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「ありがとうございました。」
カランコロンとドアベルが鳴って、客が出て行く。
それを見送るウェイトレスの女の子は、すらりと背が高くて美人だが、表情は固い。
小さい頃にずいぶんいじめられたせいで、表情の使い方を忘れてしまっている。
その頃は多分、心も半分壊れていたんだろうと思う。
それでも残りの半分は守られた。
守ってくれたのは、死んだ母と、この店のマスターとその息子だった。
息子の壮太は、今は彼氏だ。
「壮ちゃん、ひどいよね。」
マスターに愚痴る。
「せっかく来たのに、急に出勤だもん。」
夏の土曜日の夕方、お客も少ない。
本を読んでいた常連が帰って行くと、丁度カッコウ時計が五時を告げた。
「まぁすぐ帰ってくるさ。」
マスターの慰めの言葉に、すぐって何時、と心の中で突っ込む。
壮太は、取り立てて美形というわけではないが、仕事は出来るし言動が男前で、勤めている会社内はもちろん、関連会社でもファンが多い。
ちょっと目を離すと、すぐランチに誘われたりするので、ちゃんと見張ってないといけない。
今日は二人で水族館に出かける予定だった。
なのに、出掛ける直前、会社から電話があって仕事に呼び出されたのだ。
納品された商品の数と、注文書の数が合わないらしい。
まあ大変なのは分かるけど、何で今日?と思う。
すぐ戻るから、と言われて、仕方なく壮太の実家の喫茶店で待ってはいるものの、夕方になっても連絡はない。
結局、お店を手伝っている。
中学生の時からここを手伝い始めて、バイト料代わりにいっぱい食べさせて貰った。
高校生になってからは本格的にバイトとして働いた。
今は会社員だし副業禁止なので、こっそり手伝うだけだ。でもマスターからは、コーヒーの淹れ方がうまい、とお墨付きを貰っている。
やがて日が暮れてきた。
「仕方ないからさ、夕飯もうちで食べておいで。」
マスターがそう言ってくれた。
一応コーヒー専門店の名残りがあるこの店では、匂いのたつ軽食は作らない。ニンニク料理など以ての外だ。
でもマスターの料理はどれも美味しい。
二ブロックほど離れた所に自宅があって、そこで作った料理を、賄いと称して食べさせてくれたりする。
常に欠食児童だった翔子が、こんなに背が高くなれたのも、マスターの食事と、飲み放題の牛乳のおかげだったと言える。
母は誰よりも娘を愛してくれたが、世間知らずな上、難しい事から逃避する癖があった。
小学三年の始めに画家の父を亡くして、それまでも安定した暮らしではなかったのに、ますます不安定になった。
母はパートを掛け持ちして、家計を支えていたが、余裕のない生活だというのは小学生でも分かる。
服は小さくなってもなかなか買ってもらえないし、靴はお下がり。
そうなると、相手が貧乏になった事を子供たちは敏感に感じ取る。
最初は、つんつるてんの服や靴をからかわれるぐらいだったのが、だんだん激しくなっていく。
もちろん、からかわれるのだって辛かった。
しかし相手にしないでいると、だんだん机に落書きされたり、下駄箱にゴミを突っ込まれたりし始める。
中学生になる頃には、はっきりいじめに変わっていた。
教科書は落書きだらけにされたあげく、捨てられてしまうし、靴も上靴も何処かへ行ってしまう。体操服も破かれる。
何回かは教師に訴えたが、改善しない。
仕方ないので、全力で対処した。
学校では、学校備品のスリッパを履く。教科書やノートは学校に持っていかず、代わりに全部丸ごと覚える。空になったカバンには、靴を入れて常に持ち歩く。
体育の授業は、体操服なしで受ける。
二個年上の壮太が気にかけてくれたけど、学年が違うと、なかなか難しい。
登校拒否という手段もあったけど、それはそれで母に心配をかけそうなので、とりあえずきちんと通った。精神はゴリゴリに削られたけど。
その母に、実は数千万円の財産があり、とある企業のお嬢様だったと知ったのは、母の死後の事である。




