1話
叶えたい願いはあるか?と聞かれたら、大半の人間は”有る”と答えるだろう。
勿論、俺にも叶えたい願いはある。
だが、叶えたい願いに向かってがむしゃらに行動する者も居れば、
ただ神に祈り、願いが叶うのを待つだけの者も居る。
お前はどうなのか?だって・・・
笑わせるな、俺の次のアクションは決まっている。
それは・・・
”電車の手摺りを舐める”で決まりだ。
午前五時。
まだ寒さの残る春先、電車の窓から射し込む朝日に目をしかめる。
残念ながら席は空いておらず、疲れが残った俺の足は小鹿の様に震えている。
よれよれで皺が寄ってくたびれた有名ブランドの高級スーツと、
傷だらけでその本来の目的を果たす事が出来ない程に時間の狂った高級腕時計が
”偽物感”を漂わせる。
静まり返った車内。
いくつか駅を通り過ぎると、囁きにも似た小さな呟きが聞こえ始める。
会社の最寄り駅が近くなるにつれ、その数は増え続け、
いつしかお経の様に重なり合ったその声を聞く度に俺は思う。
「今日も仕事が始まる・・・」
午前五時半。
電車を降りた俺はコンビニに立ち寄る。
食べる必要があるのか分からない不味いパンを一つと、
選びもせずに適当に取った飲み物を買っていく。
貧乏で可哀想だと!?
馬鹿を言っちゃあいけない、俺の年収は二千万だ。
見栄を張るな、コンビニパン一つ野郎だと!?
お前は分かっちゃぁいない・・・
金は使う時間があってこそ楽しい物なんだ。
朝食如きに貴重な時間を使うなど、愚の骨頂だと言わざるを得ない。
俺は歩きながらパンを口に捻じ込む。
後ろを振り向けば、皆一様に無理矢理パンを口に押し込んでいる。
先月、俺の後ろでパンを喉に詰まらせた先輩が緊急搬送された。
享年35歳だった。
午前五時四十五分。
都心の巨大なビル群。
その中に死者と思しき者が列を成し、吸い込まれていくビルがある。
それが俺の勤め先。
エレベーター内は誰もが下を向き、無言だ。
チーンと音が鳴り、ドアが開くと各々が自らの戦地へ散って行く。
この時間に笑い声を聞いたことが一度も無い・・・
いや、一度だけ見た事があったな。
それは隣の部の課長だ。
エレベーターから降りずに涙を流しながら笑っていた。
エレベーターの扉が閉まった後も笑い声がずっと響いていたのを覚えている。
今はyoutuberをやっているらしいが、
ニュースで迷惑系だと知った。
午前六時。
我が第一営業部の朝礼が始まる時間だ。
総勢六十名が一斉にデスク前で立ち上がる。
その様子を満足気に見つめているのは、
部長の白長 平起だ。
見開いた目は血走り、目の下の隈は手書きかと思う程に濃い。
セットが不要な短髪と真っ白な歯が不健康な顔色をより際立たせる。
パリッとしたスーツに身を包み、貼り付いた笑顔を見せる部長の話が始まった。
「おはよう、今日も皆元気そうで安心したぞ」
部長の目はガンギマっている。
「まずは先月の我が部の目標達成率だが・・・
1058%だった!!」
一斉に巻き起こる拍手で窓がカタカタと揺れる。
部長の咳払いで一気に鎮まる。
「次に、個人の目標達成率についてだが・・・
おめでとう、会社 尽が821%だっ!!」
再度巻き起こる拍手の嵐で窓にひびが入る。
部長が手招きで俺を呼ぶ。
拍手の中を進んで行き、
部長のデスク前で俺は部長と堅い握手を交わした。
部長は握手したまま、俺の肩に手を回し話を続ける。
「なんと、月間残業時間のトップも会社 尽だぁー!!」
より大きな拍手が巻き起こり、窓ガラスを一枚吹き飛ばした。
総勢五十九名の視線が俺に集まる。
だがその瞳は豊洲市場の冷凍された魚より冷たく、
近所にあるどぶ池の水より濁っていた。
部長の咳払いにより静まり返る。
「今月も先月と同じ実績を社長は望んでいる・・・
出来るなお前達っ!!」
ここに居る全ての者が腹から声を絞り出して答えた。
「はいっ!!!」
部長は目を見開き、真剣な表情で力強く問いかける。
「出来るなお前達っ!!」
「はいっ!!!」
「限界を超えろ!!」
「はいっ!!!」
「限界を超えろ!!」
「はいっ!!!」
満足したのか部長は貼り付いた笑顔に戻ると最後に一言。
「今月も期待しているぞ」
その言葉に皆は最敬礼で応えた。
そして俺の肩と手は解放され自由の身となった。
俺はこの光景をここ二年間、毎月見せられている。
そう、俺の目が濁り始めた二年前からだ。
大学を卒業してこの会社に籍を置き、
既に八年が経っていた。
未熟だった俺は気付かなかった。
誰かの為に働く事を尊いと思っていたんだ。
だが、現実はそんな甘いものではなかった。
仕事に日々を食い潰され、いつしかそれが当たり前になっていった。
誰かの為になんて想いは六年という短い期間で簡単に砕け散る。
今はいかに自分の業績を積み上げるかという事しか考えていない。
かなり前の話だが、有給休暇の申請を断られた同期が入院した。
ここでは”休む”というのは堕落の象徴でしかない。
与えられた仕事の責任の重さと、
人生の時間の価値を天秤に掛けた事は無いだろうか?
本作品を御覧下さり、ありがとうございます。
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