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ひとつ、風を結いて 序章  作者: ひろくま


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序章ノ六 ”慶秀”

順番が前後してしまった章があります。

序章ノ伍を先にお読みください。

慶秀は生まれてすぐ、へその緒がついたまま捨てられた。なので、本当の親は知らない。

楠重蔵(くすのきじゅうぞう)は都でも評判の木工職人だった。観音像を得意としていて、これまでいくつかの寺の建造の際に本尊として観音像を掘ってきた。その技は「楠流(くすりゅう)」と呼ばれ、弟子も多く、重蔵の家には二十人ほどが寝食を共にしていた。慶秀はその中の一人だった。

小さい頃から(のみ)(きり)を遊び道具として、工房の木材の切れ端で兎や鳥などを彫って遊んでいた。その才能を見た重蔵は、他の弟子たちよりも厳しく慶秀を育てた。

一番弟子で年長の常秀(じょうしゅう)が、それを面白く思わなかったわけではないが、幼い慶秀が大人になるまでにはずっと時間がかかる。それまでには、自分が楠流を継ぐにふさわしい職人になるつもりでいた。なので常秀は楠流の品位と技を辱めぬように、慶秀たち弟弟子や、街の人たちとの交流に損なうものがないようにいつも務めていた。

慶秀が十二歳になったとき、重蔵が初めて慶秀に欄間を彫らせてみた。古くなった欄間を修復し、新しく彫りなおしてほしいという仕事で、慶秀の得意な兎や猿などの動物が彫られていたからだ。試しと、慶秀に仕事をさせてみたところ、前あった欄間より、生き生きとして今にも動き出しそうな兎と猿を彫った。その見事な出来栄えは、重蔵でさえも目を見張った。

「慶秀、何を思いこの欄間を彫った?」

「はい、これだけの欄間が飾られる部屋であるなら、他にも襖絵(ふすまえ)や天井にも飾りがあると思いました。なので、そのどれにも負けぬ、動き出しそうな動物たちを描いてみたいと思い、彫ったものです」

「・・・・そうか」

そういうと、重蔵は慶秀が作った欄間をたたき割った。

「何を!?」

驚く慶秀に重蔵が言う。

「この仕事は常秀にやらせる。お前には早かったようだ」

重蔵はそれ以上何も言わなかった。


常秀は慶秀の作った欄間を見ていただけに、戦々恐々としていた。だが、重蔵から仕事を渡されたときに胸をなでおろした。常秀はいつもより腕によりをかけ、真剣に臨んだ。

結局、常秀が作ったものが使われた。

「なぜ、慶秀の作ったものではいけなかったのですか?」

常秀は重蔵にこっそり聞いた。

「・・・本当のことを言うと、あれを飾るにはこの仕事ごときでは向かんのだ。出来が良すぎてしまう。このままあいつを認めてしまうと、慶秀は仕事以上のものばかり作ってしまう。それは職人ではない」

「・・・・」

・・・この仕事ごとき・・・。

常秀は任されて喜んでいた自分自身を恥ずかしいと思わずにいられなかった。自分のほうが慶秀よりも腕が劣っていると言われたような気がした。


仁平二年 冬


重蔵のところへ、内裏より使いが来た。

山城国の東山に清栄寺という寺を建立するにあたり、本尊となる不動明王像を作れという命であった。

重蔵は常秀と慶秀の二人を呼び出して、このことを話した。

「わしも歳をとった。このような大きな仕事は、もうお前たちのような弟子に任せていきたい。弟子たちの中から、ふさわしいと思い選んだのがお前たちだ。どちらか、この仕事を引き受けてくれんか」

常秀はうなづき、「承知いたした。任せられよ」と答えた。

一方の慶秀は、「興味がない。兄弟子にお任せする」と言って立ち上がろうとする。

「まて、慶秀!」

常秀が引き留める。

「お前とはいずれ、雌雄を決せねばならないと思っていた。どちらがこの楠流の後継にふさわしいか、この仕事をかけておれと勝負せよ!」

「・・・おれには興味がない。楠流の後継も、兄弟子がなればいい」

重蔵は困った表情で、「やれやれ」と口を開く。

「できればお前たち二人でやってほしかった。だが、慶秀、職人でありたいのなら、興味のないものでも作り上げなくてはならん。どんなに作りたくなくとも、お前の作ったもので人の心を動かすことができる。それならばすべてを尽くせ。お前に足らぬところは、木ではなく人と向かい合う心だ」

「・・・・」

慶秀はあきらめてもう一度座す。

「よし、では、二人でひとつづつ、能面を彫れ。その優越でこの度の不動明王像を彫るものを決める。よいな」

「承知」

「・・・・わかった」

否応なしに慶秀も承知した。


四日後、他の弟子たちも集まる中、常秀と慶秀の能面比べが重蔵立会いの元行われた。

「ここでおれが認めた者が宮の仕事を請負い、楠流の継承者となる。よいな?」

「承知」

「異論なし」

二人は頷く。

「まずは、おれの面を見てくれ」

常秀がそう言って、漆塗りの箱を差し出す。

重蔵は箱を受け取り、結びをほどき蓋を開ける。

「おお・・・」

慶秀以外の、その場にいた誰もが唸った。

その面は、増女で、人の肌よりも艶やかで生き生きとして美しく、陽の光で白く輝いていた。

「素晴らしい面だ」

「慶秀といえど、これ以上のものは作れまい・・・」

周りからは溜め息のような呟きが漏れてくる。

「次、慶秀、面を」

重蔵が促し、慶秀が木箱を差し出す。

重蔵が蓋を開けると、中に般若面が無造作に入っていた。

その出来は確かに良いものであったが、常秀の面ほどの輝きを持ってはいなかった。

「慶秀、お前、おれに勝たせようと手を抜いたな!?」

常秀が慶秀に掴みかかる。

「何を言う、この面は間違いなくおれが手をかけた中では最も素晴らしい出来だ」

「何を!普通の面ではないか!」

「いや、この勝負、慶秀の勝ちだ」

慶秀の面を手に持って眺めていた重蔵が不意に言った。

「・・・なんと?」

重蔵は満足した顔で面を箱に戻す。

「よくやった、慶秀」

慶秀は黙ったまま、頭を垂れる。

「なぜ、なぜだ、師よ?」

「よく見てみよ」

そう言って慶秀の面を常秀に差し出す。

不承不承面を手に取って見た常秀は、次の言葉を失った。

その般若は、持つ角度を変えても、その目が常秀を追い、目を合わせ続けていた。さらに睨みを利かせていた怒りの鬼の面は、下から見れば不気味に嗤い、上から見れば悲しみの顔に見えた。そして荒削りに見えた表面の荒さは、年輪のように顔に深さを感じさせた。

「確かに常秀の面は素晴らしい出来だ。だが、慶秀の面は、おれの教えを忠実に表現した。飾りは美しく目立つだけではない。まわりの全てに溶け込んでこそ、その真の力を出すものだ。面は生きものだ。生きるものには全てに表情がある。慶秀は見事にそれを面に表した。演じ手によって表情を変える面だ。あの欄間から、よくここまで来た。もはや、おれを超えたな」

常秀はひざから崩れ落ちた。


その夜、常秀は楠から姿を消した。


慶秀は二年をかけて、清栄寺の不動明王像を完成させた。

その姿は今までにあった不動明王像とは違う、勇ましさと恐ろしさに満ち溢れていた。

桐雅天皇もこの像をいたく気に入り、慶秀を絶賛した。

そしてこの度の仕事の褒賞を与えるとして、六原の緋家の屋敷に呼ばれることとなった。

「お主が楠慶秀じゃな」

慶秀は一層頭を深くする。緋紀基は思っていたよりも小柄で、狡猾そうな印象を感じた。

「清栄寺の不動明王像、実に見事であった。あれほどの見事な像は、わしも今までとんと見たことがない」

「は、ありがたき」

「そこでだが、帝よりも十分な報酬は受けておろうが、わしからもさらに報酬を与える。一門の者を養うにじゅうぶんなものを与えよう。そしてお主にはやってもらいたいことがあるのじゃ」

「・・・それは・・・?」

「うむ、唐に渡り、ある技を得て戻ってきてもらいたい」

・・・唐へ?

慶秀はにわかに意味が呑み込めずにいた。

「詳しいことはわしにもわからぬが、お主のような腕のある職人が命を懸けるにふさわしい技であることは間違いないぞ」

唐と言えば海の向こうだ。噂でもほとんど聞いたことがない。

違う言葉を話し、怪しげな術を使うという。

「もちろん、他にも職人たちは同舟する。他にも医者や学者たちもじゃ。取り急ぎ、荷をまとめて摂津へ向かってもらいたい。頼んだぞ」

そう言い捨てて紀基は奥へ行ってしまった。

慶秀は自分に何が起きているのか理解できなかった。


重蔵に留守を頼み、慶秀は堺へ向けて出発した。

京から馬で堺の港まで移動する。道中、野盗に襲われそうになったこともあったが、同行していた緋家の武士たちは手練れぞろいだったため、難を逃れることができた。そこから瀬戸内を船で進み、豊後の港へ着く。そこで大型の船に乗り換え、さらに三隻の船と合流、四隻からなる船団で唐へ向かうことになっていた。慶秀の乗り込む船には僧侶や武士など、二十人ほどがいた。漕ぎ手や船乗りも多くいたため、四十人から五十人ほどが一隻に乗り込んでいたことになる。職人たちはそれぞれの船にわかれて乗り込んだ。他の船が沈んでも、たどり着いた船に必ず一人はその道の者が残るようにという配慮らしい。

博多から外海へ出ると、途端に波が強くなった。船は激しく上下するようになり、木の板の張り合わせの船はギシギシと音を立てて軋んだ。

僧たちは一心不乱に経を唱えている。もう生きて帰れぬという覚悟をしてきたらしい。

船が波に揺られて三日ほどが経った頃、慶秀は船にいくつかのことが気が付き始めた。

大波を受けると、舟板の隙間から隙間から水が噴き出す。船員たちはこれを桶で掬い、海へ帰す。今はこれでよいが、嵐のような大波が続けてきたら、甲板にたまった水で船は沈んでしまう。

慶秀は甲板の横板に排水のための穴をあけよと水夫たちに言うと、水夫たちはそんなことをしたら水が入って船は沈んじまうと猛反対した。押し問答になり埒が明かないと思った慶秀は、皆が寝静まった夜にこっそり水のたまりそうな甲板の横に穴をあけた。朝この穴を見た水夫たちは烈火のごとく怒ったが、その時から大波が来てもくみ出す水の量がいつもより少ないことに、水夫たちは気が付くことになる。

さらに慶秀は米俵を結んでいた麻縄で帆柱を補強し、麻布や絹などを油に浸してあて布にしたり、慶秀の道具箱の中にあった膠や漆などで舟板の隙間を埋めた。


その二日後の夜、波が高くなり大荒れになった。

慶秀は重い荷物を船底へ移すよう指示し、水夫たちもそれに従った。ひどい雨と風に襲われ、船はいたぶられるように波間で翻弄されていた。水夫たちは必死に水を掻き出し、僧たちは祈り続けた。武士や役人たちはおろおろとするばかりで、役に立たない。あたりは暗く、ほかの船も見えない。

ほとんどの者がやはり生きては帰れぬのかとあきらめていた。


そして夜が明けた。

慶秀たちの船はほぼ無傷で嵐を抜けた。だが、四隻の船のうち、一隻は沈み、一隻は帆柱が折れて航行不能になった。使えなくなった船を捨て、生きているものは残りの船に分かれて乗り込むことになった。

航海を始めて十一日目、陸地が見え始めた。あの嵐の夜以外は風も順調だったことで一行は胸をなでおろした。


揚州という港に着いた一行は、生きて唐に着いたことを称えあった。他の船に乗っていた男が唐の言葉と倭の国の言葉を使い分けて港の者と何やら話をしていた。

長江とは川だと聞いていたが、どう見ても海にしか見えない。川なら向こう岸が見えるはずだ。唐の者は海と川の違いが判らないらしい。

揚州は市場を持つ活気にあふれる街で、たくさんの見たことのない作物が取引されていた。試しにいくつか食べてみたが、うまくはなかった。が、現地の民はうまそうに食べているのを見ると、味覚が違うようだ。


まずは早馬を走らせて長江での謁見の許しを得る。唐の王朝と謁見できなければこの先の旅は無駄になるからだ。早馬が長安について戻ってくるまでに二か月ほどを要した。慶秀はこの間、唐の言葉を覚える時間に費やした。この先長く唐に滞在することになるだろう。言葉が通じないのでは、この先肝心の知識を得ることが難しい。

謁見の許可が出た一行は船で揚子江をのぼる。揚子江には運河が整備されていて、船で遡ることができた。あたりには荷物船がひっきりなしに往来を繰り返していた。

船を降りた一行は、陸路で洛陽という町へ向かう。


盗賊のうわさが絶えない街道は夜道はあまりに危険と言われ、一行は無理な行軍をせずに宿をとりながら進んだ。かなりの日数を要したが、京から長安の皇帝への土産物を野盗なんぞに奪われるわけにはいかないからだ。この間も、慶秀は唐人の案内役をそばにおいて唐の言葉を覚えていった。洛陽につく頃には、片言ではあるが会話できるほどに上達していた。


一行はただただ進み続け、揚州の港を出てからもう何日経ったかわからなくなった。

道中、何人かが怪我をしたり病にかかり、やむなくその土地で療養せざるを得なくなった。回復したら長安で会おうと励まし、先を急ぐ。故郷を出て何人が減ったのだろう。慶秀は港を出た時に数百人はいたであろう使節団の、残りが八十人ほどになっているのを見ると、どれほど過酷だったかを思わずにはいられなかった。

やがて一行は洛陽に入った。

そこは賑やかな都市で人が多く、活気があった。ここで食料や水を確保し、体を休める。一行のひと時の安らぎであった。

七日間の休息の後、一行は再び長安に向けて出発した。

慶秀は同行している唐人から、この先、潼関(どうかん)というところに関所があり、そこを通ることになるが、とても賊が多いので注意したほうがいいと聞かされた。一行を束ねている三宅孝周に話すと、護衛の武士たちに用心するよう言い聞かせていた。


一行はやがて潼関に差し掛かった。街道の左右に大きな崖があり、その間に巨大な門があった。これが関所なのだろう。同行の唐人は関所を通る許しをもらうのに数日かかるから、とどまる人たちのために少しづつここに集落ができたのだと教えられた。

慶秀たち一行も、ここで数日とどまることになった。

人足たちが荷下ろしなどをしていると、少し離れたところからじっとこちらを見ている幼い男子がいた。身なりはみすぼらしく汚れていた。やせ細っていて腕や足は枝のように細かった。

異国の民がよほど珍しいのか、何も言わずじっとこちらを見ている。

慶秀は荷物の中から小刀を取り出し、木の切れ端を削り始めた。男の子は少しづつ近寄ってきて、じっとこちらを見つめていた。すると慶秀は慣れた手つきであっという間に兎を彫った。慶秀が彫り終えた木彫りの兎を男の子に渡し、「これをあげよう」と唐の言葉を話すと、男の子は腕を組むようにして一礼すると、振り向いて走り出した。その子を目で追うと、母親らしき女に何かを話している。女は慶秀と同じくらいの年だろうか。やはり汚れた身なりをしていて、やせ細っていた。女は子供から兎を取り上げると、おそるおそるではあるが慶秀に近づいてきた。

「私たちはお金がないから物をもらうことができない」

そう言って兎を差し出して慶秀に返そうとした。

慶秀はお金をもらう気はない、と言ったが、女は慶秀の手に兎を握らせた。

「ならば、俺は兎が嫌いだから、この石の上に置いていく。誰かが拾ってくれると兎も喜ぶだろう」

そう言って近くの石の上において立ち去った。母子は去っていく慶秀をじっと見ていた。


「こんなところで足止めばかりで、なかなか先に進めぬ・・・」

一行を束ねる孝周はいつもイライラしていた。

関所で足止めを食って三日が過ぎていた。

治安が悪い地域だから、宿から出てはいけないと言われていた。

「・・・あれは何だ?」

同室の者が不意に指さした。

かすか向こうに見えるその先には、土煙を上げる巨大な人型の何かがあった。

人の形をしているが、人ではない。大きすぎる。

慶秀は慌てて孝周のところへ行き、

「孝周殿、何か巨大な人が動いておる!」

と言った。

「ああ、御体じゃな。ここでは天威機というそうだが」

「・・・天威機・・・」

「今回の目的はその天威機を持ち帰ることであってな。お主たち職人は、その作り方を学ぶために連れてこられた。・・・誰にも言うてなかったがな」

「・・・近くに見に行ってもかまわぬだろうか?」

「いや、この辺りは黄巾と呼ばれる山賊が出るらしい。あまり宿から出ぬようにしてくれ。これ以上、職人や学者は失いたくないのでな。・・・わしにそう言ったのはおぬしであろう?」

「・・・そうか・・・」

だが、慶秀の好奇心は止められなかった。

ようやく、この過酷な旅が何のためにあるのかわかった。

慶秀は宿を飛び出し馬にまたがると、天威機の見えた方角に馬を走らせる。

街の往来を抜けて、川のある岸辺に近づく。そこでは川の治水の作業をしているようだった。

人足たちが数十人、木材や石を運ぶ中、天威機が二機見えた。その大きさは大人の背丈の三倍ほど。大きな岩を川床から持ち上げているところだった。

慶秀は近くにいた男に声をかける。

「すまぬ、あれは何だ?」

「ここは雨期になると川があふれ出るのでな、川床の岩を取り出し深くして、その岩で堤を作っている。長安の都が近いので、ここは天威機を使わせてくれるので、とても助かる」

というようなことを言った。

「あれが、天威機・・・」

慶秀は気持ちが昂るのを感じた。あれを作る?おれが?・・・それは本当にすごいことだ。

狐につままれたような不思議な感覚が、目の前の現実を夢の光景のように見せていた。


宿への帰り道、慶秀は興奮冷めやらぬ気持ちでいた。

天威機なるものを、自身の腕で作ることができるならこれは職人として名誉なことだ。これ以上のことはない。川の氾濫を防ぐこともできる。山の地崩れを抑えることだってできる。なんという技を持っているんだ。唐というのはすごいところだと、改めて慶秀は感心していた。

そんな中、馬を引いて歩いていると不意に着物の袖をつかむ子供がいた。

あの時の兎の子だ。

「おお、お主、奇遇だのう」

という慶秀に、その子供は何も言わず慶秀の袖を引っ張って、どこかへ連れて行こうとする。

「やや、おれは宿に帰らぬといかんのだが・・・」

そう言っても童は慶秀を離さなかった。そして連れていかれたところは集落から少し離れた場所で、ぽつぽつと小屋があった。関所の近くの宿あたりとは違い、その作りも雑でみすぼらしかった。

子供は一つの小屋を指さし、その中へ入っていった。慶秀も引っ張られるままに馬を外の木へ繋ぎ、小屋へ入った。小屋の中には、あの時のこの子供の母親がいた。

「何ですか、あなたは?」

慶秀を見て驚く母親だったが、男の子はお構いなしに小屋の隅からあの時の木彫りの兎をもってきて満面の笑みを浮かべた。これを慶秀に見せたかったのだろう。思わず慶秀も男の子に笑いかけていた。

慶秀はすぐに宿へ帰らねばと思っていたのだが、童が着物の袖を掴んだまま寝てしまい、その期を逃してしまった。最初こそ驚いていた母親だったが、慶秀が懐に入れていた干し肉を分けて母子に渡すと、子供は嬉しそうに食べ、母親も少し顔を緩めた。

慶秀が少し言葉がわかるということがわかると、身振り手振りを加えながら母親も慶秀といろいろなことを話し始めた。この子の母は阿連(あれん)、子供の名は小寧(しょうねい)といった。

住んでいた村が賊に焼かれ、二人は逃げ出したが、父親は村に残って死んだらしい。小寧はその頃から声を出さなくなったそうだ。賊たちから逃れるため、都の長安を目指してここまで来たが、関所を通る許しがなかなかもらえず立ち往生している途中だそうだ。慶秀も母子の身の上に同情した。

そうするうちに、あたりはすっかり暗くなってしまった。阿連は、「夜は出歩くと危険だから朝までここにいたほうが良い」と慶秀を引き留めた。慶秀もなんとなくこの小屋を立ち去りがたく、朝を待つことにした。阿連は小寧を抱くようにしてすぐに眠ってしまった。慶秀は眠れずに阿連と小寧の寝顔を眺めながら朝を迎えた。

次の日の朝、慶秀は夜明け前に宿へ戻り、自分の分の干し肉と芋をもって、阿連の小屋へ戻った。二人は芋をいとも旨そうに食べ、干し肉は慶秀に食べよといった。

阿連は毎日、今日こそは関所を通る許しが出るかもしれないと思い、関所の前に通っている。だが、その日も重い扉が開くことはなかった。

次の日、慶秀はまた芋をもって小屋へ行った。三人で芋を分け、少しづつ食べた。そのあと川へ行き、体を洗い流した。慶秀も着物を脱いで裸になり、小寧と水を掛け合った。阿連は恥ずかしそうに服を脱ぎ、そっと川に入って体を清めた。阿連の姿に見とれていた慶秀は、思い切り小寧に水をかけられてしまった。

その夜、二人は眠る小寧の隣で体を重ねた。声を押し殺しながら慶秀を見つめる阿連の大きな瞳を、慶秀は愛しくてたまらなかった。月明かりの下の阿連の肌は透き通るように青白く、痩せてはいるが柔らかだった。阿連は隠すことなく、すべてを慶秀に捧げた。

関所を通る許しが出たのは、それから五日後だった。だが通行を許されたのは慶秀たち、すなわち”倭の国の使い”だけだった。慶秀は阿連と小寧を連れていきたいと役人に懇願したが、その許しは出ていないと撥ね退けられた。あまりに皇帝の許しに意見すると、処刑することになるぞ、と脅され仕方なく慶秀は引き下がった。

「阿連、小寧、すまない。俺は先に長安へ行き、皇帝に謁見して許しをもらい、お前たちを迎えに来る。約束する」

「慶秀と別れるのはつらい。だけど、私たちもすぐに行きます。この壁を越える許しが出たら、あなたに会いに行きたい」

阿連はそう言って泣いた。小寧は声こそ上げないものの、かすれるような音で喉を鳴らし、ぽろぽろと涙を流して泣いた。手には木彫りの兎をしっかり握りしめたままだった。


「やっと、目的の長安に入れるぞー!」

孝周のはしゃぐ声を聴きながら、一行はようやく長安に入る。

そこは京とは違う、華やかで広大な都だった。人々は賑やかに市を開き、活気ある場所だった。

慶秀たち一行は長安に入り、皇帝への謁見を果たした。正確に言えば、三宅孝周と数人の役人だけが謁見したのだが、一行はそれでも目的地にたどり着いた喜びでお互いを称えあい涙した。

京から持参した金の細工の品々を、皇帝僖興(ききょう)は大層喜んだという。

慶秀は潼関に残してきた阿連と小寧が気がかりだったが、唯一直に話すことを許された宦官(かんがん)鄭衆(ていしゅう)に取次ぎを申し出た。そして数日後、渡された返事に慶秀は頭を抱えた。


新しき天威機を作れば、その願いを叶える。より人に近く、より速く、より強く。


これから技を学ぼうとする者に、今のものを改良しより早く強く動く天威機を造れと・・・。慶秀は絶望したが、もとより技を学び国へ持ち帰るのが仕事である。二人のことは片時も頭から離れないが、今は打ち込むしかないと割り切るしかなかった。

鄭衆から、絡繰りの師となる李昌烈(りしょうれつ)という男を紹介された。昌烈は白髪の老人だったが、高い櫓の梯子をひょいひょいと登って見せるほど体が軽かった。慶秀と、片言ながら言葉が通じることに大層驚いていた。

慶秀は昌烈に、一刻も早く阿連と小寧を迎えに行きたいと願っていると事情を話した。だが、天威機ひとつ作るのに、二年はかかると言った。

「どうすればよろしいでしょうか?今にも明日にも、迎えに行きたいと思っておりますのに」

「さすれば、お主にひとつ策を与える。ここに天威機の仕組みを書いた図がある。これを見て、どうすれば早く強くなるか言い当ててみよ」

そう言って数枚の紙を渡された。それから数日、慶秀は部屋に籠って図を睨み続けることになった。

最初はまず、図に書かれている言葉がわからなかった。とても専門的な言葉が書かれており、慶秀はそれを解読することから始めた。すると、構造自体は難しくないことが少しづつわかりはじめる。だが、この重たい天威機なるものがどうやって動くのか、その仕組みがどうしてもわからない。

怪しく思うのは、人が座る場所にある勾玉のようなもの・・・。これは何だろうか。

「師よ、仕組みはあらかた理解しましたが、そもそも人がこの重たい天威機を自在に動かせるのかがわかりません。すべての力がこの勾玉から出ているのはわかりますが、これはいったい何なのでしょう」

「ほう・・・。そこまで見抜いたのか」

昌烈は髭をなでながら、感心するそぶりを見せた。

「そなたが知らんということは、おそらく倭の国にはないものなのであろう。これは御霊石と言って、人の霊力というのかの、魂から出る力を強くする力があるのじゃ」

「魂から出る力?」

「見ておれ」

そう言って、昌烈は大人が腕を回しても抱えきれないほどの太さの丸太に布で玉を縛り付け、右手の人差し指と親指で勾玉をつまんだ。すると、丸太はゆっくりと持ち上がったのだ。

「なんと・・・」

「腕の力など入れておらん。霊力・・・というのだろうかの。これは誰しもが生まれ持って居るが、目に見えないので鍛えることをしておらん。とはいえ鍛えれば強くなるものでもあるが、生まれつき強い霊力を持った者にはかなわないのが現状じゃ。よって、わしは天威機を作れても動かせん。今くらいの丸太を持ち上げるのが精いっぱいなんじゃて。これ以上のことはわしにもわからん。ただお主にはこの天威機の作り方を教えるのみじゃ」

秀は阿連に手紙を渡せないか鄭衆に頼んだが、鄭衆は一難民の顔などいちいちわかるはずもないと断られた。

もう、こうなれば一刻も早く天威機を完成させなければならない。

図を開き、徹底的に無駄な部分をなくす。軽くすれば速く走れるはずだ。だが、特に足には強度が必要となる。空いていた空間をなくし、芯を太くして安定させる。早く走るためには可動域も必要だ。馬がどのように走っているかを観察し、足の可動域を増やす。今回は今までより強くなければならない。腕にも補強と、無駄な部分の削減を行う。

頭部や、鎧のように見せている装飾も必要ない。天威機の外甲はそれだけでじゅうぶん固い。

慶秀は図を書き上げ、昌烈の元へ持って行った。

「・・・」

昌烈はしばらく悩んだ後、職人たちに「今、作りかけの天威機をこれに変更せよ」と命じ、慶秀ににやりと笑って見せた。


そして二か月後、天威機は完成した。あまりに急いだので、飾りも何もないただの木と鉄の塊の姿だが、今までの天威機の熊のような姿とは異なり、もっと人に近かった。

そしてその天威機は皇帝僖興の御前でお披露目となった。僖興は中央奥の玉座に腰掛け、群臣が左右に列をなし、異国の来客を値踏みするような視線を送っている。

故宮前の広大な大広場を見渡す限りの大勢の役人たち兵士たちが囲み、緋色の絹の幕がはためいていた。中央に慶秀が作った天威機が立つ。

陳恭(ちんきょう)という男が選ばれ、天威機に乗り込んだ。慶秀は深く一礼すると、陰陽師の術者たちと目を合わせ、指示を送る。祈祷の声が響き、符が燃え、霊力が御体に流れ込んだ。すると静かに天威機は生き物のように滑らかに顔を上げ、両腕を振り上げて振り下ろした。それは、まるで声なき叫びをあげているかのようだった。巨体がぎしりと動き、玉座に集う文武百官がどよめいた。すると、天威機を動かすたびに兵たちから、おぉ、と息が漏れる。その動きは、あまりにも素早い。人がするように片足で立ち、腕を上げる。どの動きもすべて滑らかだった 

やがて御体は天を仰ぎ、両腕を広げると、まるで神将が舞うように一歩を踏み出した。

「これは……まるで生きておるかのようだ」

「かつて見たことのない動きだ!」

群臣たちの囁きが広がる中、皇帝の目は鋭く細められていた。

その眼差しは歓喜と同時に、利用価値を見定める冷徹さに満ちていた。

「よい。これを唐の威とせよ」

その一言が下った瞬間、庭の空気は熱を帯びる。

慶秀は深く頭を垂れたが、その胸の奥には言い知れぬ重さが広がっていた。


翌日、慶秀は約束通り潼関へ行く許しを得た。

だが鄭衆は「やめておいた方が良い」と、慶秀をなだめた。

「なぜだ?」

「今、潼関は黄巾という野盗たちに占拠されている。間もなく、天威機を操る軍が制圧に向かう。戦いに巻き込まれるぞ」

「潼関が野盗に占拠されただと!?」

慶秀は慌てて荷物を馬に積み、自らも飛び乗って走り出す。

「もうすぐ軍が潼関に着く!お前の天威機も一緒だ!!」

鄭衆の声が後ろから響く。

あれを、戦いに使うのか!?そんなことのために作ったのではないのに!!


慶秀が馬を走らせて潼関に着いた時にはすでに陽が落ちていた。

だが潼関が炎を上げて燃えていて、あたりは赤く明るく照らされていた。

「阿連!!小寧!!」

慶秀は叫びながら潼関の関を馬で走る。崩れた家々や、瓦礫を越えて関の門を抜ける。

「なんてことだ・・・」

潼関の町はほぼ崩れ落ちていた。ところどころ炎が上がり、黒煙が空を焦がす。焼けた煤臭いにおい。

御体はまだ町の中で三機が動いていて、三機のうち一つは慶秀の作った天威機だった。

天威機が腕を組み合い、殴り合うたびに家々が瓦礫となり、悲鳴が起きる。

「くそっ!!」

慶秀は再び馬を走らせ、混乱の町の中を馬で駆け抜ける。

ひどく長い道のりに感じた。半年ほどの時間が流れていたが、そこへ至る道のりはしっかり覚えていた。阿連と小寧の小屋が見えてくる。

「阿連っ!!阿連っ!!」

慶秀が叫ぶと、黄巾と呼ばれる黄色の布を首に巻いた野盗が馬に乗って襲い掛かって来る。慶秀は道すがら拾った刀を相手目掛けて振り下ろすが、武士ではない慶秀の刀が相手を斬れるわけではない。馬で横に並ばれ、相手は槍を突き出してくる。身をよじってそれを躱すと、次の瞬間だった。

どおおおん!!という音とともに、真横に吹き飛ばされた。

馬から吹き飛ばされ、地面に転がる。背中を打ったらしい、すぐに息ができない。

「ぐっ!!」

何とか息を整えて立ち上がる。倒された天威機に吹き飛ばされたようで、先ほどの野盗は天威機の下敷きになったようで、慶秀の馬も立ち上がることはできないようだった。

慶秀も立ち上がったものの、右足がずきずきと痛む。うまく歩くことができない。それでも右足を引きずりながら、あの小屋を目指す。

「阿連!!小寧!!」

後ろの方でガラガラと瓦礫が崩れる音がする。倒された天威機が立ち上がったらしい。

とにかく、早くここを離れなければ、あの母子も巻き込まれてしまう。

「阿連!!阿連!!小寧!!」

もう声が聞こえる距離だ。いるなら、出てきてくれ、ここはもう危険だ!その思いを込めて、二人の名前を叫び続ける。

「阿連!!小寧ーーーっ!」

何度目かの叫びの後、小屋の中から姿を現した小さな影があった。

「小寧!!」

それは、あの時より少しだけ背が高くなった小寧だった。

小寧は慶秀を見て小屋の中から出てくるように手招きをする。そして現れたのは阿連だった。

阿連は慶秀を見るなり、小寧を抱いてこちらへ走り出した。

「駄目だ、阿連!こちらは危ない!!こっちへ来るな!!」

慶秀は力いっぱいそう叫ぶ。早く阿連のところへ行きたいが、足が前に出ない。もどかしい。

「慶秀!!」

阿連は慶びの表情を浮かべ、涙を流していた。慶秀が来てくれた。約束を守ってくれた。早くここを出て、長安へ行きたい。慶秀のところへ行きたい。ずっと毎日そう思って耐えてきた。貧しくて苦しかった。でも、いつか慶秀が迎えに来てくれる、それだけを希望に・・・・。

そして慶秀が・・・やっと・・・・。

次の瞬間、阿連の体は小寧を抱いたまま、たくさんの瓦礫とともに宙を舞った。

「阿連------っ!!!」

慶秀は必死で手を伸ばしたが、届く距離ではなかった。

土煙を上げながら、阿連と小寧は家の壁に打ち付けられ、上から瓦礫が降り注ぐ。

「阿連、小寧!!なんてことだ!!」

慶秀は駆け寄り、瓦礫をかき分ける。足の痛みをこらえながら、石や木くずを脇へ投げる。

そして小寧をしっかりと抱いたままの阿連を見つけた。

「阿連!阿連!!しっかりしろ!!」

慶秀は叫ぶが、返事はない。

二人とも頭から血を流していて、すでに息をしていなかった。

「ああ・・・・、やっと、やっと会えたのに・・・・。こんな、こんな・・・・」

慶秀の目から涙が溢れてきた。溢れて止まらなかった。

二人を傷つけないように残りの瓦礫をどけて、抱きかかえる。阿連と小寧、二人を抱えても重くなかった。

見ると、慶秀の作った天威機が、黄巾の天威機にとどめを刺すところだった。

「もうやめろ!これ以上、何のために殺し合うんだ!!誰かを助けるためにあるものなのに、なぜ苦しめあう!?なぜ、人の命を奪う!?誰に何の権利がある!?もうやめろ!!」

慶秀は声が出る限り、叫び続けた。戦いはすぐに終わったが、慶秀の叫びは止まらなかった。誰も聞くことのない、誰も答えることのない叫び。

そして慶秀は声が出なくなると、二人を抱いて川原のほうへ歩いて行った。


それから慶秀は長安へ戻り、昌烈の元で天威機の作り方を学んだ。

僧侶たちは経や仏の教えを学び、学者たちは文字や書き物を、武士たちは兵法を学んだ。

そして二年が経った頃、ようやく皇帝僖興の許しを得て、倭の国へ帰ることになった。

「師よ、たくさんのことを学ばせていただきありがとうございました」

昌烈に慶秀は頭を下げる。

「うむ、まだ教え足らぬこともあるが、あとはお主自身が見つけることじゃな」

「倭に戻りまして、倭のための人を生かすための天威機を作り上げます」

昌烈は嬉しそうに慶秀の肩をなでた。

一行はそれぞれに別れを済ませて長安の都を出発した。


帰り道も、潼関に再び宿をとる。

あの夜、慶秀は三人で水遊びをしたあの川の近くに穴を掘り、二人を同じところに埋葬した。手ごろな石に阿連と小寧の名前を彫り、墓石とした。慶秀は二人の墓の前で手を合わせる。

そして慶秀は手ごろな枝を折り、兎の親子を彫って二人の墓の前に供えた。

「倭に帰ることになった。出来るなら、お前たちも連れて行きたかった。おれの故郷で、おれの作る、新しい世を見せてやりたかった。見守ってくれ。倭に帰れるように。」


一行は再び洛陽を経由して揚州についた。

ここまで一人の死傷者も出ていなのは奇跡に近かった。この2年半、長安で身に着けたものをここで無駄にしてはならない、その思いが全員にあった。

一行には長安から技師や堪輿家(かんよか)と呼ばれる陰陽師たちを連れていくことになった。いずれまた、彼らはこの道のりを長安へ帰っていくのだろう。倭の国の者たちを連れて。

長い長い道のりをただただ進み続け、揚州に着く。そこには慶秀たちのために、船が四隻用意されていた。来た時の倭の国の船よりもずっと丈夫そうに見える。そして二回り以上も大きい印象だ。そしてそのうちの三隻には巨大な荷物が詰め込まれた。

「あれは・・・天威機か?」

慶秀が孝周に声をかける。

「いかにも。僖興皇帝が古いものをくださった。天威機を作るための鉱石などもくださった。紀基様もお喜びになられるだろう」

「・・・孝周殿、願いがある」

「何なりと聞こうぞ」

「この天威機、使いようによって毒にも薬にもなる。絶対に使い方を間違ってはならぬ。それだけは紀基殿にようお聞かせくだされ」

孝周はうなづいて、

「あいわかった。進言しよう。紀基様次第と言わざるを得ぬが・・・」


四艘の船は順調に風に乗り海を進んだ。

嵐もなく、時折の高波こそあれど、唐の船は頑丈だった。十日ほどの航海を経て船は四隻無事に豊後の港に着いた。約三年、長い旅だったと誰もが船べりをたたいて、故郷の地に喜んだ。

しかし、ここから陸路を進むには天威機はあまりに大きく重かったので、港で荷を下ろすことを断念せざるを得なかった。唐の陰陽師には天威機に乗れる霊力を持つ者もいたが、街道を天威機の徒歩で京へ行くには距離がありすぎる。

仕方なく孝周は海路を選び、もっとも都から近い若狭まで船で行くことにした。

早馬を都に向けて走らせ、帰還を伝える。

慶秀にはようやく京へ帰れる嬉しさと、天威機を持ち帰ることの迷いがあった。だが、この天威機をもたらすために、この三年苦しい命懸けの旅をしてきた。

自分が修めたのは民の生活を富ませるものであり、殺し合う道具ではないと自分に言い聞かせる。何よりも、己は匠である。自分が持っている技を使わなければ、ないのと同じである、と今は思うことにした。


孝周たちが天威機を持ち帰ったことを誰よりも喜んだのは紀基だった。

もうすぐ天皇側と若宮王側で大きな戦が起きる。あれさえあれば、これで我らに負けはない。

天下はわが手中に落ちる。緋家の世が来る。逆らうものなど、圧倒的力の前ではすべて無力。無きに等しい。所詮武家の者などと、これまで再三辛酸をなめてきた。武家を嘲笑う貴族どもに、目にものを見せてくれる。わが手で、苦汁をなめさせてくれる。

わが野望を止められるものなど、もういない。さあ、新しいわが世が始まる。

紀基の中では、すべてがもう待ちきれなかった。

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