火の周りを丁寧に囲っていった。
「それにこの石たちは、横から吹く風を防ぐ役割も果たしてくれる。火は息をしてこそ生きるが、あまりに強い風の前では弱くもなる。だからこうして石を置いてやることが大事なんだ。」
ダレンが頷きながら言った。
「つまり、石をやみくもに並べるのではなく、火が息をするための隙間をちゃんと作ってやる必要があるということですね。」
「そういうことだ。飲み込みが早いな。」
クラバが微笑みながら答えた。
「石で火を囲みながら、息のできる空間を残してやらなければならない。だがそれだけじゃない。」
彼は石の一つを手に取り、ゆっくりと回しながら言葉を続けた。
「適度に熱せられた石は、焚き火が消えた後も長く熱を宿しておくものだ。だから懐に抱えられるくらいの手ごろな大きさの石を選んでおくといい。こうすれば、朝に野営地を発つときに取り出して、しばらく温かさを保つことができる。」
マウが首をかしげながら尋ねた。
「そういう石はどうやって選ぶのですか?」
「ごく簡単なことだよ。」
クラバが石を置きながら答えた。
「石を両手で包んで温もりを伝えてやる。それから片方の手の上に乗せて表面を触ってみる。するとよい暖炉石 になるものは、冷たい箇所がなく、まんべんなく温もりを保っているはずだ。」
焚き火の周りの空気が次第に温まってくると、皆が火の傍らに寄り集まり、見事に積まれた石の様子を改めて眺めながら、クラバの技に感嘆した。
「さすがは石積みの達人ですね。」
「ラボロスの石工でなくとも、みんなこのくらいはできるものだよ。石を積むのは単に力だけが必要なことじゃない。石一つひとつがどのように息をし、どのように熱を宿すかを知ってこそだからな。」
クラバが笑いながら言った。
一行は彼の言葉に耳を傾けながら、それぞれ焚き火の温かさをかみしめた。炎の光は森の闇を押しのけ、彼らの周りを包んだ。クラバの声は静かに広がって、ひとときの間、皆の心をほっとさせた。
そうして焚き火の温もりの中、一行はしばし静けさに満ちた時を楽しんでいた。クラバの丁寧な石積みのおかげか、火は安定して燃え続け、炎の光がやわらかく一行の顔を照らしていた。だがその安らぎも、長くは続かなかった。
焚き火の温もりの中に束の間の平和が漂っていたそのとき、ニアが鼻をひくひくさせると、突然目をきらりと輝かせて叫んだ。
「なんかおいしそうな匂いがするだる〜!」
その言葉に、一行全員の視線がニアへと向いた。
「ニア、どうしたのですか?」
ダレンが驚いた顔で尋ねた。
ニアは返事をする代わりにその場からぴょんと立ち上がり、そのまま森の中へと飛び込んでいった。
「おい!ニア、待てって!」
マウが叫んだが、ニアはすでに闇の中へと消えていた。
「何の匂いだったのでしょう?それにしても……本当においしそうな匂いがするものなのですか?」
ダレンが首をかしげた。
しばらくして、ニアが再び姿を現した。両手に深い紫色でほんのり赤みがかった、でこぼこした実を一つ抱えていた。ニアが実を皆に見せながら叫んだ。
「これ見るだる〜!おいしいやつだる!」
「これは何ですか?」
ダレンが目を細めながら言った。
「森の中で見つけただる!いい匂いもするし形も不思議だる!」
ニアは実を片手でくるくると回しながら言った。
「ちょっと待って……これは見たことのない実だな。」
マウが近づいて実を観察した。
「大きいし、でこぼこしてるし、どう見ても毒のある実じゃないですか?」
「匂いがいいなら毒はないってことだる!食べるだる!」
ニアが実を一口かじろうとした瞬間、ダレンが慌てて翼を伸ばしてニアを制した。
「だめです!なんだかわからないものをそんなに気軽に食べたらどうするんですか!」
ダレンは顔を青ざめさせながら言った。
「うぅ〜……でも本当にいい匂いなんだる!」
ニアは実を再び持ち上げてくんくんと匂いを嗅ぎながら、幸せそうな表情を浮かべた。
ダレンは実をじっくりと見ながらつぶやいた。
「ウィングルベリ……いや、ブラックベリーでもなくて……。あっ!もしかしてヴラントの実?」
「ヴラントの実?」
マウが目を丸くして尋ねた。
「まさかあの伝説の実のこと?」
「そうかもしれません。でも食べていいかどうかは、誰にもわからないんです。」
ダレンが首を横に振った。
「確かめる方法は一つだる!わーい!」
ニアは目をきらきら輝かせながら実を持ち上げ、大きく口を開けた。だがその瞬間、グラベルが手を伸ばしてニアを制した。
「待って、ニア。私が食べてみるよ。解毒の呪文を知っているから、もし毒があっても私なら対処できます。」
その言葉に、皆がしばし驚いた顔でグラベルを見つめた。しかしグラベルが実を手に取ろうとした刹那、イリスが静かに前に出た。
「なりません、グラベル様。」
彼女は真剣な表情で言った。
「そのような危険なことは、私が代わりに行います。」
イリスはグラベルに向かって頭を下げながら言った。
「主君に危害が及ぶ可能性のあることは、私がやるべきです。それが私の務めです。」
ニアは実を差し出しながら笑った。
「よし!師匠が食べておいしかったら私も食べるだる!」
イリスは何も言わずに実を受け取り、丁寧に皮をむいた。白い果肉が姿を現した。
「ふむ、見た目には毒がなさそうですが……」
彼女は迷うことなく果肉を切り取り、口に入れた。
イリスが白い果肉を口に含んだ瞬間、一行全員が息を呑んで彼女を見守った。皆の表情がじわじわと緊張で固まっていった。
「あ……あの、大丈夫ですか?姉さん?」
マウが恐る恐る尋ねた。
しかしイリスはいっさい返事をせず、ただゆっくりと噛み続けるだけだった。彼女の眉がわずかにぴくりと動いた瞬間、ダレンが突然叫んだ。
「もしかして毒で体が固まっているのですか?」
「ちょっと待って、まさか麻痺毒とかじゃないよな?!」
マウも慌てた顔で言った。
「本当に大丈夫なのかだる?!」
ニアは手をばたばたさせながらイリスの顔を見つめた。
「解毒の呪文を準備した方がいいでしょうか?」
ダレンがグラベルに向かって尋ねた。
「あ……はい。いや、ちょっと待って……イリス、返事をしてくれ!」
グラベルはイリスから流れるマナが依然として安定していることを感じていたが、直接確認した方が確かだと思いながら言った。
イリスは相変わらず無言のまま、顎を動かし続けていた。彼女の口の端がわずかに下がるように見えた瞬間、ダレンが頭を両手で抱えながら叫んだ。
「大変だ!これは絶対に毒です!イリスさんがあんなに返事をしないのは、体が固まって動けなくなっているからに違いありません!」
「姉さん、本当に大丈夫なんですか?」
マウが泣きそうな顔で言った。
「あんなに長く返事がないのは、やはりおかしいと思うべきじゃないのか?」
クラバは炎の向こうに腰かけながら、額をこすりつつ言った。
「グラベル様、早く解毒の呪文を!」
ダレンが叫んだ。
そのとき、イリスが静かに口を開いた。
「……おいしいです。」
一行は一瞬、言葉を失った。
「……なんとおっしゃいました?」
ダレンが呆気 にとられた顔で聞き返した。
「おいしいと申しました。」
イリスは真剣な顔でもう一度答えた。
その言葉を聞いた瞬間、皆がその場にへたり込んで笑い声を上げた。
「そんなに大真面目に言わなくてもいいですよ!」
マウは笑いをこらえられずに言った。
「姉さん、毒にやられたかと思ってどれだけ驚いたか!それがおいしいだなんて!くははは!」
ダレンもお腹を抱えて笑った。
イリスは依然として真剣な顔で言った。
「甘くて……ほんのり酸味もあります。グラベル様にもお出ししましょうか?」
グラベルが手を振りながら言った。
「いい、いい。十分安全だとわかったから。それにしても……本当にそんなにおいしいの?」
イリスは頷きながら答えた。
「はい。とてもおいしいです。二つ目もいただいてよろしいでしょうか?」
「結構です!」「結構です!」
ダレンとマウが同時に叫んだ。
ニアは笑いを止められずに言った。
「よし!じゃあこの実の名前は今から『おいしいだる実』に決めるだる!」
森の闇の中にしばらく響いていた笑い声は、また焚き火の温もりの中へと溶けていった。ニアはなおも実を手に持って匂いを嗅ぎながら幸せそうにしていた。イリスは黙々と席に座り、剣を手入れし始めた。
焚き火はいつまでも、変わらず一行を温かく照らし続けていた。
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