逆さの虹が消える時(終)
コマドリさんが、どんぐり池の上空に差し掛かる、少し前。
彼女は伝達を終え、根っこ広場に戻ってきていました。
そこには、根っこから解放されたものの、地面に突っ伏してうめくアライグマくんと、その節々をさするリスちゃんの姿がありました。
すでに捜索隊はどんぐり池にたどり着き、クマくんが願掛けをしようとしている。それを伝えんがためにやってきたのです。
ですが、地面に降り立とうとした直後。雷のようにまばゆい光が、走りました。それはほんの一瞬で、「なんだ?」とその場の皆が、空を見上げます。
ややあって。クマの旦那が寝ていたウドの根上りから、アライグマくんのものより、ずっと大きいうなり声が。「もしや」と思うや、その声の主が空洞から出てきたのです。
クマの旦那本人です。息子であるクマくんよりもずっと大きいその身体は、二本足で立ち上がると、リスちゃんなどの小さい動物にとっては、山のよう。
旦那は悠然と、リスちゃん、アライグマくん、コマドリさんを見回し、尋ねます。
「あいつは……無事か?」と。
回復しかけたアライグマくんも含めて、三匹はクマくんの無事と、その行動を伝えると、「そうか、あいつがな……」と、感慨深そうに、自分の傷があった箇所を撫でました。
すっかり傷の跡はふさがっています。それは息子の働きが実を結んだ証。旦那はかすかに頬を緩ませました。
ですが、それも一瞬のこと。すぐさま表情がこわばります。
「あの光は、なんだ? こっちの方からだったぞ」
それはここに集っている、誰のものでもない声。
動物たちにとって、時に最も信頼のおける相棒であり、時に最悪の天敵でもある存在――人間のものだったのです。
更に、何匹もの犬の鳴き声と、草をかき分ける音も聞こえてきました。
響く足音そのものも大きいことから、それなりの装備を整えていることが分かります。そして、じわじわと強くなってくる鉄の臭い……。
どうやら彼らは、「後者」のようでした。そして、彼らは自分たちの言葉を、聞いてはくれないのです。
「お前たち、早く逃げろ。ここは俺が引き受ける」
クマの旦那は、すっと四つん這いになり、走り出せる姿勢を整えます。
「俺の血で、つけられたんだろう。尻拭いは俺がやる。早くあいつに、みんなにも知らせろ。『逃げろ』とな」
「そんな……ここでおじさんが死んじゃったら、クマくんは何のために!」
「勝手に殺すな」
リスちゃんの悲痛な叫びを、旦那はぴしゃりと押さえます。
そうこうしているうちに、犬の足音が大きくなってきました。ここにたどり着くのも時間の問題です。
「――了解だ、旦那」
アライグマくんが、ゆらりと立ち上がります。
「だが、俺も残らせてもらう。いくら旦那が強くても、『下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる』とは、人間の言葉だ。
弾除けはあった方がいいぜ。あいつらの弾がなくなるまで、逃げ切ってやる」
「好きにしろ」
旦那はアライグマくんを非難せず、身構えたままです。
「というわけだ。頼んだぜ、リス、コマドリ。早くみんなに伝えてやってくれや。もたもたしてると、お前たちまで危ない」
ダーン、と大きい音が響きました。広場の脇にある、一本の樹の幹から「くず」が舞いました。見つかっているようです。
「行け!」と、旦那とアライグマくんの声が重なります。
「これだから……男ってみんな、バカだらけ!」
リスちゃんが背を向けます。「森のみんなへの連絡、お願いね!」と去り際に言い残し、どんぐり池の方向へ。
そしてコマドリさんも、ありったけのはばたきを持って、空へと舞いあがったのです。
コマドリさんは、どんぐり池の周りを通り過ぎ、逆さ虹の森を上空から見下ろしながら、避難を呼びかけ続けます。
人間たちは犬と一緒に、いくつもの集団に分かれていました。先導役たる犬たちが先に仕掛けて混乱させ、スキを見た人間たちが鉄砲で討ち取る……手練れの狩人たちでした。
――どうして、こんなことに? 私たちは、静かに暮らしていければ良かったのに。
「ひんからから」と口では鳴きながら、心の中で叫ぶコマドリさん。
その問いに、眼下の人間たちが答えます。
「どうだ、順調か?」
「ああ、見るからにジジババばかりだがな。三匹は仕留めた」
「絶対に許さん。奴らに、孫も子も殺された……もはや命など惜しくないわ。これ以上の被害を出す前に、潰す」
「で、でも大丈夫なのかな。動物は執念深いと聞くし」
「だからこそだ。根絶やしにすれば、復讐に動く者さえいない。大小問わず、この森の生き物に容赦するな。
皆殺しだ。意趣返しが怖いなら、どいつもこいつも始末しろ」
聞いていて、コマドリさんは胸が痛くなってきました。
――お互いが、お互いの命を奪い続けてきた。
だから怖いんだ、どちらも。怖くて怖くて、憎くて憎くて……こんなことに。
もう、逃げるしかありません。
人間たちと関わらない場所へ。自分たちが迷惑をかけずに生きていける場所へ。
その思案が、気づくのを遅らせました。
わずかな空気の動き。はっとコマドリさんがそちらを見た時には、自分目がけて滑空してくる影があったのです。
タカ。しかも足にはひもがくくりつけられていて、人間に飼われているものであることを示していました。
――空にさえ、命を残さないというの!?
コマドリさんは避けようとしますが、相手はかなり鍛えているらしく、動きが段違いです。
捕まらないようにするのが精いっぱい。すれ違いざまに、タカの鋭い爪が、コマドリさんの羽を傷つけました。
コマドリさんの白い胸に、ぱっと赤い飛沫が飛びます。
もう羽が動かせません。姿勢を保てず、落ちるのみです。
あお向けになって落ちていくコマドリさんは、逆さ虹がすでに、七色のうちの一本。黄色の筋だけで空を覆いつくしているのを見ました。
――逆さの虹が森を包み込んでいるんだ。
そう思ったのを最後に、コマドリさんの視界は、不意に飛び込んできた、至近距離からのタカの顔でいっぱいになったのです。
どんぐり池からの逃避行も、容易ではありませんでした。
先行する犬たち。それを後ろから鉄砲で支える狩人たちを相手に、次々と落伍者を出していきます。
「無駄死になんて、まっぴらだ!」とばかりに、突っ込んでいく者もいました。しかしそれは、なおさら犬たちを刺激し、人間たちを怒らせ、火に油を注ぎこむばかりだったのです。
「そうら、こっちだこっちだ!」
今や、キツネくんがしんがりをつとめていました。犬たちの鼻先を横切り、少し離れては振り返って挑発する。それで多くの犬たちを引きつけ、鉄砲を無駄うちさせているのです。
しかし、犬たちは入れ替わり立ち替わりで、休みなく追いかけてきました。数が圧倒的に違うのです。
――これは、死んだかなあ。
ジグザグに木の間を縫って、鉄砲の狙いを定めさせないようにしようとするキツネくんですが、体力はもう限界に近くなっていました。
去年の父の死にざまを見ている彼にとって、死はいっとう近しいものでした。いつ自分に訪れても文句はいえない、そんなやっかいなお隣さんのようなものだと。
ついに一弾が、しっぽの付け根あたりに当たります。
痛みよりも先に、衝撃が走りました。よろめきかけてどうにか踏ん張った時、温かいものが足を伝って、ようやく「ああ撃たれた」と思ったのです。
動きが鈍ります。先ほどまで引き離していた犬どもの息が、もう肌に当たっていました。
限界。ならば、ここで最後の化かしをかますまで。
――お前たち、この森がずっと続いていると思っているだろう。
覆いかぶさるように、一匹がのしかかって噛みついてきました。それでも、キツネくんは速度を緩めません。後ろ足に関しても、何度か「ガチン、ガチン」と噛み合わせる音が響いてきました。
すでに追っ手との距離はない。でもそれは、キツネくんの狙い通りでもありました。
一気に視界が開け、夕焼けに染まる空が広がります。ですが同時に。地面の感触も消えてしまいました。
――森はね、ここでいきなり切れるんだ。知らない奴は誰だってひっかかるくらい、唐突にさ!
キツネくんは何匹もの犬と一緒に、宙を舞いました。
そこは、森を二分する川の真上。
オンボロ橋は、はるかかなたにちらりと見えるのみ。キツネくんの引き離しが功を奏した証です。
そのたもとに集まるみんなの姿を見て、キツネくんは笑います。
――この化かしは、僕の勝ちだ。
騒ぐ犬たちの声を枕に、キツネくんは静かに、その身体を川へと投げ出したのでした。
「身体の軽い者から、急いで! でも、あわてずにお願いしますわ!」
オンボロ橋は通行者で詰まっていました。
対岸と命をつなぐ架け橋は、もはやか細い糸のごときもろさ。誰かが渡り終えるのを待たないと、そのすべてが断ち切られかねないのです。
合流したリスちゃんは、自分が最初に渡ることに難色を示しましたが、「向こう岸の安全を確かめてほしい」という任務を与えることで説得。すでに向こうへ渡っていました。
樹上で過ごす小動物たちが、そろりそろりと渡っていく中で、待たされている者たちは気が気ではありません。身体を震わせたり、しっぽで地面を叩いたりと不安を隠そうとしないのです。
すでに鉄砲の脅威と、仲間の死を目の当たりにして、心が疲れていました。
――急がなくては。でも、焦ったりしたら、なおさら……!
ヘビさんの懸念は、すぐに的中します。
ヤマネコの一匹が通った時、縄の片側が、中ほどから切れかける音がしたのです。
すぐさまヘビさんは縄に絡みつき、切れかけた箇所に急行。身体と口を、縄の両端に結び付けたのです。
自分が縄の代わりとなること。ヘビさんは細長い自分の身体に、それを課せたのです。
もう声を出し、指示をすることはかないません。しかし、ヘビさんの意図はその場の全員に伝わりました。
続く彼らは慎重に、でも早足で進みながら、ヘビさんを通り過ぎざまに振り返り、向こう側へ。それに対し、まばたきで反応するヘビさんですが、すでに身体の内側で何本かの筋が切れている感覚がします。
――生涯最後の脱皮にしては……ちょっと、刺激が強すぎじゃありませんこと?
冗談交じりに自分を励ましますが、もうあとどれほどの時間が持つことか。しかも、クマくんをはじめとする「大物」がまだまだ残っているというのに。
ぷるぷると身体を震わせながら、耐えるヘビさん。「あと何匹、あと何匹……」と数えながら、持ちこたえますが、そこへ新しく加わったものがいました。
対岸に渡ったはずの、リスちゃん。彼女が引き返してきて、向こうの橋のたもとへ姿を現したのです。
一同は言わんとしていることを察知します。彼女の顔色はすっかり青ざめていたのですから。
「ダメ! 渡っちゃダメ! 人間たちが来ているの。こちらにも同じくらい。挟み撃ちになっているの! 逃げられない!」
ほぼ同時に、リスちゃんの背後から。そして、順番待ちをしているこちら側の後ろからも、犬たちが何匹も姿を現しました。
そしてその後ろからは、硝煙の臭いさえ漂ってきていたのです。
逃げ場はもう、ありませんでした。
夕闇がすっかり森を覆いましたが、森全体は赤々と燃えています。
人間たちが火を放ったのです。動物たちを殺して、殺して、それでも不安で、痕跡さえも消し去ろうとしていました。その憎悪を語るように、火はいよいよ止まず、どんぐり池の周りも、煙にいぶされ始めました。
「――ああ、心麗しきものたちよ。もはやお前たちは、ここにはおらぬ」
どんぐりを……いや、この土地の情報を蓄えた情報端末を身にまとう「神様」は、池から顔を出し、またスウッと空へ身体を伸ばしていきます。
その身体には、この森ができてよりのすべての命の情報が詰まり、引き出せるようになっていました。
「私はお前たちを守る術を持たなかった。だが作ることはできる。
お前たちが生きる森を作ろう。お前たちが生きられる姿を作ろう。あの空の、逆さ虹を台として、お前たちが生きた証を、確かな記憶とするために」
伸び続ける、「神様」の身体。周りを覆う炎の柱よりもなお高く、伸びていきます。
無数のどんぐりの形をした、情報の端末たちが、一斉に輝き始めました。それは逆さ虹さえ覆うほどの強さでしたが、それを見たものは誰もいません。
「ひんからから、ひんからから」
コマドリさんの声がして、クマくんは目を覚ましました。
頭がぼんやりして、いつの間に眠ってしまったかも、覚えていません。まだまだまぶたが重く、両目をこするクマくんの頭を誰かががしりとつかみました。
「おはよう」
そこにいたのは、父親でした。先ほどまで寝込んでいたはずで、大きなけがを負っていたはずの。
けれどもその胸、その背中には、わずかな弾の跡も残っていません。
「神様が、本当に願いをかなえてくれたんだ」とクマくんは微笑みます。
「助かったよ。俺はお前のことを誇りに思う」
父親が手を引っ張ってくれます。
穴の中から這い出した彼の前に、いつもの根っこ広場が広がりました。
キツネくんがいます。リスちゃんがいます。ヘビさんがいます。アライグマくんがいます。
それだけではありません。確かに死んでいたはずの、彼らの両親、家族、仲間もそろっていて、楽しそうに語らっていたのです。
「みんなが待っている。行くぞ」
父親につられて踏み出すと、みんなが一斉にこちらを向いて声をあげました。
それらのまなざし、感謝の言葉はすべてクマくんに向けられています。
身体のどこかにチクリと残る、喧騒ではありません。心地よい温かさに満ちた祝福です。
クマくんは身体が次第にぽかぽかと温まり、ふわふわと軽くなってくるのを感じていました。
思わず天を仰ぎます。いつも目にしていた逆さの虹はそこになく、阻むものを失った空は今までにないほどに澄みきっていました。
――こんなにも天気がいい日だったらきっと……どこまでも、飛んでいけそうな気がするな。
クマくんは、みんなの輪の中へと入っていきます。
自分たちが育ち、今は焼け野原となってしまったかつての森を、はるか下に見下ろして。




