用済みですか。では十四年ぶんの香の合わせの控えを置いて香部屋を出ます。冬の披露の晩、客の前で香が途中で切れます
「寝かせは無駄です」
声が、壜の口へ添えたネリッサの指先まで届いた。二年寝かせた小壜は両手に収まるほどで、朝の広間では、銀盆のほうがよほど立派に見えた。
ネリッサは指の腹で口を温めたまま、顔を上げた。長卓の向こうには若い衆が並び、花を納めに来た商人まで帰らずに立っている。皆、アイヴォ・ダージではなく、彼女の返事を待っていた。
「混ぜるだけの仕事に、二年も棚を塞ぐ必要はありません。寝かせに払っていた費えも、明日からは止めます」
アイヴォは手控えを閉じた。隣にいたセルヴァス・モークが口の端を上げ、若い衆へ肘を当てる。笑い声は二人ぶんになった。
「明日から、香合わせはこの者たちにさせます。あなたは今日じゅうに配合を渡してください」
「今夜、お客様へお出しするぶんは」
「それまでは、あなたの務めです」
銀盆の端に、ネリッサの爪が一度触れた。小さな音だったが、商人の一人が咳払いをやめた。
「承知しました。では、今夜のぶんは、いつもどおりに」
「それで結構。難しいことではないのです」
アイヴォは小壜を覗き込みもしなかった。壜の中では、菫と忍冬と橙花が、まだ蓋をされたまま夜を待っている。
「香は、良い花を入れれば立ちますでしょう」
ネリッサは小壜を銀盆へ戻した。返事の代わりに蓋を確かめると、十四年でついた指の跡が、曇った硝子にもう一つ増えた。
* * *
「菫は」
「三杓です」
「忍冬」
「二杓。夏至を越えたものなら、一杓半に」
「紙には二杓と書け」
アイヴォは壁の控えを上から剥がした。春の湿り、夏の照り、秋の長雨、寒に入る週。糊の乾いた音がするたび、紙の下から色の違う壁が細長く現れた。
剥がされた控えはセルヴァスの腕へ積まれた。彼は花の名と杓の数だけを書き写し、広間の柱へ一枚ずつ貼っていく。
「橙花は三分の一、と。ほらな。三つ入れて混ぜるだけだ」
セルヴァスが柱を手の甲で叩いた。紙が震え、そばの商人が身を寄せて数字を読み、そのまま若い衆へ場所を譲った。
「これで誰でも作れる。なあ、家令様」
「そのために公開したのです。家の仕事を一人の頭の中へ閉じ込めてはいけません」
アイヴォはネリッサの返事を待たず、次の控えへ手をかけた。紙の端には、前年より忍冬を半杓減らす印があったが、彼の親指はその上を折って隠した。
(香なんぞ、良い花を買えば済む——)
「この年だけ、なぜ量が違う」
「その年の花が、前の年と同じ返事をしなかったからです」
「花は花でしょう」
「花は数えられます。季節まで同じ返事をするかは、存じませんけれど」
セルヴァスがまた柱を叩いた。
「三杓は三杓さ。季節が杓を持つわけじゃない」
若い衆の口が揃って開きかけたところへ、衣擦れがした。サンチャ・ラティマーが広間の入口に立ち、剥き出しになった壁と柱の紙を見比べた。
「引き継ぎは進んでいるの、アイヴォ」
アイヴォは剥がした控えをセルヴァスの背へ回し、腰を折った。
「はい、奥様。以前と同じ配合でした。余計な寝かせの分だけ、費えを改めております」
「そう。ネリッサ、今夜もお願いね」
「承りました、奥様」
サンチャは客間へ戻った。セルヴァスの背から控えが出てくると、アイヴォは残りも剥がすよう顎を振った。
ネリッサは問われた量を、問われたとおりに答えた。剥がされた紙が腕いっぱいになるまで、柱の向こうにある空いた棚へは、一度も目を向けなかった。
* * *
その夜の香は、最後の客が席を立つまで切れなかった。初めに菫が絨毯の低いところを渡り、忍冬が灯の高さへ上がり、橙花は扉が開くたび廊下までついていった。
ネリッサは火を落とし、杓を拭き、器の縁を布で二度なぞった。大杓は右、小杓は左、濾し布は乾いたものを下にする。十四年間そこにあった形へ戻すと、机の上には何も残らなかった。
近隣の三軒へは、短い言伝を書いた。花の量も香の名もなく、寒に入る週だけを一行ずつ変えた。封をした三通は、翌朝の荷車へ渡せるよう、花籠の脇へ並べた。
夕食の盆は冷えていた。ネリッサは香部屋の裏の暗い小部屋で、立ったまま固いパンをちぎり、煮豆を杓で口へ運んだ。杓が空になるたび、棚から下ろすべきものを一つずつ数えたが、持って出るものは増えなかった。
寝台の下から、一番の外出着を出した。濃い灰色の襟を払い、緩んだ釦を留め直す。針を布へ戻したところで灯が傾き、ネリッサは新しいものを足さずに仕上げた。
夜明け前、香部屋へ戻った。控えを書き写す間、外では荷車が一台ずつ門を出ていった。三通の言伝もそれぞれ別の籠へ入り、花の下に隠れて運ばれていった。
最後の紙へ日付を書き、机の中央で角を揃えた。小壜の列には触れず、器の位置も変えず、ネリッサは灰色の外出着へ袖を通した。
* * *
「これで全部か」
「十四年ぶん、書き写しました。花の量、合わせた日、開ける見込みの日までございます」
翌朝、アイヴォは机の控えを親指で弾いた。紙は厚く、彼が柱へ貼らせた一枚より重かった。
「見込みなどは要らない。開ける日は、必要になった日に決めればよいのです」
「家令様のお決めになることです」
「最初から素直にそう言えばよかった。家の費えを預かる者として、無駄を見過ごすわけにはいきませんからね」
セルヴァスが扉のそばで、控えの厚みを目で測った。昨日までネリッサの腰にあった鍵は、机の端に置かれている。
「承知しました」
ネリッサは鍵から手を離した。アイヴォは一番上の控えをめくり、早くも次の紙へ指を移していた。
空になった机を回り、棚の前へ立った。並んだ壜のうち、二年寝かせた小壜へ指が伸びる。口まで指一本のところで、その手だけが止まった。
「それも控えにありますね」
「ございます」
「ならば置いていってください。家の花で作ったものです」
ネリッサは一段だけ声を落とした。
「わたくしはこの一壜を、十四年、わたくしの香だと思うて寝かせておりました」
指を下ろし、外出着の袖口を整えた。小壜は棚の奥で、朝の細い光を受けていた。
「ですが、家令様の仰せのとおりです。こちらへ置いてまいります」
「当然です」
アイヴォは控えを胸の前で揃えた。セルヴァスへ最初の一冊を渡し、柱の紙を見て頷く。二人の靴先は、揃って香部屋の内側を向いていた。
ネリッサは机と棚の間を抜けた。扉の外へ出ても呼び止める声はなく、敷居を越えた足の後ろで、セルヴァスが次に開ける壜の名を尋ねた。
「控えに書いてある。上から使え」
アイヴォの声と、紙を繰る音が追ってきた。ネリッサは廊下を曲がり、玄関でサンチャへ一礼した。
「今までありがとう、ネリッサ。次の勤め先は決まっているの」
「いいえ、奥様」
「それなら、決まるまで離れを使ってもよいのよ」
「本日で務めを終えるよう、家令様より承っておりますので」
サンチャの手が、胸元の飾り釦に触れた。ネリッサはもう一度礼をし、門番へ鍵のない両手を見せて門を出た。
夏の初めの道には、花を積んだ荷車の轍が三本残っていた。灰色の裾が土を拾ったが、ネリッサは払わず、そのうち一番深い轍に沿って歩いた。
* * *
半年、ラティマー家の香は変わらなかった。棚にはネリッサが合わせ、寝かせ、開ける日まで見込んだ壜が残っていた。宴のたびに一本ずつ銀盆へ載せられ、菫も忍冬も橙花も、客の衣へ以前と同じように移った。
アイヴォは広間の柱を商人へ示した。貼り出した配合は少し黄ばんでいたが、数字は読めた。
「ご覧のとおりです。仕事を整理すれば、誰が作っても同じものになる」
セルヴァスはそのたび柱を叩き、若い衆へ壜を運ばせた。新しく合わせた香は棚の奥へ入り、手前に残る古い壜が減っても、誰も開ける順を変えなかった。
ネリッサは修道院の洗い場を借り、灰色の外出着の袖を捲っていた。寝床と引き換えに布を洗い、香草を刻み、頼まれたときだけ礼拝堂の香を合わせた。
ある朝、エフレム・タールが花籠を担いで門をくぐった。ネリッサの名を聞くと、荷を下ろすより先に、胸元から折り畳んだ紙を出した。寒に入る週だけを書いた言伝は、何度も開かれ、折り目が白くなっていた。
「エフレムさん。届いていたのですね」
「ああ」
「ラティマー家へお納めする花のことで、少しだけ気になりましたので」
エフレムは言伝を元の折り目で畳み、胸元へ入れた。
「奥さん。おれたちはあの家に売ってたんじゃない。あんたの鼻に売ってたんだ」
彼は花籠から菫を一束抜き、洗い場の石卓へ置いた。値札も納め先の札もついていない。
「寒へ入ったら、一軒、合わせてほしいと言ってる。もう一軒もだ。返事は急がん」
「修道院のお務めがございます」
「院のぶんも合わせてると聞いた」
エフレムはそれだけ言い、空いた肩へ花籠を戻した。ネリッサが菫を返そうとすると、彼は門の外から顎を振った。
「それは鼻代だ」
昼、講の女衆が洗い場までネリッサを呼びに来た。長卓ではなく、台所の炉を囲んで敷物が丸く置かれている。
「手が空いたなら豆を食べな。冷めるよ」
「菫は食べられないから、そっちへ置いときな」
「席、ひとりぶん詰めて。いや、広げりゃいい」
女たちは車座を一人ぶん広げ、中央へ湯気の立つ椀を置いた。ネリッサは両手で受け取ったが、すぐには杓を取らなかった。椀の熱が指から掌へ移り、灰色の袖口まで湯気が上がる。
「塩、足りないかい」
「いいえ。豆の味がいたします」
「豆なんだから当たり前さ」
隣から黒パンが押しつけられた。ネリッサは膝の上でちぎり、椀へ落とした。杓が底へ触れるまで、誰も立たなかった。
その週から、修道院の小さな棚に壜が置かれた。依頼を書いた紙には家名の脇へ、受ける者としてネリッサ・クームの名が添えられた。
* * *
冬の披露の日、ラティマー家の寝かせ棚は手前から空いていた。残っているのは、若い衆が柱の配合を見て合わせた壜だけだった。
セルヴァスは菫三杓、忍冬二杓、橙花三分の一と読み上げ、アイヴォが選んだ壜を銀盆へ載せた。火を入れた直後、香は天井まで上がった。
「どうだ。前と同じだろ」
セルヴァスの手が柱を叩いた。客は席につき、扇が開き、楽師が一曲目を終えた。
半刻もすると、菫が絨毯から消えた。忍冬は灯へ届かず、橙花は扉が開いても廊下へ出なかった。
一人の客が扇を止めた。向かいの客も止め、次いで末席の二人が扇越しに顔を見合わせた。楽師の弓だけが、二曲目を続けていた。
「香を替える頃かしら」
「ただいま替えたばかりでございます」
若い衆の返事に、客の一人が銀盆を見た。そこには火の入った器があり、煙も細く上がっている。
「煙はあるのにね」
セルヴァスは柱を叩いていた手を背へ隠した。客から配合を問われると、紙ではなくアイヴォへ顔を向けた。
「家令様のご指図どおり、書かれた量を合わせました」
「花が悪かったのではないか」
アイヴォは商人を探したが、広間に残っている商人はいなかった。客の扇は閉じたまま、膝の上に横たわっている。
翌週から、招きへの返事が薄くなった。断りの文は短くなり、返事そのものを寄越さない家も出た。年明けの席順を知らせる書状から、ラティマー家の名が抜けた。
「あの家は寝かせが抜けたんだとさ」
若い衆の前で、セルヴァスはそう言った。柱の紙を貼った者の名は口にせず、指示した者の名だけを何度も出した。
サンチャは返ってきた招待状を抱え、香部屋へ入った。アイヴォは彼女の足元へ椅子を寄せ、尋ねられる前から口を開いた。
「奥様、花の出来が例年と違ったものと存じます。寒さも早く、若い者の火加減にも不慣れがございましたが、配合そのものは以前と同じでございます」
「以前の控えを見せて」
「柱に、分かりやすく整えてございます」
「机へ残された十四年ぶんは」
アイヴォは袖口を引いた。セルヴァスは壁際へ下がり、呼ばれるまで顔を上げなかった。
「見込みや季節の書き込みは、配合には不要でしたので。奥様のお家の費えを思いまして、わたくしが整理を」
サンチャは柱の紙を一枚剥がした。花の名と杓の数しかない紙を二つに折り、持ってきた招待状の上へ置いた。
「アイヴォ。明朝から香部屋へ入らないでちょうだい」
「ですが、奥様、今ここでわたくしを外されますと、客方へのご説明が」
「わたくしが参ります」
アイヴォの腰から鍵束が外された。彼は一度握り直したが、サンチャが差し出した盆へ置いた。金属が重なり、香部屋の中で長く鳴った。
翌朝、サンチャは自分の馬車で門を出た。香の切れた席にいた客を一軒ずつ訪ね、同じ衣のまま日が落ちるまで戻らなかった。
ネリッサのいる修道院へ、再建の手控えも、費えの請求も届かなかった。閉じられた香部屋の鍵はサンチャが持ち、アイヴォの名は家令の札から外された。
* * *
修道院は北側の物置を空け、窓を一つ直した。近隣から運ばれた棚と机は揃いではなかったが、どちらもネリッサの腕の高さに合った。
「ここなら寒の入りも分かる。壁が先に冷えるからね」
講の女が窓枠を叩いた。別の女は豆の袋を机の下へ押し込み、仕事の邪魔にならない場所だと言い張った。
修道院の香に続き、近隣の三軒から仕事が来た。一軒の使いは壜を置くと、家の名より先にネリッサの名を確かめた。
「クームさんへ頼めばよいと、エフレムさんから」
「お預かりします」
「開ける日は、お任せしても」
「花を見てから、お返事いたします」
窓辺には新しい小壜が一つ置かれた。札には依頼主の家名ではなく、ネリッサ・クーム合わせ、と女衆の丸い字で書いてあった。
戸口へ影が差したのは、その日の午後だった。アイヴォは外套の襟を立て、帽子を両手で持っていた。腰に鍵束はなく、後ろに若い衆もいない。
「クーム殿。少し、お話を」
「家令様」
「もう家令ではありません」
「では、アイヴォさん」
呼び直されると、彼は帽子の縁を握った。窓辺の小壜ではなく、机に重ねられた依頼の紙へ目を走らせる。
「ラティマー家へ戻っていただきたい。奥様も、あなたなら受け入れられるはずです。給金は以前より上げますし、部屋も、あなたの望むように使ってよい」
「奥様のお言葉でしょうか」
「今は誰の言葉かを論じている場合ではありません。招きの返事が戻らないのです。春の席にも名がない。このままでは、わたくしの差配まで、すべて誤りだったことにされる」
アイヴォは一歩入り、机へ帽子を置こうとした。ネリッサが依頼の紙を机の中央へ寄せると、その手は置き場所をなくして下がった。
「配合は残っています。あなたには、それを以前のように仕上げてもらうだけでよい。半年、いや一年でも構いません。必要な費えはこちらで」
「香は、良い花を入れれば立ちますでしょう」
アイヴォの口が止まった。戸口の外では、女衆が鍋の蓋を鳴らし、豆が煮えたと誰かを呼んでいる。
「あれは、そういう意味では」
「本日の合わせがございますので」
「クーム殿」
「お帰りの道は、まだ明るうございます」
ネリッサは戸口を塞がなかった。アイヴォは帽子を被らずに敷居を越え、廊下の端で一度振り返ったが、呼び戻す声のないまま外へ出た。
「用が済んだなら、豆を食べな」
「今日のは根菜も入ってるよ」
「席、そこを広げて。ネリッサの椀を真ん中へ」
女衆が車座を一人ぶん広げた。ネリッサは湯気の立つ豆のスープを両手で包み、黒パンを半分、隣へ返した。
「明日の壜、いつ開けるんだい」
「まだ決めません。今夜の冷え方を見て、朝にお返事します」
返事を終えると、ネリッサは窓辺の小壜へ指を添えた。今度は止まらなかった。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




