第1話 覚醒
深海の暗闇から浮上したように朦朧としていた意識が光を得て明確な像をなしていく。最初に頭に浮かんだのは泣いている少女の姿だ。小さな手をぎゅっと握りしめ、歯を食いしばったまま顔を上げているが、瞳から溢れる涙は止められないでいる。声をかけようと伸ばした手もまた小さかった。何を悲しんでいるのかわからないまま、口から出た慰めの言葉は空虚なものでしかない。それでも少女は安心しきったように目を閉じて胸に頭を預けてきた。
――死は誰にでも訪れるものなのに何故悲しむのだろう。
脳内のシナプスに信号が走り、強制的な覚醒を促された。夢の時間は終わりを告げる。重い瞼を持ち上げると、目の前に広がるのは赤く染まった世界だ。何もかもが夕焼けに照らされたように赤みを帯びている。そこには見渡す限り円筒状のカプセルが整然と並んでいた。どこか墓所のような静謐さを感じさせる。
「おはよう、聞こえているかしら?」
くぐもった声が耳に届いた。出所を探して視線を彷徨わせる。足元から心配そうにこちらを見上げる女性の顔を見つけた。声を出そうとして全身が何かに包まれていることに気が付く。空気のような軽さはないが息苦しさは感じなかった。声帯が機能しないことに落胆し、問いに答えるように大きく頷く。
「覚醒シーケンスに入るわ。そのまま少し待っていて」
大きな振動を感じた後、滑り落ちるように視点が低くなる。目の前の女性と視線が合った。こちらをじっと見つめたまま視線を外さないでいる。切れ長の瞳は意志と知性を感じさせた。記憶を掘り返してみても彼女が何者なのか手がかりの欠片も見つけられない。白衣を着ているところを見ると、医師か研究者ではないかと想像するしかなかった。
全身を包む液体が排出されて水位を下げていく。少しひんやりとした空気に触れてぶるりと震えた。支えを失った身体はカプセルの底に沈下する。足の裏にがかかる重さが新鮮に感じた。やがてカプセルの蓋が開き、外界を遮るものは全て失われる。自分を守ってくれるものがなくなったように感じて途端に不安が襲ってきた。
「大丈夫よ。何も怖がらなくていいわ。覚醒した時の喪失感は誰もが通る道だから」
女性は折り畳まれた検査衣を手渡す。そこで初めて自分が何も着ていないことに気が付いた。少し気恥ずかしさを感じながらいそいそと袖を通す。濡れた身体に張りつく布地が少し気持ち悪い。
「身体に異常がないか少し動かしてみてくれる?」
両手を持ち上げて何度か握った。その場で少し跳ねてみる。あのカプセルの中にどれだけの時間、眠っていたのかわからないが運動機能に影響はないようだ。状態を伝えようとしてまだ声を出していなかったことに愕然とした。恐る恐る声帯に息を送る。
「あ、あー、大丈夫です。問題ありません」
「そう、よかったわ。クルスくん」
それが人名であることは想像がついた。この場にいるのは二人だけだ。必然的に自分の名が『クルス』であると察する。問題はその名前に心当たりがないことだった。
「僕は、クルスというのですか?」
「名前が思い出せないの? 変ね、《書き込み》に問題はなかったはずだけど」
女性は形の整った眉をひそめた。年の頃は二十代半ばといったところだろう。後ろで束ねた黒髪は腰まで届くほど長く、絹糸のように滑らかだ。見た目以上に落ち着いた物腰は不確かな状況に置かれて落ち着かない心を少しだけ癒してくれた。
「あなたはクルス・A91。十歳の誕生日、おめでとう! 二度目の目覚めを終え、晴れて大人の仲間入りよ」
クルスは自分の身体に視線を落とした。最低限の筋肉がついた細い体。浮き出た肋骨が影を落とす。運動機能に問題はないが体力はほとんどなさそうだ。十歳といえど、培養カプセルの中で急成長を遂げた身体は、機能的には十六歳と変わらない。食べ盛りの年代とはいえ、必要最低限の栄養しか与えられずに育った身体はやはり貧相だった。
「随分、生き急ぐのですね」
「それだけ状況が切迫しているということよ。夢の時間は短いわ」
この時代、人は戦争のための資源だった。生まれてから二歳まで育てられた子供たちは培養カプセルで三年間眠り、一度目の目覚めを迎える。そうして同じ年代の子供たちが集められて二年の集団生活を過ごした後、もう一度眠りにつくのだ。眠っている間に脳には必要な知識が《書き込み》によって与えられる。目覚めた状態で手間暇かけて育てられるのは情緒や社会性を獲得するための措置だった。こうして兵士にとって役に立たない幼年期は駆け足で過ぎ去っていく。そこに郷愁や憧憬が入り込む余地などなかった。
「戦況はそれほど悪いのですか?」
「この十年、良くも悪くも変わらないわ。絶望するほどでもないけれど、希望もない。そう、いつも通りよ」
「素敵な時代ですね」
「あなたが自分の人生に価値を見出せるのなら、きっと幸せに過ごせるわ」
目の前の女性は諦観に支配されて瞳の光を失っているわけではないが、野心の炎でその身を焦がしているわけでもない。とても穏やかな表情だった。あるべきものはいずれあるべき所へ還る。そう信じているのかもしれない。
「ところであなたの名前を教えてもらっても?」
「自己紹介が遅くなったわね、ごめんなさい。私はチェンシー・EB8。軍医をしているわ」
「チェンシーさん、ですか。よろしくお願いします」
右手を出そうとして濡れたまま乾ききっていないことに気付いて躊躇う。チェンシーは口の端を微かに上げると、自らクルスの右手を掴んだ。女性にしては固いグリップだ。軍医といえども後方で安穏としているだけでは務まらないのだろう。
「これからあなたを部隊の士長に預けて状況説明を受けてもらうわ」
「僕は兵士として戦うのですか?」
「そう、人は皆、兵士として戦うためにこの世界に生まれる。それ以外の選択肢を選びたいのなら生き残ってから考えなさい」
クルスは自分が何者であるか未だに思い出せないままだ。だが、兵士として戦うための術と戦うべき敵は頭の中に刻み込まれていた。人型機動兵器を操り、敵を倒す。それがクルスに与えられた使命だった。
「クルス!?」
突然、現れた少女がクルスの胸に飛び込んできた。背丈はそう変わらない。彼女の頭で顎を打ちそうになって思わず反り返った。シニヨンでまとめられた癖のない金髪からふわりと花の香りが漂う。濡れることも厭わずに強く抱きしめられたクルスは戸惑うしかなかった。彼女の全身を覆うのは肌に貼りつくような薄いパイロットスーツだけで、それは女性の身体的特徴を余すことなく強調していた。
「ずっと待っていたのよ、クルス。会いたかったわ」
「ヴァレリア士長、私的な会話は控えてもらえないか」
「失礼しました。チェンシー二尉」
名残惜しそうにクルスから身体を離した少女はその場で姿勢を正してチェンシーに向き直ると、指の先まで整った敬礼を送った。切り替えの早さには驚かされる。同じ年頃でありながらクルスよりも二階級も上の士長となっているのには、それだけの理由があるのだろう。
「彼女はヴァレリア・C34。あなたの先輩にあたる」
「初めまして、ヴァレリアさん。クルス・A91です。よろしくお願いします」
ヴァレリアは幽霊でも見たように目を見開いた。透き通るような緑がかった虹彩が美しい。そんな安穏とした感想は、次の瞬間に音を立てて崩れ落ちた。愛らしい大きな瞳は細められて不審の色に染まっている。鋭い視線が向けられた後、底冷えするような平坦な声が響いた。
「どういうことですか、これは? 私にも説明を求めます」




