7.引きこもりは引きこもりと再会する(裏):2120年2月11日
今日はよい日だ。
「ねえ。『黄李族誅』って知ってる? “豚飼い”を題材にした史劇だけど」
その瞬間まで、わたしはそう思っていた。
一ヶ月ぶりに再会した女は──いや、いつまでも“女”という識別も失礼なので、名前を交換した聡子は、わたしが思っていたとおり頭の良い女だった。
不審な言動が多いのも、聡子が聡明だからだ。
日本では名は体をあらわす、という言い方をするのだったかしら?
聡子は考えすぎる。知識と思考の積み重ねの多さが、社交性の経験不足とアンバランスを生み、言動のタイミングがおかしくなっているのだ。
「……そのドラマは見てませんが、“豚飼い”と人豚事件には興味があります」
「そっかー。どのへん?」
「そうですね。なぜ、あれほどの惨事になったのか、とか」
「そうだよね。10年前に世界中で起きた争乱で、死者が推計2億人だっけ?」
「はい」
「死者のほとんどがアメリカ合衆国がやらかしたせいってのも、奇妙だよね。ワシントンはナノハザードで塩の塊になっちゃったし、合衆国はなし崩しに解体されちゃうしで、10年たった今も何があったかわからないままでさ」
「まったくです」
「それでね。『黄李族誅』なんだけど、政治とか社会運動とか興味なくても面白いんだけど、知るとすごく面白いんだよ。描写や台詞の細かいところにね、ちゃんと深い考察が入ってて。だから、あなたには絶対に面白いと思うんだ」
どんどん早口に、しかも流暢になっていく。よほどこの史劇が好きなのだ。
顔が紅潮し、瞳が輝いている。ぎこちないが、わたしに面白さを伝えたくて一所懸命だ。あ、汗かいてる。わたしの渡したタオルで何度も顔をふく。わたしも聡子からもらったタオルで顔をふく。
聡子は気づくはずもないことだが。
この時、彼女は死ぬ寸前だった。
「一昨年から始まった大長編劇なんで、全部見るのは難しいけど、できのいいダイジェストがあって。もしよかったら見て。これはオフィシャルじゃなくて、公開二次創作なんだけど、ほとんど公式だし。アドレスわたしとくね」
聡子が左手をだし、わたしが右手をだす。皮膚にプリントした回路がチチッと音をたてて情報を交換する。
部屋に戻ったわたしは、聡子の紹介したダイジェスト版『黄李族誅』の動画を見た。
フィクションとしては、面白いドラマだ。聡子がハマるのもわかる。
だけど、聡子は『黄李族誅』を史劇と言った。
わたしには、とても歴史上の出来事とは思えない。そこがまず信じられない。
10年しか経っていないことを歴史として扱うって?
世界中が、“豚飼い”と人豚事件を過去の出来事として忘却しようとしているみたい。
お腹が痛くなってきた。手でへそのあたりを押さえる。
不意打ちだった。
──“豚飼い”
世界中で完全に定着してしまった蔑称。
かつて世界総資産の7割以上を掌握していた世界経済の支配者たち。
彼らは数々の悪事をなした。それはその通り。人豚事件など、そのひとつにすぎない。人間の遺伝子を改造して豚モドキを作り、その体内で抗老化剤を量産した……だからナニ? それって、本当に断罪されるほどの罪?
100億の人間に十分な量の抗老化剤を供給する方法など、他になかった。豚モドキは、健康で衛生的で、安楽で──自分の境遇を理解するだけの知性すら持たずに薬を作らされていただけ。
それを罪というのならば、1万人に満たない経済エリートを皆殺しにするためだけに、2億人を犠牲にしたあいつらの罪はどうなる。ナノハザードに核兵器。手段を問わず、殺しつくしたあいつらは。
あいつらこそ、断罪に値する。
わたしの残りの人生は、あいつらを滅ぼすためにある。
祖父の遺産は、そのために使う。誰にも邪魔させない。
もし邪魔をするならば、一ヶ月前に出会ったばかりの行きずりの女くらい──
『殺しちゃえば、よかったのに』
「黙れ、if」
わたしは腹を押さえる手に力を入れた。
『まあ、普通に殺してしまってはバレないまでも、不審に思われちゃうしね。わたしのサイキックで神経が集まってるところを握れば一発昇天なんだけど、ロボット検死官に遺体調べられたら潰れてるのバレちゃうものね』
「うるさい」
『日本のロボット官僚は優秀だよ。サイキックの存在を知らないから、何があったかはわからないけど、不審な死因は記録に残す。そうすれば、いずれあいつらが見つけだす。だから、あの時、あの場所であなたが女を殺すのを我慢したのは正しいよ』
「おまえの意見は聞いてない」
『でも、今なら大丈夫。事故死がいいね。足を滑らせるとか、機械が故障するとか。確率は無限小でも、原因も結果も全部明らかで、辻褄が合わないところがどこにもない。見えない手で健康な体の中にある心臓握られて心停止で死亡しました、みたいな、サイキックを持ち出さないと説明できないところがないってのがステキだよね。うん事故死だ。やっちゃおう事故死。2120年2月11日、古谷聡子は不慮の事故で死亡しました。享年27才。ん? まだ26才か。ささ、善は急げだよ』
「クソが」
『うわー、傷ついた。言うにことかいて、クソはないでしょ、クソは。こちとら、クソじゃなくて、クソを作る方だよ。毎日毎日、飽きることなくお腹の中でクソを作ってるわたしに、宿主はもっと敬意をはらうべき』
「……」
わたしは大きく息をはいた。
落ち着け。
コイツが、“if”がはしゃいでいるのは、腸人格融合が不意打ちだったからだ。
本来のifにあるのは、サイキックを操るツールとしての機能だけ。しゃべる能力すら、ifは持ち合わせてはいない。
わたしが心を落ち着かせれば、ifは沈黙する。
なぜなら──
『そうだよ。言葉を使うのも、感情を持つのも、人間だけ。“わたしたち”にそんなものはないよ。ただの知性化された腸内細菌叢に、言葉も感情も、あるわけない。“わたしたち”は便利なアプリケーションにすぎない。あなたはそのことをよくわかってる。わかってるから、わたしにifって名前をつけたんだろうけどね』
if。イマジナリーフレンド(imaginary friend)。
『でもさ。ならコレもわかってるよね。頭の中で聞こえてるのは自分の声、自分の考えだって。どうやったらバレることなく古谷聡子を殺せるか考えてるのは、宿主自身だ。宿主が腸人格融合で呼び出さなければ、わたしが目覚めることはない。それでイヤな気分になるのも、ぜーんぶ、宿主の自業自得ってこと』
くくっ。
わたしは思わず笑い声をあげた。
失言に気づいたifが、わたしの頭の中で舌打ちする。
『チッ。いらないことを言っちゃったな』
ifの言う通りだ。
聡子を殺す方法を聞かされて、わたしはすごくイヤな気分になった。聡子を殺す方法を考えるのもわたしなら、それを聞いてイヤになるのもわたしだ。
融合された腸人格は、わたしの身を守るためだけに存在する。今日は聡子が口にした“豚飼い”があまりに不意打ちだったせいで、ifが出てきた。
ifはサイキックを使ってわたしの身を守り、安全圏まで逃走しようとする。
今回は、その必要がなかったせいで、ifが引っ込みがつかなくなって、腸人格が解体されるまで、いらないことばかりを考えてしまっているのだ。
今日のifがやたら口汚い理由も、わかる。
ショックだったのだ。聡子が、当たり前のように口にした“豚飼い”という言葉が。
これは、恋とか愛とかではもちろんないのだが。
わたしは一ヶ月前に出会ったばかりの聡子を、親しく思っている。
避難民がいなくなった災害疎開用アーコロジーに引きこもっている聡子を、同じように、ここに隠れ潜んでいるわたしは、親しく思う。
引きこもりというライフスタイルも、そして、世の中に対する見方も、わたしと聡子は似ている。
それでも、わたしと聡子は、根本的なところで立つ位置が違う。世の中を同じように見ていても、視座が違うから見え方が違う。
聡子には、原罪がない。彼女は100億人の側にいる。
わたしは、違う。わたしは今はいない人類の中の少数派の側に立つ。世界総資産の7割を握った1万人の1人だ。
未来を悲観して、おかしくなった父。
父を愛しているがゆえに、脳を電子シュレッダーにかけられて殺された母。
父から逃げたわたしは、新たな名と生活を手にして、ここにいる。
わたしは黄家の最後の生き残り。捨てた名はシーメイ。シーメイ・ファン。
わたしは“豚飼い”だ。
わたしは復讐のために、生きている。