下
チリン……チリリリン……。
長者の屋敷にいる真火の耳にも科戸の風鈴の音が届きます。もちろんあの工房の窓辺にかけられた風鈴ではありません。町のいたるところに科戸の風鈴がかけられているのでした。
涼しげでかすかに切なさを乗せたその音色と朱一色で描かれた絵が人々の心をとらえるようです。
真火がいなくなった工房は新しく建て直されてからというもの、明かりがなくなったので日暮れまでしか働けなくなりました。
それでも科戸は多くの職人を抱えるお頭となりました。長者が工房立て直しに関わっているとの噂が広がり、次々と風鈴や金魚鉢を欲しがる人が現れたため、仕事も職人も増える一方でした。
そんな噂を風の便りに聞くたびに真火は体の芯から熱が湧き出るのを感じるのでありました。
けれども近頃は科戸の噂を耳にすることもめっきり減ってしまいました。それは科戸の硝子が売れなくなったわけではありません。真火が外に出されなくなったからです。
帝の御前での舞を立派につとめ、その後も長者の屋敷の玄関にいて朝な夕なにお客様をお迎えしたものでした。どなたもその小さなお日様の明るさに心奪われ、長者も満足げでした。
しかし、ある日、長者の孫が毬で遊んでいて金魚鉢を倒してしまい、真火は庭先にまで放り出されてしまったのです。
真火はあわてて横倒しになった金魚鉢にもどりましたが、その通り道は植木も敷居も上り框も火の帯が走りました。
びっくりした長者の孫が大泣きしたことですぐに女中が飛んできて火を消し止めたので大事にはいたりませんでしたが、それきり真火は表に出されることはなくなったのです。特別なお客様がいらっしゃる時だけ連れ出されて披露されるのでした。
真火は誰も訪れることのない暗い部屋で日々を過ごしています。食べることも寝ることもしないですむ体なので、それでも困りはしません。
誰に会うこともない日は舞もせずただとろとろとその炎の身体を揺らめかせるのでした。
思い出すのは丘の上の林から吹いてくる風、風に揺れる風鈴の音、工房の暑さ、科戸の作る硝子のこと、科戸の声、科戸の手、科戸の笑顔、科戸の――。
*
ただ淡々と日々は過ぎていきます。
真火はもうお客様の前に出されることもなくなりました。もしかしたら長者は、危ういものをお客様の前に出して火傷や怪我をさせてはいけないと思ったのかもしれません。それとももう真火のことなど忘れてしまったのかもしれません。
ドォーンッ!
なにごとでしょう。突然、聞いたこともないような大きな音が響き、床や壁や空気がビリビリと震えました。近くや遠くで繰り返されます。
なにが起ころうとどんな目にあおうと真火の命の火が消えることはないのですが、それでもとても恐ろしく感じられました。
科戸は無事かしら――。
そんなことを思っていたからでしょうか。自分の名を呼ぶ科戸の声を聞いたような気がしました。
「真火っ! どこにいるんだ、真火っ!」
空耳ではありません。たしかに科戸の声です。なぜ――という疑問を持つよりも先に声が出ていました。
「科戸っ! 科戸っ! しなとーっ!」
「真火っ!」
目の前に現れた科戸の顔にはいくつもの皺が刻まれ、髪には白いものが混じっていました。
「真火……こんな地下牢のようなところに閉じ込められていたなんて。もっと早くに迎えにくるべきだった……」
「迎えに来てくれたの?」
「ああ、そうだよ。遅くなって悪かったね。さあ、一緒に逃げよう」
科戸に抱えられ外に出ると、町のいたるところで火の手が上がっていました。
「……いったいなにがあったの?」
「戦争だよ」
なんのことでしょう? 真火は聞いたこともない言葉でした。
空が暗いのでおそらく夜のはずですが、翼を羽ばたかせない奇妙な鳥たちが黒い卵を産み落としていきます。そのたびにドォーンッと地響きがするのでした。
「どこへ行くの?」
真火は多くの人に混じって走る科戸に問いかけます。
「防空壕だよ」
またしても知らない言葉です。けれどもきっとそこに行けばこの黒い卵が降ってこないのでしょう。
卵が落とされていない道には地面から背の高い棒が伸びていて、そのてっぺんには明かりが灯っていました。真火の舞と同じくらい明るい灯です。
ただ真火と違うのはその火には命が宿っていないのです。これがなんなのか真火にはわかりませんでしたが、いくつも並ぶこの明かりが現れたせいで真火はお客様の前に出されることがなくなったのだろうと思いました。
もう真火は珍しくもなければ特別でもないのです。
ドォーンッ!
黒い卵が近くに落ち、科戸は真火の金魚鉢を抱えたまま吹き飛ばされました。
パリーン……。
金魚鉢が割れ、真火は道端に投げ出されました。けれども地面は草ひとつ生えておらず、なにかを燃やしてしまう心配はなさそうです。
「真火、大丈夫か?」
科戸が倒れたまま声をかけてきます。
「わたしはなんともないわ。科戸は? 起き上がれる?」
科戸は首を横に振りました。
「足が……動かないよ……」
見れば明かりを灯す棒が倒れて科戸の足を押さえつけています。棒が木でできているのであれば燃やしてしまうこともできるのですが、なにでできているのか真火が触れても少しも燃える気配がありません。そうしているうちにも次々と黒い卵が降ってきます。
「科戸、しっかりして」
あの嵐の夜のように真火は自分の無力さを恨みました。
ドォーンッ!
「あぶないっ!」
科戸の手が伸び、真火を抱え込みました。
「だめっ! 科戸、手を放して!」
素手で真火に触れるなどもってのほかです。
「ぼくは真火に助けられたから、今度こそぼくが真火を助けるよ」
科戸は黒い卵から真火を守ろうとしているのでした。
「わたしは平気よ。なにがあっても消えないわ。だから放して。このままじゃ科戸が――!」
真火の炎がとろりと科戸の服に移りました。
「いやーっ! だめっ、放してっ!」
「放しちゃいけなかったんだ……あの時ぼくは君を放しちゃいけなかった。だから――」
ドォーンッ!
黒い卵が落ち、地上の風が渦を巻きます。
「いやぁーーーーーっ!!」
風に煽られ、真火の炎が燃え上がります。その揺れは楽しげな舞などではなく、ちろちろと嘆き悲しむ涙であり、めらめらと泣き叫ぶ声であり、とろとろと狂おしいほどに求める想いでした。
やがて真火の炎は科戸を飲み込み、町を飲み込み、羽ばたかない鳥にまで火の手が届きました。
大きく広がった真火は夜明けにようやく泣き叫ぶことをやめました。
燃えるものがなにひとつなくなった町を真火は小さな足でとぼとぼと丘を目指します。
工房の建物はありませんでしたが、あの泉は残っていました。
真火はそっと足をつけます。ジュッと小さな音がしました。
天上から落ちたあの日のようにとろとろとしたお日様の子の形に戻って水の底に沈んでいきます。
朱は青白く色を変え、深く深く沈んでいくのでした。
***
あれからどれほどの時が流れたのか、真火に知るすべはありません。
チリン――。
科戸がほほえみました。それがわかるから、真火は嬉しさに涙をこぼすのです。
チリリン……チリリリン……。
風となった科戸が真火を探しています。それがわかるから、真火は淋しさに舞うのです。
地上を走る科戸に真火を見つけることはできません。真火が科戸を見つめることもできません。
真火はただこの地の底で静かに舞い続けるしかないのです。
あの奇跡のような日々を思い出しながら――。
* 終 *




