サヨナラのことば
俺は、何だろう。
俺は一体何なんだ。
記憶が酷く曖昧になっている。
意識がはっきりとしない。
俺は誰で、ここはどこで、今まで何をして、今まで何のため生きてきたのか。
全てが分からない。
ものを語ることも、出来ない。
三人だけが村の手前で立ち止まっている。
他の者は関わりたくない一心で見て見ぬふりをして、そそくさと自分の家へと帰って行った。私は正直に言って、そのことに怒りを覚えるわけはないし、だからどうしたと思うだけであった。
もともと、もうすぐこのどうしようもない人生に終止符を打とうとしていたところ、それならこのまま魔庭界に連れて行かれてもいいってものだ。いや、まだ連れて行かれると決まったわけではないし、そもそもエルに用があるのかもしれない。
そう考えていた私だったけれど、横に並んで立っていた私たち二人の中で、あえて自分の前にこの男は立ったのだ。それでエルに何かするわけもなかった。
ラオブは、私の、エルと繋いでいない方の手を取って歩き出そうとする。私は特に抵抗することなく足を踏み出した。
しかし、エルと繋がれた手は離れなかった。もう力は入れていないのに、その糸が切れることはない。
彼の方から握ってくれている。
何か、彼の中で変化が起きたのだろうか、十年前と同じようなシチュエーションに立たされたことで、心に影響が……?
わずかな、ほんのわずかな希望が見えたと思った。何より、私の手を握ってくれたことが――嬉しかった。嬉しいなんて感情が生まれるのは、果たしていつ以来だっただろう。
だがしかし、いくら希望があったとしても、今いる場所はすでに絶望の底なのである。
暗く、深い。
かすかな光などあっという間に消え失せる。
ふいに金属のこすれるような音がして、振り向いた。嫌な予感がする暇もなく、眼前には鈍色の輝き、私の希望を切り裂かんとするくすんだ光。
無造作に振り上げられたラオブの、その剣の向かう先は、彼の右腕。私を掴む、細い腕。
その鉄製の剣がエルの骨すらも斬ろうとした瞬間、無意識のうちに私は彼を押していた。あまりに抵抗がなくて、空気に触れているのかと思ったけれど当然そんなことはなく、振り下ろされた切っ先は私の肉を抉る。
勢いに負けて倒れ込んだエルの右手には私の左腕がくっついていて、つまり私の左腕は肘から先がなくなっていた。
痛い、とは感じなかった。
また少し、嬉しい、と思った。
まだ私の手を握ってくれている。
やっぱり彼の心境に何かしらの変化が起きている?
期待が少し増す。
だが。
噴き出した赤い血で地面が染まっても、目の前で幼馴染が腕を斬られていても、しかしぞれでもエルは何もならなかった。瞳には生気などない。
じゃあさっきのは何だったんだろう。計算なんてしていなかったけれど、私に何かあれば少しは反応してくれると思った。私が傷つくことで、彼の心は感情を取り戻すと思った。
感情を取り戻して、それで?
あれ、おかしいな。もうとっくに諦めていたはずなのに。ついさっきまでは死んでもいいとか考えていたのに。少し光が見えたらそれに飛びついて、ダメだったらすぐに腐って。私はどうしたいんだろう。……どうしたい?
彼に――――どうしてほしい?
脳内で今までの出来事が次々と再生された。
幼き頃に三人で見た夕日。
走り回った日々。
辛くとも苦しくとも、それでも笑っていた。
いつから、いつから私はこんなふうになってしまったんだろう。
エムが連れ去られた日。
エルが壊れた日。
枕を涙で濡らした日。
涙が出なくなった日。
彼が言葉を話さなくなった日。
辛くて苦しくて、そして笑うことのない地獄のような日が続いた。今も、続いている。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、そして縋りつくように目の前に座り込むエルを見た。
私の血で赤くなった彼の姿を見た途端、どこかでプチンと音がした。ような気がした。
「なによ…………なによなによ何なのよ‼」
喉が張り裂けんばかりの声を出す。
「エルのバカ‼ ばかああああああ」
私の叫びを、十年分の鬱憤を、正面から受けても何一つ反応を示さない彼を見ると、更に怒りが込み上げてきた。
今自分の左腕がなくなっていることなど、まったくもって気にならない。
「なんで何も言ってくれないの? どうして何もしてくれないの? 本当に私のこと忘れちゃった? 何もかも全部なかったことになっちゃった? ―――私、そんなの嫌だよ。これまでの十年間、私がどんな気持ちでいたかわかる? エムはいなくなって、貴方は壊れきって、一人でこんな世界を生きてきた私の……気持ちを」
最後のは完全に八つ当たりだった。
私こそ、彼の気持ちを分かっていない。
目の前で弟を連れ去られて、知らぬ間に母親を殺されて、心を粉々にされた彼の気持ちが分かるなんて口が裂けても言えない。
でも、言葉はとめどなく溢れてくる。
まるであの時の涙のように。
「今までたくさん我慢してきた。何があっても、何も返してくれなくても、それでも頑張ってきた。……仕方ないって、あんなことがあったんだからこうなっても仕方ないって、そう考えてきた。でもじゃあ納得したかって聞かれたら、そんなわけないよ。そんなこと、あるわけない。嫌に決まってるじゃない、悲しいに決まってる、苦しくて辛くて、死にたくなる。―――死にたくなった」
事実、今日の出来事がなければ、近いうちに死んでいただろう。もちろん、彼と一緒に。
「死にたくなったよ、死のうと思ったよ。でもダメ。やっぱり死んでたまるか。虫のいいやつだとかそんなこと思われてもいい。だって、まだエルに伝えてないことがあるから」
そこで少し息を整える。
「…………エル、もう一度私のことを見て。あの時の笑顔をもう一度見せて」
反応はない。
「声を出して、言葉を聞いて」
反応はない。
「心を開いて、心を受け取って」
反応は。
ない。
……もうだめなの?
そんな考えが浮かぶと同時に、頭がもやがかかったかのように暗くなる。目の前が少しゆがんできた。血を流し過ぎたのかな。それもそうか、斬られた腕もそのままにエルに向かって怒鳴りつけていたんだから。そろそろ何らかの手当をしないことには、本当に意識を失ってしまいそうだ。
でもまだ終わってない。
私の想いはまだ。
ピントが合わない視界で、それでも彼の姿を捉えようとする。未だ座り込んでいるエルに向かって近づこうとするが、そこで再びラオブに右の腕を掴まれた。
何だよ、邪魔するなよ。
力任せに振り回した結果、思ったよりも簡単に放れた。その理由は分からなかったけれど今はいいや、どうせ何も喋らない人だし、そもそも表情すらない。
ん、人ではないのか。
そんなことはどうでもいいか、もっと大事なことがある。
数歩先にいるエルの元へふらつきながらも足を向かわせる。正面に立ち、見下ろすような形になったところで彼が少し顔を上げた。
空虚なその瞳は、魔霊のそれよりも見たくないものだったけれど、今この時だけは逸らしたくなかった。崩れそうになる心をグッとこらえて、睨むように目に力を入れる。
左腕を振り上げて、彼の顔目がけ……あ、左はなかったんだ。すっかり忘れてた。
気を取り直して、右腕を振り上げて、彼の頬を思いっきり叩いた。
すっかり人の姿もなくなった村の門の前に、乾いた音が響いて消える。私の精一杯の一振りを喰らった本人は、首を少し横に向けたままの姿勢でいた。
「はぁ…はぁ」
大量の出血をして怒鳴り声をあげ、フルスイングのビンタをやってのけた私は、もう限界だった。息も切れ切れで今にも倒れそうである。
まだ、ダメ?
それなら、お願い、もう少しもって私の身体。あとほんの少しでいいから。
今度は叩いた右手でエルの頭を掴む。握力もほとんどないけれど、抵抗はされないからすんなり首を回してくれた。
再び目と目が合う。
「ねぇ、エル。聞いて」
この言葉が彼に届いていることを信じて。
私は、言う。
「エルのことが――――好きだよ。この世で一番。そりゃ確かに、今までこの村から他所へ行ったことのない私にとって、世界はここでしかないけれど、たとえ全人類と会っていたとしても私はエルを好きになる」
心臓がバクバクいってる。
そんなに生き急いだら、ほんとに死んじゃうよ、私。
「…………っ。エルの太陽みたいな笑顔が好き。儚い憂い顔が愛おしい。無邪気な様子が恋しい。時折見せる優しさが温かい。エムと掛け合ってる姿が楽しい。その心地よい声に焦がれる。真剣な眼差しが慕わしい。―――もしも世界がこれ以上に悲惨であっても、貴方が貴方であるのならば、私はエルを愛するよ」
これで、最後。
「もう何も守ろうとしなくていい、お母さんの仇を取ろうとしなくていい。エムも、私のことも救わなくていい」
だから。
生きて。
人間として、人間らしく。
「生きて」
ここで私の意識は途絶えた。
そして私の物語も潰えた。
バイバイ、大好きな人。