抗えない選択
奴霊召喚と呼ばれるものがある。これは言わば儀式のようなものなのだろうか。実際にその現場に居合わせた人間はいないのでその詳細はハッキリとしない。厳密に言うのであれば、居合わせた人はいなくともその儀式の渦中にいた人間はいるが。
しかし今のところその人間たちは例外なくその記憶を失って、それまでの記憶を失って、新たに生まれ変わっているのだから、結果としてその詳しい事情は分からないでいた。
今分かっているのは、誰がつけたか定かではないその名称と、それが引き起こす現実のみである。しかしそれさえ分かれば、恐怖の対象になる理由としては十分すぎるのであった。
奴霊召喚。
魔族が行うこの儀式は、要するに人間を魔族として作り変えるものである。それまでの記憶はなくし、人間だったころ以上の力を手にして忠実な奴隷となる。そうなった者は魔霊、魔隷などと呼ばれていた。
先にも記した通り、その方法や目的はよくわかっていない。それでも現実に行われていることである。
愛する者が魔物に連れて行かれ、絶望の淵に立たされたと思いきや、ふらりとその者が帰ってくる。希望の光が照らされたのかと、顔を上げるも、そこにいるのは今までのそれとは違う存在になっていたという現実。記憶も感情も失い、ただただ操られる存在となったかつての愛する者を見て、次は絶望の淵から落とされるのであった。
その経験をした人間がこの大陸に果たしてどれほどいるのだろうか。
実際はどれほどもいないのだろうが。
この奴霊召喚、その回数は実のところあまり多くなかった。だからこそ情報量が少ないのかもしれないけれど、全人類の総数と比較すれば遠く及ばない。
だがしかし、量に問題はなくとも、その質には大問題があった。
狙われた人間はそのほとんどが表立った武闘家や剣術の達人、その他、人類が反撃の狼煙を上げる際に、先頭に立って率いていくような強き者だったのである。
大きな武術の大会で優勝した人は当然として、才能を見出されようとしていたもの。努力が実を結んだものや、未だ芽の状態でも将来に可能性があったもの、そんな人間が根こそぎ攫われた。
エルの村にいた男もその可能性があった側の人間だ。かつて行われていた大きな街の武闘会で、そこそこの成績を残していた彼も、遅まきながらに狙われた。小さな辺境の村だったからこそ今まで何もなかったのだが、とうとうその時が来てしまったのだ。
二人が剣術の修行を隠れて行うのは、魔物からの仕置きを恐れているというのもあるが、それに加えて攫われてしまう可能性を危惧してのことだった。
自分の力がまだそこまで達していないことは重々承知しているが、それでもありえないとは限らない。
村のみんなのことも、母のことも、幼馴染のことも、弟のことも、全てを忘れて憎むべき魔族の仲間になるなど、考えるだけで発狂しそうだった。
そして、彼らに悲しい思いをさせたくなかった。
村の男が魔霊となって帰ってきたとき、どれほどの悲しみが心を支配したか。こんな思いをみんなにさせるなんて嫌で嫌で仕方がない。だからこそ、俺がみんなを護ると誓った。
二度とあんな思いをしないために、二度とあんな思いをさせないために。
誓った。
陽が沈み始めて、あたりがオレンジ色に輝き始めたころ作業は終了となった。頬を伝う汗を拭って、背負った荷を下ろす。
まわりのみんなもそれぞれがそれぞれに片づけを始めていて、自分の家へと帰っていった。俺もエムのところへ向かって歩く。
「お疲れさん」
「兄さんも」
顔を上げたエムはそれでも疲れた様子はなくて、イキイキしていた。このあと家に帰ってやる特訓が楽しみなのだろうか。その気持ちはわからないでもないが。
二人並んで畑を出ようとする。
そこに一人分の影が増えた。
トートかと思った。
しかし目の前に立っていたのは、例の男。
魔霊となった村人だった。
「ラオブ……さん」
それは彼がまだ人間だったころの名前、今やそう呼ぶ人は数少ない。
その魔霊たる証の虹色に煌めく瞳は、見るに耐えないものだ。なるべく顔を合わせないようにして向かい合う。
彼がこうやって村の人に直接会いに来るのは珍しく、不安な気持ちばかりが押し寄せてくる。もしかしてあの秘密がばれたのだろうか、子供の場合はどうなるのか、いやそもそも相手に子供とか大人とかは関係なかった。となると今この場で殺されるのか。何とかして逃げる手立てはないものか。
母は、トートは。
様々な思考が頭の中を駆け巡っては消える。
その間、彼は何一つ言葉を出さなかった。じっと二人の顔を見ている。交互に見ては、どちらがどちらなのか区別をつけているようでもあった。
嫌な予感がする。
そして二人が行動を起こす前に彼が喋りだした。
「お前が、プリクエム・アフターワードだな。来い」
そして選択されたのは弟だった。
驚愕に染まる二人をよそに、ラオブは弟のエムの首根っこを掴んで持ち上げる。軽々と担ぎ上げられたその姿を見て、硬直がとけた。
「て……っめ‼ エムを放せよ‼」
一瞬にして頭の中が真っ赤に染まる。肩に乗せられたエムが暴れまわるが、そんなことはお構いなしにラオブは村の出口の方へと歩き始めていた。
このまま連れ去るつもりかよ。
誰がんなことさせっか。
「兄さぁん‼」
「待ってろエム!」
完全に背中を向けているラオブに対して走り、その肩にいる弟目がけてジャンプをした。
エムが手を伸ばしている。
兄弟の手が触れた瞬間、男は振り返ると同時に空中にいるエルを蹴り飛ばした。
「がっっ――はぁ」
ただでさえ戦闘能力の高かった男である、それがさらに奴霊召喚によって力を増幅させたのだ。子供の身体と力しか持たないエルは、その威力に耐えられるはずもなく数メートルの距離を飛んだ。
骨折どころか、死んでいてもおかしくない一撃だったにも関わらず、打撲で済んだのは運が良かったからか、はたまたエルが持つ潜在的な格闘センスからか。
弟が連れ去られようとしている時点で、いや、こんな世界に生まれた時点で運が良いも何もないのだが。
かくして吹き飛ばされた兄は、置いてあった収穫用の籠に激突し、中に入っていた作物を散乱させる。
目の前がチカチカして、二人の姿がよく見えない。みぞおち近くに喰らったため、呼吸がままならない。手足がしびれて立つことすらできない。それなのに怒りの感情だけは溢れだしてくる、今にもこの口からこぼれ出そうだ。
「ま……て、よ」
やっと出た言葉は、少しの風にも消えそうなほど小さく、相手に届くことはない。
視界が回復したとき、既に二人の姿はなかった。それでもまだ村の中にはいるはずだ。言うことを聞かない身体に苛立ち、声を張り上げる。
するとそれに反応したのか、それとも今までエルの耳もやられていたのか、かすかに弟の声が聞こえた。それだけで、まだ戦えると思えた。こんな程度で諦めていたら人類最護などと名乗れない。
何とか起き上がり、すぐさま追いかける。それでも足はふらついているが、まっすぐには進めているはずだ。肺が悲鳴を上げているが、そんなことはお構いなしにただ走る。
すると村の出口ギリギリでその姿を捉えた。
「エル兄っ‼」
ここまで来れば弟の声もはっきりと聞こえる。走る速度をさらに上げて、ゆっくりと振り向いたラオブに視線をぶつける。もうあの目には怯えない。
途中で民家に立てかけてあった角材を手に取り、男の少し手前で止まる。ここはもう村の外だった。
深呼吸を繰り返して、息を整える。相手は未だ無表情を貫いていて、何を考えているかなんて見当もつかなかった。それでも関係ない、今はただ弟を取り返すことだけ考える。
勝算がないわけではない。
活路は、ラオブが左腰に下げている剣。
あれを何とか奪って、その首を落とす。
かつては村の仲間だったとはいえ、弟に手を出すのであればそんなことはどうでもいい。殺すことに躊躇いは、ない。
エルがこれほどまでに混じりけの無い、純度百パーセントの殺意を抱いたのは生まれて初めてのことだろう。それがこの歳でのことなのは悲しいし、さらにそれを向けた相手が元村人であるというのも救われない。
だが、そんな世界なのであった。
そして、実力のない者が、思い通りに事を運べる世界ではなかった。
感情をむき出しにした少年は、その狙いすらあからさまである。視線を腰の剣に送り続け、奪おうとしている様子が手に取るように分かる。そしてそれに気づかないままエルは向かって行ってしまった。
ラオブに担がれて彼の背中側に顔があるエムは、どうなっているのかが分からない。必死に後ろを見ようとするも、それは叶わなかった。
正面から飛びかかり左手に持った角材を振り上げて、ラオブに振り下ろす。相手の視線を右上に誘導しておいて、左の腰にある剣を狙った。しかし。
その分かりきった動きは簡単に予測され、ラオブの左ひざがエルの頭部を捉えた。自分から当たりにいったようなそのカウンターを受けて、あえなく地面に落下。
今度は声すら出ない。
脳が揺らされて視界がぼやける。目の前の男が増えたり減ったりしていた。
地面に倒れ込んだエルを冷ややかな目で見ていたラオブは、その左足で腹部を蹴り上げた。再び飛ばされて、木でできた門の柱に背中を打ち付け、内臓が圧迫される。背も腹もボロボロだった。
口がパクパクと動くが、それだけだ。
ラオブが何か言ったような気もするが聞きとることは出来なかった。
もう叫び声をあげるエムの声も、届かない。