13.引きこもりは赤ん坊に出会う:2120年3月15日(1)
想像してみてほしい。
あなたが、まだ首もろくに座ってない、柔らかな頭をした、まるまるとした赤ん坊を手に抱いているところを。
抱いているだけでわかる、重心の悪さ。上すぎるだろ。こんな重心が不安定な存在が、自然界で存在できるとはとても思えない。せめてしがみつくくらいの協力をみせてくれなくては、落っこちるぞ。こちとら素人なんだ。
いや、どうせならこっちから落とすか。
悪魔のささやきがわたしの──いや、あなたの脳裏に浮かぶ。
両手をたかだかと差し上げ、振り下ろす。やることはそれだけだ。ついでに赤ん坊を思いっきり床に叩きつける。赤ん坊はどうなるだろう。頚椎損傷で即死か? 即死でないまでも、ただではすむまい。泣き出すか? 泣く力も残ってないか?
そしてわたしは──いや、あなたは罪に応じた罰を受ける。
赤ん坊に対する暴力というのは、人として最低の行為だ。何をして“人として”とするかは時代、文化によって異なってくるが、共同体の次世代を守り育てることは、社会のどこでも正しいこととされる。江戸時代の日本では嬰児殺しが行われていたと読んだこともあるが、それが当時の倫理においても、よきこととされたわけではあるまい。仕方なく、罪悪感を抱きながらやったことだと思う。戦車から子供を蹴落とした劉邦の場合はわからないが、あいつは人の心があるか怪しいからな。いや、人の心が善性も悪性もありすぎる男かもしれんが。
「ふぎぃ」
不穏な思考を察したのか、赤ん坊が失敗したくしゃみみたいな音をたて、しまりのない口のはしからよだれをたらす。あ、こら、指につくだろうが。
わたしが──いや、あなたが──ええい、くそったれ! 二人称で他人事感を出そうとしたが、そろそろ限界だ。
わたしはため息をつき、赤ん坊を可能なかぎり不機嫌な顔でにらむ。
「ぶべえ」
何を言いたいのかはわかる。『お前はわたしの専属ミルクタンクと違うようだが、苦しゅうないからミルクを出せ』だな。残念ながら、わたしのミルクは出ない。ミルク出すのは妊娠した女で、ミルク出し続けてる間は出産後も妊娠しにくいからってんで、文明以前から産児調整が必要な社会では何年も母乳で育てる文化が──いだだだだっ、髪をっ、髪を引っ張るなっ! しゃぶるな! きさまもホモ・サピエンスなら、人の話を聞けっ!
「ぶびっ! ぶびゃああっ!」
泣くな! よだれ撒き散らすな!
くそっ。
わたしは、赤ん坊を抱き上げた自分の行動を呪った。
いや、そもそも。
わたしは、赤ん坊を見つけてしまった自分の洞察力を呪った。
いやいや、そもそもそもそも。
わたしは、この場所に目星をつけてしまった自分の観察眼を呪った。
そうなのだ。
この場所は、アーコロジー内でも数少ない監視カメラが届かない位置なのだ。
え?
なんで、そんな場所を知ってるのか?
なにか、悪いことを企んでいるのだろうって?
いやいやいや、そもそもそもそももそもそ。
わたしは、住んでいる場所のセキュリティホールが気になる気質だ。広島大学跡地に建設された吉備2号アーコロジーに引っ越した時も、わたしは秘書AIと組んでアーコロジー内の保安チェックを行った。
犯罪は怖いが、それが理由ではない。
犯罪を怖がる己の意識が、煩わしいのだ。ビクビクしながら暮らすのは健康によくない。
住んでいる場所で、どのような犯罪なら起き得るか。その犯罪に予兆はあるのか。犯罪に巻き込まれそうになった時に、どのような対抗手段があるのか。準備は必要か。
そこでバディが21世紀のベトナム人ミステリ作家の復元人格を引っ張ってきて、アーコロジーの管理AIと一緒にああでもないこうでもないと数日かけて『吉備2号アーコロジーの事件簿』を作り上げた。あらかたはミステリ作家の復元人格の仕事だ。さすが本職で、管理AIが不可能だと断じていた完全犯罪までやってのけた。とはいえ、3人の犯人が同時に犯行を企て、1人が失敗し、1人が途中で事故死した流れの中に紛れて、1人が殺人も逃走も成功という、犯人も巻き込まれる偶発トリックのおかげなのだが。確率的には計算するのもバカバカしい条件設定だ。この完全犯罪が起きるのがどのくらい低い確率かというと、太陽系の創生記に土星くらいの質量の惑星が1個できて、3つの巨大惑星が弾けあって1個が内惑星軌道に落ち込んでホット・ジュピターに。地球はその衛星として生命誕生と独自の生物進化を遂げるくらいの確率。文字通りの天文学的確率の犯罪だ。
事件簿作成中、わたしはゲラゲラ笑いながらちゃちゃ入れをしていただけで何もしていない。あとで楽しく読ませていただきました。
事件簿作成の過程で、アーコロジー内の監視カメラの死角も見つかった。
死角といっても、管理AI曰く「必要がない場所」だ。
人間が入れない場所や、掃除などで巡回するロボットがチェックできる場所など、アーコロジー内の監視カメラ網には漏れがある。
わたしがさっき確認したのも、そういう場所のひとつ。アーコロジー内車道の扉のくぼんだところにある、配送業務で行き交うロボットが荷物の上げ下ろしに使う棚だ。災害疎開が終わった今は、配送業務の量が減っているので、一時間に一度か二度、ロボットが巡回するだけ。人が通ることは一日のうちに数回もない。
人と出会わずにアーコロジー内を散歩するには、もってこいの通路である。
そこに、この赤ん坊が置かれていたのだ。
「……は?」
わたしはぎょっとして赤ん坊を見つめた。
ここがカメラの死角なのは、覚えていた。一度、試しに棚の上に座ってみて、本当に監視カメラから隠れるのかバディ経由で管理AIに確認してみたことがある。通路の端に設置した監視カメラから確実に隠れるには膝を曲げる必要があり、子供でもなければ長時間は無理だという結論に達した。
「赤ん坊か。これなら隠れられるな。盲点だった……じゃなくて!」
左手の皮膚プリント回路を起動。アラートモード。
『どうしました?』
管理AIの声が天井から聞こえた。
「赤ん坊が、監視カメラの死角の棚に置いてある」
『保安Pロイドを急行させます。そこを離れてください。〈推定:赤ん坊〉には手を触れないように』
「わかった」
〈推定:赤ん坊〉かよ。管理AIらしい慎重さだ。
なにかで読んだな。
21世紀末のテロの中には、赤ん坊に擬態した生物トラップがあった。泣き叫ぶ赤ん坊の形をしているだけの、遺伝子改造したダミーキメラ。抱き上げれば、タチの悪いウィルスに侵される。テロリストのアジトに踏み込んだ特殊部隊がそれで壊滅したこともある。
人豚の逆だ。豚の形態をしていても、遺伝子的には人であった薬物工場と。赤ん坊の形をして、赤ん坊の声を出せても、遺伝子的にはいかなる動物とも異なる薬物トラップ。
人間の知恵って、他人を騙す時に最大限に発揮されるよな。
「ふぎゅう」
わたしが立ち去ろうとすると、赤ん坊がぐずり声をあげた。泣く一歩手前の声だ。人間の言葉にするなら『これ以上、わたしを放置する気なら、わたしにも考えがあるぞ。泣く。肺腑の底から絞り上げた声で泣く。未発達の呼吸器系に過負荷をかけ、声帯をあらん限り震わせて泣く。唾も撒き散らす。それでいいのだな? 考え直すのなら今のうちだぞ?』という意味をもたせた声である。
かまわないから泣けよ。この平和なアーコロジー内でお前がダミーキメラである可能性は、完全犯罪が成立するよりは確率が高いからな。わたしは我が身が可愛い。
「ふぎ」
あ。
まずい。
泣く。
止めないと。
気がつくと、わたしは赤ん坊を抱き上げていた。
赤ん坊がわたしを見る。ボンッ、と弾けてウィルスを撒き散らすかと思ったが、そんなことはなかった。
「……しょせん、わたしも動物か。ソロモンの指輪からは逃げられないのか」
わたしは慨嘆した。
慨嘆ついでに、廊下に設置した監視カメラの範囲へと移動する。
抱き上げてしまったものは仕方ない。アーコロジーの管理AIに見てもらおう。
『確認しました。危険はありません。可能であれば、そのまま保持していてください。30分以内に医療Pロイドを送ります』
「30分? なんかあったの?」
危険物でないなら、保安Pロイドを急行させないのはわかる。
だが、医療Pロイドにしても30分はかかりすぎだ。アーコロジー内車道を使えば、どこでも数分で到着するはず。
『トラブルが発生しました』
「ん。それは……いやいい。説明してくれなくても」
聞きたくない。
十中八、九。いや、十中十。
「……おまえの親がらみだろうしな」
わたしは抱き上げた赤ん坊に言った。
他人様の家庭の事情に踏み込むのはイヤなのだ。自分の家庭の事情を思い出すので。
「ぶっ」
「つばはくな。よだれ流すな。ああもう」
わたしは、赤ん坊の額に目をこらす。見えない。だが、赤ん坊の皮膚プリント回路はだいたいそこにある。生まれてすぐにロボット官僚によって割り振られる個人識別コードも記載されているはずだ。
「災害疎開が終わったアーコロジーで生まれたばかりの赤ん坊と暮らしてるんだもの。ワケアリなんだろう。おまえの親も」
「べ」
「待て。わたしは同じじゃないぞ? 成人済みだ。親の虐待はあったが、それはとっくにすんだことだ」
本当か? 本当にすんだことか? 本当にわたしの中では割り切っているのか?
胸の内にわきあがる疑問を、押し殺す。
「バディ」
わたしは自分の秘書AIに呼びかけた。
『はい』
バディの声が、天井から聞こえる。赤ん坊が「む?」という顔で声がした方を見る。管理AIの声の時には反応がなかったので、ちょっとうれしい。ふふふ。どうだ、いい声だろう。低くて落ち着いた、自慢の設定音声だ。こいつに本の朗読させるとすごいぞ。どんな本でも面白く聞こえちゃうからな。
「この赤ん坊、ここに暮らしてる子?」
『はい。管理AIから情報も来ております。法的に問題ない範囲でお教えしましょうか?』
「それはいらないけど……親が一緒に住んでるんだよね?」
『はい。母親と一緒です。その子の名前はメグミです』
「へえ。メグミちゃんか」
「ぶべ」
「ちゃん付けは不服という顔だな、メグミ」
「ぶぅ」
「ミルクはないが、しばらく抱いといてやるからそれで我慢……あ、無理。重い。何キロあるんだお前は。世の中の母親って、一日中こんな重いものを持ってるのか。信じられない。ちょっと休憩してもいいよね?」
数分しかたってないのに、もう手が疲れてきたので、一度、置いてあった棚に戻す。とたんに赤ん坊が顔を歪めて泣きはじめたので、あわてて抱き上げる。
「どうすりゃいいんだ、こんなもの」
「あの……」
「落とす気がなくても落ちるぞ。おまえも、もう少しは協力してくれないと」
「あ、あのっ。聡子っ、さんっ」
「へ?」
赤ん坊を抱いた、重心の高い状態で後ろを振り返る。体が斜めに泳ぐ。驚くほど近い位置に、遙華の顔があった。
「ふぇっ?」「きゃっ」「ばぶぅ」
反応は三者三様。驚き、のけぞり、髪を掴んで引っ張る。
「うわあっ」「いたっ」「ばばぶぅ」
ふらついたわたしと遙華の額がぶつかる。メグミは遙華の髪をしゃぶる。
わたしは床にへたりこむ。髪を握られたままの遙華も座る。よかった。メグミは落とさなかった。
わたしがほっとしてメグミを見ると、メグミが不思議そうにわたしを見た。
「ぶぅ?」
「……ははっ」
出会ったばかりの赤ん坊が無事なことに、わたしはこれほど安堵を覚えている。
人として組み込まれた基本プログラムの強さに、呆れるほかない。
「あの、お願いです。髪の毛。放して」
「ぶぅ」
「遙華。ダメだ。こいつ人の話を聞いてない」
「ぶぶぅ」
「痛っ。どうしたらいいでしょう?」
遙華が涙目でわたしを見る。
間近で見ると、遙華は美人だと、しみじみと思う。化粧や仕草で印象操作する必要がない、素のままの美人だ。素材美人。
だけど、素材美人という言葉は英語だと“豚飼い”を意味する俗語にもなるから使いにくいんだよな。
21世紀末くらいから、“豚飼い”たち上流階級は、ちょうどわたしが今抱いている乳児の段階で皮膚や筋肉や内蔵にナノ化処置を施し、健やかに育つように手を加えていた。ナノ化処置を施された赤子は大きな病気をせず、アレルギーもなく、歯並びもきれいに育つ。赤子を抱く親が望む「元気で育ってくれれば、他に何もいらない」という願いを、“豚飼い”は大金をかけて現実のものとした。親の願い通りに健やかに育った子は、ちょうど遙華のように素材美人になったという。
『手の甲か側面を撫でてみてください』
「え? 今の声は?」
「秘書AIのバディだよ。くすぐれってことかな」
『撫でるだけでよいと思います』
やってみると、メグミはすぐに手のひらを開いた。
遙華がほっとして赤ん坊がしがみついていた髪の毛を抜いて離れる。
「ありがとうございます。あの……この子はいったい?」
「そこの棚に置いてあった。親はどこにいるかわからない」
「……なにかトラブルですか?」
「わからない。でも、医療用Pロイドがくるのに30分くらいかかるって」
遙華の顔から、浮かんでいた照れとか焦りとかの表情がすっ、と消えた。おおう。こうなると素材美人な分だけ、迫力あるなあ。
「移動しましょう」
「え? いやでも、管理AIは……」
「どこに移動しても、管理AIはわたしたちの場所をモニタしてます。ジキル」
遙華の左手に、皮膚プリント回路が浮かぶ。
わたしと同じデザイナーのだ。前に紹介したのでちょっとうれしい。
遙華と秘書AIの会話は沈黙のまま行われた。わたしは気にしないのでアーコロジーの天井のスピーカーとか使わせてもらったけど、プライバシーだから秘書AIとの会話は非公開にする人は多い。
──きれいだな。
秘書AIとの会話を非公開の人でも、口がモゴモゴしたり、指がピクピク動いたり、目がまぶたの下でギョロギョロ動いたりする人は多い。
遙華は静かだ。彫像のように動きがない。左手の皮膚プリント回路が、キラキラと輝いているだけ。私が抱いているメグミは、じっとその輝きを見て静かにしている。
ふぃっとプリント回路の輝きが消えた。
「ぶぅ」
おや、お姫様は輝きが消えたことにご不満ですか。
「車を呼びました。乗りましょう」
「はい?」
アーコロジー内車道へつながる扉が開いた。大型のタクシーがいた。
遙華に促されるまま、わたしはメグミを抱いたまま、タクシーに乗り込む。
遙華がついて入る。
「どこに行くの? 外?」
引きこもりなのでアーコロジーの外はできれば勘弁したい。
「いえ。上層です。展望台に向かいます」
「展望台?」「ばぶぅ」
遙華はうなずいたが、それ以上の説明はなかった。
消えたままの表情と、再び輝きだした左手のプリント回路。
忙しそうなので、話しかけるのはやめにする。
「ぶばぁ」
「メグミ、おまえもしかして親が重要人物かナニかか?」
「ばあ」
メグミはくりくりとした目玉でわたしを見る。
クソッ、かわいいなぁ!
よだれだらけの、抱いてるだけで手が疲れるやっかいな重荷だというのに、守らねばならないという気持ちがふつふつと湧いて出る。
母性愛みたいなものが、わたしにもあったのか。そういえば、文明以前から人間は同じ移動集団の子であれば、血縁でなくとも狩猟採集した食物を分け与える行動をしていたという。22世紀には進化心理学はフロイトやユングと同じく過去の心理学カテゴリ扱いになっているが、今のわたしの感情を説明するには適している気がする。
「状況はさっぱりわからないけど、メグミ」
「ぶべぇ」
「なんかワクワクしない?」
「ぶぅ」
メグミがわたしの肩に、よだれと鼻水のついた顔を、ぎゅっ、と押し付けた。
マーキングされたのかな、これ。
つまり、わたしとメグミは同じ移動集団だ。タクシーに同乗してるから、遙華も同じバンドだ。
バンド仲間は守らなくちゃ。




