第2話
「今夜は霧が深いな」
カイは遮光カーテンをめくり、窓の奥に広がる墨色の世界に目を凝らした。
床に置いたオイルランプの光がカーテンの隙間からベランダにふわりと漏れる。霧のせいでいつものようにそのオレンジの光は伸びやかさがない。
街灯も何もない街というのは、月明かりだけが頼りだが、崩れかけた建物の割れたガラスたちがそのほんの一筋の明かりを反射しあって、意外にも線をとらえることはできる。だが今日は濃い霧が光の道筋を完全に遮断していた。
ポリーは湯気の浮かぶマグカップを運びながら、カイの首元のよれたベージュ色の寝巻きを見て、数秒睨むように見つめた後カイにカップを差し出した。ポリーに表情があったなら、眉をひそめていただろう。
カイはマグカップを受け取りながら、霧の向こうに小さな赤い光を認めてカーテンを少し引いた。ベランダに溢れる光の量がさらに淡くなる。
ガサッ、パキッ、という何かが割れる音が微かに聞こえ、赤い光が素早く霧の中を横切った。ポリーがオイルランプのつまみを急いでひねり、部屋の中も、世界も全て墨色になった。
窓の外からパン、と言う音と、キャン、という声、続いてドサリという重たい何かが着地する音がした。まもなく何かを引きずる音。
カイはカーテンの隙間を除いたまま深い深い闇を見つめ続ける。奥も手前もわからない世界。目の焦点も合わない。もう赤い光も見えない。
「良かった、たぶん野犬だ」
カイはほっとして振り返り手元の珈琲を啜った。ただの野犬だ。人ではなく。
部屋の中は何も見えないが、ポリーの動く電子音で位置は掴める。しかし、手元の珈琲は想像していた以上に早く喉に流れ込み、熱さと驚きで咳き込んだ。
「ポリー、ランプをつけてくれよ」
「まだ微かに音が近くでします。今夜はこのままで」
「ええっ、これじゃ珈琲を飲めないよ」
カイは手探りでマグカップをベッド横のテーブルに置く。
「今夜はシティの飛び回りが多いようですよ」
カイは暗闇の中でポリーが耳をそば立てているのを感じた。実際は音声認識の範囲を広げている、が正しいだろう。モスキート音のような音がかすかに空気を揺らしている。
「灯りはないほうが」
「でもこの建物は除かれてるはずだ。君が前にそう言った」
「万が一、です」
「万が一、ねえ」
カイはのんびりとそう言ってベッドに腰掛けた。
「まだ早いし眠れないなあ。今日、ロクはいる?」
「明日はシティに行く日でしょう。帰ってきてからの方が良いのでは?」
「わかったよ」
カイは拗ねるようにそう言ってベッドに思い切り身体を委ねる。
目を閉じると、外からミシミシと軋む音が四方八方から聞こえた。昼間との気温差で古くなった建物が立てるこの音のせいで、この世界には夜も静寂というものがない。
カイはこの音を世界の悲鳴のようだと思った。目を閉じて、暗闇の中で限界を迎えた世界の断末魔を全身で感じる。音は頭の中をぐるぐると旋回しする。やがて昼間聴いた194の音楽が合流し、ミキサーで混ぜるように、ぐるぐる、ぐるぐると回った。
初めて血を見たのは、九つの時だった。
ロクがシティから受け取った新しい一式の器具を使って採取した、自分の血だった。
注射針を腕に刺すのは意外と平気だった。毎日のようにロクに手順を教えてもらっていたから、痛みはこんなものかと思ったほどだった。少し前に躓いて鉄の棒で脛を打った時の方が痛かったことも理由の一つだ。
驚いたのはその色だった。針が飲み込み吸い上げた血液は、容器の中で赤黒く光っていて、乾燥した干し肉を思い出させた。
月に一度、血を持って行けと言われた。それがお前の定めなのだと。やっとお前の番が来たのだと。
そしてそれから十年以上、月に一度だけ、カイは3本の容器を革のショルダーバッグに入れ、シティのある街の中心部へと向かう。
カイの住む団地からシティまでは歩いて二十分ほどだった。
直線にすると半分ほどで着く距離だが、深い森林に覆われ、急な勾配を下り、緑の巨大なすり鉢のようになった土地の底にある白いドーム型のシティへ辿り着くにはそれくらいかかった。
ポリーはシティに行く日は足である車輪をまるでロードバイクのような黒くて大きなものに替えて旅立つ。いつもの小さな車輪は凸凹には耐えられるが、急な坂道には心許ないからだ。
木の根が張り巡った坂道を一歩一歩踏み締めて、すり鉢の底にたどり着き、真っ白でカイやポリーの三倍はある高くて細長い扉の前に立つと、ゆっくりと扉がスライドした。
深い緑や茶色に囲まれた白い建物は、そこだけ切り取った写真を貼り付けたように現実味がない。足を踏み入れた瞬間、彩度の違いにいつも視界がチカチカと虹色に光るのがカイは苦手だった。
ドーム型の輪郭を添うように、廊下は左右に伸びている。カイは迷わず右へと進み、ポリーもその後に続いた。人々の生活の気配がする。でも、何故か外よりも建物の中は静かだ。




