80.ドレスの重み
議会を経て正式な報告が王城にきたのは、ひとつの地区が完全に汚染されてからだった。
王都内の他の地区でもぽつぽつと監視員の立つ家が出てきていた。
もちろん独自の情報収集はしていたし、すでに王城も外からの出入りを制限していたけれど、王族の地方への疎開も現実味を帯びていた。
悪疫が猛勢をふるっているのが貧民窟とはいえ王都の中心部のため、以前グラナトでやったような地域ごと閉鎖して捨て去る、ということはできない。
王立科学アカデミーの医師たちが黒死病の予防薬と治療薬を開発しようとしているが、この疫病に人間がどこまで対抗できるのか。
病死者の遺体の速やかな埋葬と、感染者とその家族の外出の禁止。
病に侵された人の衣服や毛布にも病魔が潜んでいるから、死者の持ち物の焼却処分。
今はそれくらいしか出来ることはなかった。
国民議会が政治の主導権を持っているけれど、貴族中心とはいえ国民議会単独での政策を立てられるほど議員が成熟していないし、予算の整理もはっきりしていない。
議会は王立科学アカデミーの助言に従って対処しようとしている。
そして「トイレの王妃様」ことわたし・ロジーナは、王立科学アカデミーの顧問だ。
王妃のための名誉職といえばそうなんだけど、水洗トイレの件からずっと、アカデミーの人たちとは仲良くしている。
「下水の掃除人の感染が多い印象です。あとは墓堀人も」
「どうやっても埋葬するときに遺体と接触してしまうからなあ」
「菌が混ざった排泄物の処理もうまくいってません。特に貧民窟のあたりです」
「トイレがまだ自動水流洗浄になっていないあたりか」
「設置の予算の補助を出してはどうですか」
「補助を出したところでその日暮らしの人間が自動水流洗浄トイレにするとは思えん」
「アパートの建設基準に自動水流洗浄トイレの設置を入れるとか」
「いやもっと今すぐ出来る対策が欲しい」
「巷では焚火が効くとか言っているが」
「そういう迷信が駄目なんだ。町医者が予防薬と言って黒い丸薬を売っているが、あれも小麦粉に墨を混ぜただけのもので、とんだ嘘っぱちだ」
「まだ民間療法のほうがマシだが……、あれもまやかしのようなものだ」
「規制する条例を作ったほうがいいでしょうね」
「黒死病に限定した診療所をもう二か所ほど開設したいのですが、予算に地方の貴族からの寄付をあてることは可能ですか」
「議会に諮りますが、おそらく可能です。複数の議員からも同じ意見が上がっています」
「では議会には診療所の開設と、偽薬や偽医療規制の条例を出していただくということで」
「早急に進めます」
「ところで」
科学アカデミーから十人の医者、国民議会から十人の議員が集まった会議。
立会人として、一歩引いたところからそれを眺めていたわたし。
静まりかえった議場に、平民議員の堂々たる声が響いた。
「王妃陛下からは何かございますか」
みんなの眼が一斉にこちらを向く。
国民議会の議員には、王妃の面前にいるという高揚と、社交の場で微笑んでいるだけの王妃には手出しできない国難の中で舵取りをしているという優越の表情が浮かんでいる。
特にわたしに発言を求めた平民議員には、王族より上に立ったとでもいうかのような自慢気な気色が表れている。
こちとら何年国政に首突っこんでると思ってんだコラ。
元貧乏な男爵家の長女だったわたしは、さも生まれたときから王族であったかのような微笑みと、産まれてから一度も怯んだことなどないような声で、応える。
「王室としましても出来得る限りの支援をいたします。新しく開設する診療所にももちろん援助させていただきます。ただ、忘れてはならないのは基本的な事柄です。トイレが水洗でなくても、下水の掃除人にも、事を終えると手洗いをしっかりするように勧告してください。防護用の衣服の着用については医師から再度、地区に指示をお願いいたします。医師と看護人、下水掃除人夫と墓堀人夫には、防護服を無料で配布するように。また換気は充分にするように徹底してください。そして、国王陛下は」
うんうんと聴いてくれているアカデミーの人たちと、ぽかんと口を開けている議員たちは、国王陛下と言うと慌てて居住まいを正した。
「王立科学アカデミーと国民議会が最大限の協力をし、この厄災に国が打ち勝てるよう、ご期待なさっておられます」
そもそも前世で経験した感染症なんて、インフルエンザくらいしか記憶にない。
あとは小さいときの水疱瘡とかおたふく風邪とかで、専門家でもないわたしが思いつくのはこれくらいなものだった。
それでももはや「わたし」は王妃ロジーナでしかないのだ。
国の存続と繁栄を願って、そう働くのだ。
国民議会の議員たちは、暑くもないのにかいた汗を拭きながら、王室から寄付で増産される予定の石鹸について話し始めた。
以前は貴族や国外の賓客をもてなしていたカルセドニー宮で、このような話し合いが行われていることに、時は止まっていてくれないのだとつくづくと見やる。
わたしはいつまでこの重苦しいドレスを着ていられるのだろう。




