おしまい
否、鮮血と呼ぶにはあまりにもそれは濁っていた。ラオブの血を全身で浴びるエル。何が起きたのかを理解するのに数秒を要した。
彼が持っていた剣は、今はエルのすぐ横の地面に転がっている。
そして、ラオブの右腕はなくなっていた。
今まで以上の力を籠めた右手が振り下ろされる瞬間、爆発するかのようにそれは弾け飛んだのだ。
まるで、内側からあふれ出る力に、肉体が耐えきれなくなったかのように。
その衝撃で、ラオブは仰向けに倒れ込む。こんな者になってもまだ、血は赤いのだと、場違いにもそう考えた。意識はまだあるようだが、起き上がることは出来ないらしい。
エルは手に持っていた木剣を支えに、ゆっくりと立ち上がる。そして近くに転がっていたラオブの剣を手に取る。
これで、終わる。
振り向き、横たわるラオブの元へ向かった。
彼を見下ろすように立ち、両手でグッと剣を握る。これから、俺は、この男を殺す。今更躊躇うことはないと思っていた。だがいざその瞬間に立つと、手が震える。
深呼吸を二回。
そして弟と、幼馴染のことを考える。
やっと、やっとだよ。
かの夕日のように燃える瞳を宿し、振りかぶったところで――――――――ラオブの左手がこちらに伸ばされた。
「え……る……」
「おま、え」
かすれた声で告げられたのは、まごうことなくエルの名だった。どうして今それを。先ほどから続く驚きの連続で、エルの頭はいっぱいいっぱいになっていた。
それは、かつて村人だった男の、最後の意思なのか。
共にこの世界に生まれた人間の、朽ちぬ心が動かしたのか。
魔物として再びこの世に生かされ、かつての仲間のことも忘れ、更にはその仲間だった者にまで手をかける。そんな地獄の様な存在になってしまった彼の最期の救いか。
エルを、思い出したのか。
そして、その手は、確実に、
エルの手の中に在る、命を絶つモノを、目指していた。
全身がサァッと冷えた。
その虹色の目に宿っていたのは、残っていたのは、人としての心ではなく、化物としての殺意だけだったのだ。
最後の最期まで。
人はここまでいってしまうと、もう元には戻れないのだと、そう突き付けられた気がした。
それを感じ取ったエルは、今度こそ躊躇うことをしなかった。
ラオブの首に刃が刺さっていく感触を、彼は涙を流しながら、握りしめる。
それは、嬉し涙か、悔し涙か。
きっと、本人にもわからない。
復讐を終えたエルに待っていたのは、果てのない虚無感だった。それは本人にしてみればおかしなことで、意外なことだった。
彼の本来の目的は弟や幼馴染を救うこと、さらには世界すらも救うと、そう言っていた。だからこその人類最護であり、そのための特訓だった。しかし、今のエルはそうではない。ただ復讐に囚われた人間であり、それを果たし終わった者でしかなかった。
月夜に照らされるその背中は、哀しみを纏い、虚しさをその内に秘めていた。
その姿が見るに耐えられなかったのか、村長が駆けだそうとした時、後ろの扉が勢いよく開かれた。その家は、先ほど助けた女性の家。そこから飛び出してきたのは幼い少女だ。わき目もふらずこちらへ駆け寄ってくる、その後に慌てて先ほどの女性が追いかけてきた。
子どもがいたのか、とぼんやり考えたところで、その少女に手を取られる。
そして、
「お兄ちゃん、ありがとう!」
まだ舌足らずなその口で、しかし満面の笑みでそう言われた。見た目は全く違うのに、幼いその様子から、かつての幼馴染が思い出される。自覚なく、目尻から熱いものが零れる。
少女は不思議そうな顔をして、そっと頬を撫でてくれた。とても小さく、しかし確かに温かいその手をギュッと握り、俯いて目をつぶる。
ありがとうの返しとしては不適切かもしれない、しかしそれでも言いたくて、口を開いたとき。
目の前を巨大な物体が横切ったような音がした。
何事かと思って顔を上げると、そこにいたのは、まごうことなき化物。先ほどのラオブのように人間の姿から変形したわけではないと、そう直感する。そんなこと感じなくとも、もともと知っていた生物だ。この村を見張る、化物のことなんて。
視線を横にやれば、ぼろ雑巾のように転がる少女の姿。ありえない方向に首が曲がっているのが見える。見えて、しまう。
少女を吹き飛ばした魔平兵が吠えるのと同時に、エルもまた叫んだ。
そしてラオブの首から剣を抜き、巨大化した猿の様な魔平兵へ一直線に向かう。自分の胴体くらいはあるだろう剛腕がふるわれるが、かすりもしない。
「遅い」
今までの戦闘で積み重ねられた疲労など、もはや感じない。剣を振るうたびに、魔物の指が、腕が、足が、腹が、背が、肩が、耳が、鼻が、目が、切り刻まれる。
細切れになった肉塊が足下にボトボトと落ちていく、そのうちの一つを踏みつけて、ぐるりと周りを見る。エルは既に三体の魔物に囲まれていた、それぞれ姿かたちは違えど、どれも普段村で見かけている。
こいつらのことを考えていなかったわけではもちろんない。ラオブを倒した後だろうと、倒す前だろうと、相手にしなければならないとは思っていた。しかしまず、先ほどのラオブとの戦闘自体が突発的な出来事だったのだ。その上こいつらとなんて――――。
「上等じゃねぇか」
願ったり叶ったりだと言わんばかりの表情。
「一匹残らず叩き潰して、肉片に変えてやる」
今の自分であれば、さして手間もかからず一掃できる気がする。この心に満ちる感情が何かはわからないけれど、しかしそれが俺を突き動かす。
その感情は黒いのか、白いのか、それとも、剣に滴る血のように赤いのか、当人にだけはわかっていなかった。
三者三様の唸り声を上げながら突撃してくる魔平兵をあざ笑うように見ながら、彼もまた走り出す。
月夜のこの出来事は、いずれ世界に出るエルにとってのただのきっかけに過ぎなかった。
遅かれ早かれラオブを殺し、村を出ていただろうが、それがたまたま今日であったというだけである。
今日はただのきっかけで、そして序章だ。
世界を変える物語の、ほんの始まり。
三人で始まった始まりは、たった一人となって始まりを終えた。
人類最護の本当の戦いが、幕を開けた瞬間でもある。
今はただ彼が、ここで死んでおけばよかった、と思う日が来ないことを祈るばかりだ。




